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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

板取アジサイロード 川浦(かおれ)渓谷 株杉

2011-07-11 04:12:25 | よしなしごと
 梅雨は明けたが気の浮かぬことが多い。
 先ごろ、私自身が健康上の重大な嫌疑を受けたが、小規模な施術と自宅軟禁の結果、推定無罪で放免されたことはこの日記でも述べた。
 それと引き換えのように、以前はよく会い、今はネット上でやり取りしている親しい若い友人が入院のはめに至った。しかし彼も無事退院して予後の過程にある。

        
 
 それでホッとしたのもつかの間、今度は半世紀前からの友人(女性)が入院してしまった。1950年代からのつかず離れずの関係といったら幼なじみのようなものである。
 しばらく前から体調の不良を訴えいて、その病因が判明しての入院だから一歩前進とはいえるが、やはり、自分を励ましながら入院してゆく人にめでたいとは言えず、ただただ「早くお帰り」としか言えない。

        

 原発の問題も気にかかる。
 10万を越える人たちが避難生活を強いられ、子どもたちの健康がまるで人体実験のようにないがしろにされている時、そして、福島第一の後始末だけで数十年を要するというときに、原発再稼働の画策が進んでいる。
 その最たるものは九電だが、仕込みのサクラ公聴会とやらせメールで舞台を整え、しかるべく地方自治体の承認という手はずだった。

        

 いち早く再稼働を承認した玄海町長(あとで慌てて取り下げたが)は九電のファミリー企業の実質的なオーナーで、助成金の還流や九電の下請け仕事で17億の収入をを得ていることが判明した。
 また、佐賀県知事には九電幹部からの「個人献金」が何年間も継続していて、それは「個人」の意志を装いながら、代々「業務上?」の引き継ぎ事項となっていることも判明している。

                

 再開派の主張は明確で、「経済のために」である。おそらくこの経済には玄海町「岸本組」の17億円も入っていることであろう。
 もちろん念頭には自動車産業や重化学工業も含まれていることだろうが、しかし、この主張には極めて傲慢なものがある。

              

 被曝地の農民や漁民が、その作業すらままならず、また生産や収穫をしても市場に出荷できないでいることは広く知られている。
 それを尻目に「経済のために」というのは、農民や漁民の一次産業は経済ではないということになる。彼らは「経済」の外にいるのか?

           

 ものの生産の基本はまず自然を対象としてそこから人間にとっての有用物を採取し、その基礎の上にそれらを加工したり流通させたりするするのが経済活動であることは中学生程度の常識である。だから、加工業や流通業が第二次とか第三次と言われるのに対し、自然を対象とした生産者は「第一次産業」といわれるのだ。
 その第一次産業を破壊し、その復旧のめどさえついていない時に叫ばれる「経済」とはなんなのか?
 ここには零細主体の第一次産業切り捨ての「経済」という傲慢さがある。そこには、時折は食料の自給率低下を嘆いて見せながら、実際には「そんなこと知るもんか」という本音がある。今や「経済」は、そこで人々がものを採取したり生産したり流通したりする現実的活動ではなく、「株価」に還元されているのだ。

                  

 またまた長くなってしまったが、公私共に不快な折、一日、岐阜の山間部に逃避した。
 場所は板取アジサイロード、これでもかというほどの紫陽花と渓谷美、古い杉株の奇っ怪なオブジェが見ものであった。
 岐阜県人の私は、やはり山や渓が好きである。若き日々、アマゴやイワナを追っかけてそれらに分けいった思い出は今もくっきりと脳裏に刻まれている。

                

 入院した友の苦痛が少ないことを、そしてより早い帰還を祈りつつ・・・。

 

コメント (9)
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