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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

だらだらした漬物談義

2011-12-28 03:27:05 | よしなしごと
 漬物はかつては保存食であった。
 いまでもそうだろうといわれるかも知れないが、旬の野菜や食材以外は手に入りにくい山間部などを除いては、もはやそうではない。
 それらの地区では、大根は沢庵漬けにし、蕪はじっくり漬け込み、野沢菜もまた然り、更には鰊やハタハタ、そして鰤などの魚類も麹に漬けて冬の食に供したし、いまもそうしている。
 琵琶湖周辺の鮒寿司を筆頭としたいわゆるなれ寿司もそのたぐいに属する。

 しかし、それらも含めていまではそうではない。
 だいたい、それらの食材は旬のいかんにかかわらず市場にあふれていて、わざわざ手間暇かけて保存する必要はもはやない。加えて冷凍などの技術もある。
 漬物にして保存する必要そのものがないのである。

        
            今日の漬物 赤蕪の浅漬け風と大根の糠漬け
 
 では、漬物がもはや保存食ではないとしたら、そしてにもかかわらず今も漬けられ、それらが流通するとしたらそれはどうしてだろう。
 答えは簡単である。保存食として始まった漬物が今やその食材の「調理方法」になったということである。わざわざ漬物にして保存する必要がなくとも、その食材に伝統的な技法を介在させることによって新たな旨みが引き出せるからである。
 都市の家庭でもぬか漬けを始め漬物を漬けるであろう。しかしそれはもはや保存目当てではない。調理として漬けるのである。

 わが家で保存としての漬物を賞味したのは亡母が健在で若いころ、四斗樽に漬けたたくあんが最後だったと思う。
 ただし、沢庵についていえば、亡母には申し訳ないが、その母、つまり祖母が漬けたものが最高だった。母のものが不味かったわけではない。市販のものよりはるかに美味かったと思う。
 しかし祖母のものはそれをも超えて絶品であった。干して塩と小糠は当然であるが、その他にいろいろなものを加えていた。柿を食べる際むいた皮、みかんの皮、その他いろいろなものを漬け込んでいた。それが何か詳細はわからない。たぶん、キムチが様々なものの味を含む複合的な味わいを持ち、それが各家々で違うのと似ているだろう。

 祖母が生きているうちに、といっても祖母が亡くなった頃にはそうした調理への興味は皆無だったのだが、そのレシピを聞いておくべきだったといまにして思う。以来、どんな沢庵も祖母のそれを越えるものにお目にかかったためしがない。

        
             正月用白菜を干した もう漬けてしまった

 つい回顧譚になったが、いま私も漬物を漬ける。もちろん保存としてのそれではなく調理としてである。
 糠味噌は三年ほど前、雑菌のせいか異常発酵したのでそれを放棄し、新しい糠床を作った。今は冷蔵庫の中のタッパーで眠っている。きゅうりやナスなど夏野菜が主体だから冬はお休みが多いのだが、時折だいこんやセロリを漬ける。

 糠漬けと並行して夏から秋には、水菜やかぶら菜、大根葉などの浅漬を作る。
 そして今は赤蕪や白蕪を漬けている。ただし、飛騨地方の赤蕪のようにじっくり発酵させるタイプではなく浅漬け風である。柚子や昆布、唐辛子を効かせてうまく仕上がると惣菜としてもアテとしても美味い。
 
 並行して白菜も漬けている。
 今年は既に三回漬けたが、二勝一敗である。一度はすこし乾燥が足りず、そこへもってきて塩が足りなかったようだ。今日4回目を漬けた。うまくいけば正月にというタイミングである。

   

 
 

 

コメント (2)
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