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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

図書館と美術館との間の南京ハゼ そして他者問題

2011-12-03 01:34:34 | 写真とおしゃべり
 わが家の菊へのオマージュに続いて、ここ数年間、定点観測を続けている岐阜県立図書館と県立美術館の間にある南京ハゼについても触れねばなるまい。
 毎年、四季折々に写真と共に報告してきたが今年はこれが最後になる。というより今年はあまり報告をして来なかった。

        
          12月2日現在 上の方の葉はもう散ってしまっている

 どうしてかというと、春に栗の花に似た匂いのする房状の花をつけ、やがてそれが青い実となり、その表皮が褐色になって中から白い実が顔を出す頃になると美しく紅葉するという一連の過程が、なんだか例年に比べ精細を欠いていたからである。
 つまるところ私自身が感動するような美しさにめぐり合わなかったからといっていい。

 もちろんそれはこの木のせいではない。この木はただ、与えられた自然条件に反応しながら自分の生命を維持する営みをまじめに果たしてきただけだからである。
 そして今年のそれが精彩を欠いていたとしても、おそらくそれはこの条件下においてのベストの反応であってそれ以外ではありえなかったといえる。

        
               さあ、いつ散ろかというさざめき

 それに対して、精彩がどうの感動がどうのとご託を並べるのは、こちらの勝手な、しかも私という偏狭な経験の束がもたらす主観的な美意識によるものに他ならない。

 私たち人間は、動植物や自然現象に対して当然のようにこうした主観的な評価を押し付けている場合が多い。
 それが高じて、美しいものとそうでないもの、鑑賞すべきものとそうではないもの、評価の対象にもならない虫けらや雑草などというランク付けがされることとなる。

        
          年によっては全部の葉が真っ赤になるときもある

 こうしたランク付けは一度成立すると意外と頑固で、ふとしたはずみに雑草や虫けらの中にきらめく美しさを見出しても、「これは雑草や虫けらだから」とまたしても評価外のランクへと突き落とすことにもなる。

 これはたぶん、私の中の他者評価の構造をも示している。
 他者を自分の主観的な鋳型の中へと嵌めこみ、評価し、そのことによって自分は揺らぐことのない自己同一性の中に憩うことができる。
 しかしそれは、他者の他者性を了解し損ねることであり、併せて自分の可変性をも損なうことではあるまいか。

        
             20日ほど前の同じ木 まだ青い葉もある

 などといくぶん高邁な調子で書いてきたが、実はこれ、前世紀の後半以来(厳密にはもっと前から)多くの思想家たちが手を変え品を変え語ってきたところで、では他者了解のその処方はなにかということも縷々述べられてはいるものの、例えば私などが平易に理解できるものは少ないように思う。

 一番理解できそうな言い方は、他者、並びに他者を取り巻く諸条件に関するおのれの「想像力」の拡張ということだが、その想像力がどのようにして涵養されるのかというとそれがわからない。

        
             同じく20日ほど前 こんな実がなっていた

 といったことで冒頭の南京ハゼに戻ろう。
 私の主観的な感傷はともかく、彼らがここまで頑張ってきたことを伝えねばなるまい。それがこれらの写真である。

 しかし、定点観測は面白い。
 この木の今年の変化を、しかもその例年との違いを、それと捉え得た人は少ないだろうと思う。
 私はそれをキャッチした。それでもって、それがこの木への私の「愛情」といってもいいのではあるまいか。
 

 

コメント
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