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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

若者「論」のすべて <2>

2011-12-19 02:58:45 | 社会評論
 なぜこんなことを書き始めたかというと、「朝日新聞」12月14日の「オピニオン」欄で「若者論の不毛性」を主張する古市憲寿(ふるいちのりとし)氏の論説に出会ったからである。
 この古市氏、26歳でまさに若者まっただ中、社会学者でIT企業にも関わるマルチぶりで著作も既に2、3冊あるようだ。そこへもってきて結構イケメンなのだから思わず嫉妬してしまう(自分の年齢の三分の一近い若者に嫉妬してどうするんだ)。

 で、彼の言う「若者論の不毛性」について見てみよう。彼は若者論というのはしょせんは「居酒屋のコミュニケーションツール程度」のもので粗雑な論議にすぎないという。
 その粗雑さとはこうだ。ようするに、「若者論というのは階層差、地域差、性差を無視して世代だけに注目する乱暴な議論」だということである。
 なるほど、「今時の若者」の中からある種の特徴的な現象を抽出してあれこれ言うけれど、それに該当しない若者の多様性がそれによって見失われてしまっているというわけだ。

 それでは、そうした若者論がなぜ大人たちの間で絶えることがないのか、それについての古市氏の指摘はとても辛辣だ。
 「若者を『異質な他者』として区別しようとする若者論は大人の自分探しだと思います。」
 ようするに大人たちは、若者を論じるふりをしながら、実は自分たちを語っているというのである。
 「なあ、俺たちはあんなんじゃなかったよなあ」ということによって、自分たちのアイディンティティを確認し合い、互いの傷口を舐めあういささかルサンチマンに満ちた言説だというのである。
 彼はここまでは言っていないが、その含意するところはまさにそうなのである。
 「若者をおとしめて世の中が変わるんですか?」と彼は問いかける。

       
                  J・ポロック風に

 一方彼は、一見、若者たちにシンパシーを持ち、それを激励するかのような、「若者よ、がんばれ」、「社会を変えよう」といった呼びかけにも違和感を感じる。
 それは単に、「年配の方がやりたいことを都合よく若者にけしかけて社会を動かしたいという願望」の注入にしか過ぎないというわけだ。
 これに続く言葉は私にはズシンと応えた。
 「同じことを戦争の頃の大人たちはやっていたんですよ」
 
 そのとおりなのだ。
 あの頃、多くの若者達が「死して皇国の鬼となれ」とか「ひとたび戦場に出れば、英霊となるまで戦え」と戦場に引き摺り出され、事実あたら若い命を散らしたのであった。
 そう鼓舞した大人たちが戦後も生きながらえ、無節操にも始めっから「平和と民主主義」の徒であるかのように転向し、戦後復興経済の中でぬくぬくと財をなしたことは前回述べたとおりである。

 この件に関しての古市氏の結論は至って簡潔である。
 「むしろ、そういう人(若者を鼓舞する大人たち)が立ち上がったらいいんじゃないですか」

 参ったなあ、もう。
 サッカーの試合でいったら、5-0ぐらいの完敗である。

 でも私は諦めず、若い人達に語りかけたいと思う。
 高みに立った若者談義ではなく、同じ平面に立った年配者として、そしてすこしばかり多い歴史的経験者として、自分の経験を伝えたいし、若者からのリアクションのなかで自分の立ち位置を検証し続けたい。

 私は若者を総じてばかにすることはしないだろう。
 しかし、老いを馬鹿にする若者たちとは戦わざるをえないであろう。
 この間、映画館の入り口で私を突き飛ばした若者は許せない。
 といっても、その後ろ姿を睨みつけただけだったのだが。
 なんだかせこい話になってきた。

 世代論は難しい。
 時間の経過は、その推移のうちに身を置く私と他の世代との現象的な隔たりを増幅するからである。
 また古市氏がいうように、同一世代内部に様々な多様性があるからである。
 いずれにしても、他者の他者性を短絡したイメージで一括して論じる手つきは無効であろうと思う。
 日本人とは、中国人とは、ドイツ人とはといった単純な規定もまた同様である。



コメント
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