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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

小さきものたちよ! 見えたもの・見えなかったもの

2011-07-15 03:58:47 | 写真とおしゃべり
 さまざまなものに生命が宿り、それらは四季折々変化する。
 だから面白い。
 より小さなものたちには、私たちは観察者の優位に立つことができる。
 移ろいゆく彼らと不変のわれら。

        
           定点観測をしている美術館前のナンキンハゼの花

 もちろんこれは幻想である。私たちも移ろうものであり、小さきものたちへのまなざしの移ろいに私たちそのものの変化がある。
 普通、そうした変化はよりこまやかになるはずなのに、私のそれは次第に粗雑になる。観察眼が粗くなり見過ごす現象が多くなる。
 老齢のせいもあるが、俳人的細やかさの欠如という個性にもある。

  
        エゴの木の実               ハナミズキの実
 
 今年は例年通り見たものと、見過ごしてしまったもの、新たに発見したものがあってそれは五分々々なのだろう。
 県立図書館、美術館構内のナンキンハゼの花、エゴの木の実、ハナミズキの若い実はちゃんと捉えた。

        
                   わが家のムクゲ

 あたらしく見つけたものは、毎年秋にエメラルドの真珠のような実をつけるリュウノヒゲ(ジャノヒゲ)の花を捉えたことである。

 
          マサキの地味な花             リュウノヒゲの花
 
 悔しくも見逃したものがある。
 何年も前、どこから来たのかシャクナゲが玄関先のムクゲの陰に生えているのを発見した。初年度、申し訳程度に小さな白い花をつけたがその後は全く花を付ける様子がない。たぶん山土を盛って作ったこの土地が痩せているせいだろうと思ってそれ以降花は諦めたが、しかし来るものは拒まずでそのままにしておいた。玄関先のエコカーテンにでもなればという気持ちであった。

        
              石楠花の実 残念ながら花は見逃した

 で、つい先ごろ、、道路にいろんな枝がはみ出していては交通の障害になるだろうとそれらを刈り取ったのであるが、そこでエッと思うものを見かけた。それらはもう果実となっているのだが、まごうことなく私が諦めたシャクナゲの枝につながっていたのであった。
 こうした立派な果実があるということは、彼らはここで立派な花を咲かせていたのだ。

        
      毎夜の訪問者ヤモリ 二重なのはガラス戸の二重になっているところにいるため

 内側からしか自分のうちを見たことがなく、客観性に欠ける視点が見逃したものだがかえすがえすも残念であった。来年はこの場所での開花をちゃんと見届けたいと思う。

 私たちの視点が常にそれ自身恣意的であり、それを越えた自然の営みを見逃してきたものであることを痛感させられた出来事であった。


コメント (7)
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