数日前から蝉が鳴き始めました。
今年は全国的に遅いらしいのですが、そんな記録などつけていませんからこの辺でのそれが早いか遅いかはわかりません。
敗戦後の何もない疎開先の田舎で、よく蝉と遊びました。
というか遊んでもらいました。
その田舎で知っていた蝉は、いまからいうとアブラゼミとニイニイゼミ、そしてツクツクボウシと少し上流でなくヒグラシでした。
幼い私は、アブラゼミとニイニイゼミがいわゆる蝉で、大きいアブラゼミが雄で小さいニイニイゼミが雌だと思っていました。
ツクツクボウシはというと、蝉によく似たほかの虫だと思っていました。
だって、あんなに鳴き声が違って、しかも羽が透明だったからです。
ヒグラシも羽が透明なのですが、当時はその声は聞いても姿を見たことはありませんでした。
どうしてかというと、ヒグラシが鳴き始める時刻は夕方で、よいこの私がお家へ帰る時間だったのです。
ですからそのもの哀しい鳴き声は耳に残っているものの、姿を見たことがありません。従って蝉の仲間だということも知りませんでした。
ヒグラシとカジカは同じように夕方のもの悲しさを奏でる共演者でしたから、同じ種類の仲間かとも思っていたようです。
ようするに昆虫の分類などとは無縁のところで彼らと戯れ、その鳴き声を耳に焼きつけていたのでした。
蝉がなぜ思い出に残る昆虫かといううと、それは幼い私にも容易に捕らえることができたからです。低いところにいるものは素手で捕らえることができました。もちろん失敗してオシッコだけかけられてアバヨというのが多かったのですが。
ちょっと高いところのものは魚用の手網で捕らえました。昆虫採集用の網などは見たこともない時代と地方でした。
それでもたくさんの蝉がとれました。それほどいっぱいいたのです。
昨夜網戸で 羽化したばかりだが2cm位と小さいのでニイニイゼミか
小学生低学年のある日、近くの溜池の周りの桜並木へ蝉捕りに出かけました。いるわいるわ、ミンミンジージーうるさいばかりです。
どんどん捕らえました。20匹ほど捉えたでしょうか、その時私の頭に意地悪な問いが浮かびました。
こうやって蝉たちは木にすがって暮らしているのだが、木のないところではどうするのだろうかということです。
これは実地に試してみるほかはありません。私は捕らえた蝉たちとともに、そこから2、300メートルほど離れた田んぼへ行きました。周りには木などは全くありません。そしてそこで一斉に蝉を放ったのです。
彼らはてんでんばらばらに羽ばたいて遠ざかって行きました。
あるものたちは高く飛び、木のある方角へ向かったようです。
あるものたちは近くにあった土手に向かい姿を消しました。
そしてあるものたちはあえなく近くの田圃へ墜落しました。
きっと捕らえるとき、私が多少乱暴に扱ったものたちでしょう。
少年の日の私がそれを見てなにを感じていたのかは全く覚えていません。
ただ、あちこちへ黒い点になって飛び去った彼ら、そしてそれをなし得ず田んぼの水面でくるくる回っているような墜落組の彼ら、そのイメージしかありません。
かなしやななつのおわりのセミコロン
ところで、この回想のなかでどうしても思い起こせないのが、20匹近い蝉たちをどうやって田んぼの真中まで運んだかということです。ようするにそれをなにに入れて運んだのかということがすっぽり抜け落ちているのです。
虫かごなどという洒落たものが手に入る時代ではなかったことは先ほど述べた昆虫採取の網など見たこともなかったのと同様です。
蛍を入れる籠を麦わらで編むのを教えてもらったのは覚えています。しかし、その籠には蝉を20匹近くも入れることができないだろうと思うのです。
そうすると、あの夏の日、突き抜けるような青空に向かって飛び立った蝉の残像そのものが私の幻想にすぎないのでしょうか。こんなにもくっきりと思い出せるのに、そしてこの冗漫な一文のきっかけがその折の羽ばたく蝉たちのイメージであったのに。
もう60年以上前の出来事で、あったかどうかすら定かでない思い出ですが、私の中では飛び立つ蝉の羽ばたきがその音とともに生きているのです。
「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」が安西冬衛の「春」のイメージだとしたら、「蝉たちが田んぼのうえを飛翔した」というのは私の「夏」のイメージなのです(ちょっとかっこよすぎるまとめだなぁ)。
今年は全国的に遅いらしいのですが、そんな記録などつけていませんからこの辺でのそれが早いか遅いかはわかりません。
敗戦後の何もない疎開先の田舎で、よく蝉と遊びました。
というか遊んでもらいました。
その田舎で知っていた蝉は、いまからいうとアブラゼミとニイニイゼミ、そしてツクツクボウシと少し上流でなくヒグラシでした。
幼い私は、アブラゼミとニイニイゼミがいわゆる蝉で、大きいアブラゼミが雄で小さいニイニイゼミが雌だと思っていました。
ツクツクボウシはというと、蝉によく似たほかの虫だと思っていました。
だって、あんなに鳴き声が違って、しかも羽が透明だったからです。
ヒグラシも羽が透明なのですが、当時はその声は聞いても姿を見たことはありませんでした。
どうしてかというと、ヒグラシが鳴き始める時刻は夕方で、よいこの私がお家へ帰る時間だったのです。
ですからそのもの哀しい鳴き声は耳に残っているものの、姿を見たことがありません。従って蝉の仲間だということも知りませんでした。
ヒグラシとカジカは同じように夕方のもの悲しさを奏でる共演者でしたから、同じ種類の仲間かとも思っていたようです。
ようするに昆虫の分類などとは無縁のところで彼らと戯れ、その鳴き声を耳に焼きつけていたのでした。
蝉がなぜ思い出に残る昆虫かといううと、それは幼い私にも容易に捕らえることができたからです。低いところにいるものは素手で捕らえることができました。もちろん失敗してオシッコだけかけられてアバヨというのが多かったのですが。
ちょっと高いところのものは魚用の手網で捕らえました。昆虫採集用の網などは見たこともない時代と地方でした。
それでもたくさんの蝉がとれました。それほどいっぱいいたのです。
昨夜網戸で 羽化したばかりだが2cm位と小さいのでニイニイゼミか
小学生低学年のある日、近くの溜池の周りの桜並木へ蝉捕りに出かけました。いるわいるわ、ミンミンジージーうるさいばかりです。
どんどん捕らえました。20匹ほど捉えたでしょうか、その時私の頭に意地悪な問いが浮かびました。
こうやって蝉たちは木にすがって暮らしているのだが、木のないところではどうするのだろうかということです。
これは実地に試してみるほかはありません。私は捕らえた蝉たちとともに、そこから2、300メートルほど離れた田んぼへ行きました。周りには木などは全くありません。そしてそこで一斉に蝉を放ったのです。
彼らはてんでんばらばらに羽ばたいて遠ざかって行きました。
あるものたちは高く飛び、木のある方角へ向かったようです。
あるものたちは近くにあった土手に向かい姿を消しました。
そしてあるものたちはあえなく近くの田圃へ墜落しました。
きっと捕らえるとき、私が多少乱暴に扱ったものたちでしょう。
少年の日の私がそれを見てなにを感じていたのかは全く覚えていません。
ただ、あちこちへ黒い点になって飛び去った彼ら、そしてそれをなし得ず田んぼの水面でくるくる回っているような墜落組の彼ら、そのイメージしかありません。
かなしやななつのおわりのセミコロン
ところで、この回想のなかでどうしても思い起こせないのが、20匹近い蝉たちをどうやって田んぼの真中まで運んだかということです。ようするにそれをなにに入れて運んだのかということがすっぽり抜け落ちているのです。
虫かごなどという洒落たものが手に入る時代ではなかったことは先ほど述べた昆虫採取の網など見たこともなかったのと同様です。
蛍を入れる籠を麦わらで編むのを教えてもらったのは覚えています。しかし、その籠には蝉を20匹近くも入れることができないだろうと思うのです。
そうすると、あの夏の日、突き抜けるような青空に向かって飛び立った蝉の残像そのものが私の幻想にすぎないのでしょうか。こんなにもくっきりと思い出せるのに、そしてこの冗漫な一文のきっかけがその折の羽ばたく蝉たちのイメージであったのに。
もう60年以上前の出来事で、あったかどうかすら定かでない思い出ですが、私の中では飛び立つ蝉の羽ばたきがその音とともに生きているのです。
「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」が安西冬衛の「春」のイメージだとしたら、「蝉たちが田んぼのうえを飛翔した」というのは私の「夏」のイメージなのです(ちょっとかっこよすぎるまとめだなぁ)。