先週の土曜夜の小泉容疑者出頭のニュースを受けてというわけではありませんが、両事務次官OBと夫人の殺傷事件の一報後、不謹慎なヒマ推理に花を咲かせていた連中のひとりと今日になって電話で話す機会があり、「出頭だって、どう思う?」と訊いたら、“ズブズブの私怨説”だったソイツの表現がふるっていて「なんか、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話だよな」…
確かに、小学生時代に飼い犬を処分された憤懣が、30年以上ためにためられて、当該保健所の担当職員でも所長でもなく、中央の統括官庁たる厚労省の事務方トップの、さらにそのOBの、さらにそのご家族に凶刃を向けるきっかけになったとは、えらく遠回りした話のようです。
いまや、誰がどんな動機で誰を殺傷するのも“有り”になってしまったようです。むごたらしい事件の後「人を殺したかった、誰でもよかった」という供述が何回伝えられたことか。夫婦喧嘩でムシャクシャしたからという動機で、当の奥さん旦那さんでなくバス停で前に立っていた人を刺し殺すのも有りだし、八百屋さんの対応に腹が立ったからと魚屋さんを殺すのも有り。江戸の仇を長崎でじゃないけれど、東京でたまった鬱憤を、名古屋や大阪での凶行で晴らすこともあるかもしれない。
二・二六事件、ミッドウェー海戦等の局面での戦没者、戦災死者とその配偶者ご家族の声なき声を長く取材し数々の著作をものして来られた作家の澤地久枝さんが以前NHK教育TV『知るを楽しむ・人に歴史あり』で、「“異形(いぎょう)の死”を地上から無くしたい、私の取材調査や著述はそのためにある」という意味の発言をされていました。澤地さんの言う“異形の死”とは、家族に看取られ天寿を全うする所謂“畳の上”の死ではなく、徴兵や戦災、人災、処刑、犯罪などで人為的に、理不尽に命を断たれることです。
平和呆けと言えばそれまででしょうが、直近の戦争の記憶も薄れ、かつては不治、致命的な病だった疾病もほとんどが治療可能になって久しい昨今の日本、“命は長らえるのが当たり前”“病気も治って当たり前”になってしまい、“異形の死”をむしろひそかに待望、渇望するような風潮になっている気さえします。それも「自分が異形に死にたい」向きと、「異形の死を目の前で見たい、なんなら死なしめてみたい」向きに分かれるような。
今回の容疑者の場合、幼い頃のペット処分の記憶が高官OBに直結して30余年を経たとは考えにくい。報じられるところ家族もなく、郷里の両親とも音信なく、定職も友人も近隣の付き合いもなく、ただ大学時代から理系でコンピュータ関連の就業経験もあったことからインターネットとの親和性はきわめて高く、いろんな人との肉声の雑談混じりの意見交換でガス抜きあるいは方向転換・分散される機会がほとんどないまま「オレがこんなに不遇なのも、世の中おもしろくないことばかりなのも、ひいては役所が悪い、なかんずく官僚が悪い」「ホラ見ろ年金不正で、社保庁厚労省こんなに叩かれている」「昔オレの愛犬を処分したのも元締めは厚生省だった」「だったらやっちまってもいいじゃないか」式に、自分の中のもやもやした積年の不定形無方向な私憤、私怨が、ネットにあふれる“体制アンチ”気分とだんだん重なって一体になってしまったような気がします。
ともあれ、昔のように「人の恨みを買う行動発言はしていないから」「狙われるような目立つ地位も容姿も、財産もないから」「危険な時間帯に、危険な場所に足を踏み入れたりしないから」殺されることはない、という常識は通用しなくなりました。戦争や飢餓と縁が薄れ、火急の病人はたらい回しするくせに、診療収入に結びつく延命ならいくらでもしてくれる歪んだ高度医療化社会の日本、“異形の死”を恐怖し嫌悪し自他ともに出来る限り避けよう遠ざけようとする健康なベクトルは限りなく衰弱しています。
あそこのあの人も、ここにいるこの人も、いつでも殺人の動機を持ち得る。実行に移し得る。逆に被害者にもなり得る。いまここにはいない誰かさんに積もる恨みを悶々抱いた人と、偶然通りですれ違いざま目が合ったら、刃物がニュッ、てこともあるかもしれない。
板子一枚下は地獄。いや板子自体もう無いかも。「物騒な世の中になった」なんてまとめてる場合ですらなくなって来ました。