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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

 今夜はこれっしきゃないでしょう。 

2011-12-05 18:01:58 | 音楽を聴く
 モーツアルト『レクイエム』(死者のための鎮魂歌)<K626>
 今日は彼の220年目の命日で、ご承知のようにこれが遺作です。

 20年前、没後200年祭のザルツブルグでに行き、彼が洗礼を受けたという大聖堂でこれを聴いた時、不覚にも涙しました。
 宗教音楽のアウラはやはり教会にこそあるのかもしれません。

 http://www.youtube.com/watch?v=aQ7rqC23LOE
 http://www.youtube.com/watch?v=lrXdyJzHpE8
 http://www.youtube.com/watch?v=P6riJuxfPIY

 引用したのはその内の第1曲「イントロイトゥス」、第3曲「アニュスディ」と第8曲の「ラクリモサ」ですが全曲どの部分もいいと思います。
 旋律として繊細で私が心揺さぶられるのは第8曲です。

 指揮はかつての名指揮者カール・ベーム、ウィーン交響楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団などで、録音は30年以上前のものです。
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111年前、あなたは何をしていましたか?

2011-12-05 02:55:58 | 歴史を考える
 郵便局や銀行、書店へ徒歩で出かける道すがらに、の鎮守の森があります。
 「三角形の二辺の和は他の一辺より長い」という幾何学の近道を教える原理にのっとり、往々にしてこの境内を横切ります。
 昼なお暗く鬱蒼とし、どことなく霊気漂うといた雰囲気ではありませんが、昼中でもあまり人の気配はありません。

 かつてここへ来たばかりの何十年か前には、格好の子供たちの遊び場で、いつも子供たちが群れなし、わが娘や息子もここで近所の子と遊んだに違いないのですが、ここ何年もそれらしい子供たちを見たことはありません。
 境内にあった滑り台もブランコも鉄棒も、いつの間にかすっかりなくなってしまいました。

 私がガキの頃、寺や神社の境内はとてもいい遊び場でした。適当な広さで樹木があり、季節ともなると蝉や甲虫などの昆虫が出没し、また四季折々の社寺が催す信仰行事も子供たちにとっては楽しいリクレーションでした。
 今や少子化と子供たちの生活様式の変化で、社寺はそうした機能をすっかり失ってしまったようです。

       

 今やこの静寂な場は、さして信心深くなはい私の癒しの場です。
 やれサクラが咲いた、マンジュシャゲげがが咲いた、ツワブキが咲き誇っている、モミジが紅葉したなどなどと四季折々の様相を楽しんでいます。

 師走に入って草木も枯れる時期を迎えると、地表にひっそりしていたものが目立ち始めます。
 ここに紹介する石碑もそうです。
 石碑といってもその土台を含め、高さは50センチもないくらいで、当初私は無縁仏の墓かなぁと思ったりしていたのですが、考えてみたら神社の境内に墓というのも変な話です。

        

 その正体を知ったのは近年のことです。
 その石碑には以下のように刻まれています。

       納 奉
    も  け  明
    み  や  治
    ぢ  き  三
    三     十
    十  六  二
    本  本  年
          植
          付


 
 ようするに明治32年(1899年)、今から111年前にこの神社の境内に寄進された植樹の明細なのです。

 で、今はどうかというと正確には数えてはいませんが、確かにけやきは数本が大木となっています。一方もみじの方はおおよそ10本弱が健在で、時期になると美しく紅葉します(残念ながら今年はダメでした。おそらく気候条件によるものでしょう)。
 このもみじ、もし30本すべてが健在で美しく紅葉したらかなりの見ものだと思います。どういう事情で10本足らずになってしまっかのかはわかりませんが、いささか残念ですね。

 とはいえ、この碑は私の癒しの場であるこの地の樹木たちが、今から111年前に植樹されたものであることを伝える貴重なデータです。

 事件の連続ばかりが歴史ではありません。
 このささやかな植物たちの由来を物語る石碑もまた歴史的記述といえます。
 この丸い石に彫られた文字とあたりの木々を見比べながら、深い感慨にしばしふけったのでした。

 ちなみに、明治32年(1899年)はどんな年だったかはまさに様々なことがあってとしかいいようがないのですが、年表で見る限り各地で大火が多かった年ですね。
 同年の8月には富山で5,000戸が消失する火事があり、横浜では3,200戸が消失しています。そして9月には函館で2,000が火に呑まれています。
 当時の家屋は、木と紙と土が基本でしたから、火には弱かってのですね。

 この日本家屋の特徴はその後も続き、すぐる大戦での米軍による焼夷爆弾が猛威を振るった要因です。米軍はコストの安い爆弾で日本の家屋を総なめにすることができたのです。
 火の話をしてきましたが、東京にはじめて水道が給水され始めたのもこの年だそうです。

 鎮守の森の石っころのようなものからも歴史への門戸は広がるものですね。
 1899年、あなたは何をしていましたか?
 この9年後、今はなき私の養父が生まれています。
 私が生まれたのはこの39年後のことです。


 

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