イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

あなたを忘れる勇気

2008-11-23 16:15:02 | 朝ドラマ

朝ドラ『だんだん』がドラマとしてツラいのは、“歌手を目指すストーリー”でありながら、ヒロインたちが劇中で披露する歌唱が、どう贔屓目に視聴しても「ぜひ歌手デビューすべきだ」と音楽事務所のプロのスカウトが執心するレベルに見えないということにもある。

序盤の『赤いスイートピー』連発の頃から気がかりでしたが、最近はウチの高齢組などは(軒並みオリジナルを知らないということもあるけど)彼女たち、あるいは一方が歌い出すとみるみるつまらなそうな、シラけた表情になり、歌のシーンが終わって次に行ってもややしばらく興味を取り戻せないようです。

もちろん、三倉さん姉妹、子役時代にCDも出しているし、声質は悪くなく発声も子役からの演技歴相応に鍛えられてもいます。たとえば家族や親戚の集まりでギターとともに一曲、二曲披露してくれたら「歌うまい」「O塚愛ちゃんぐらいうまい」お酒の入った叔父さんや従兄とかなら「HA香やKK未より美人だから歌手になれる」ぐらい言ってくれて一同大ウケかもしれない。しかし、要するに“若さと愛嬌で割り増された、うまいシロウト”級であって、それ以上でもそれ以下でもない。

なんかね、節回しとか、声の質感とか、“古臭い”んだな。終始ニコッと笑ったクチの形のまんま声が出てる感じ。劇中のレパートリーが古い曲ばかりということはあまり関係ないでしょう。古い曲ほど、演奏者のセンスや技能が斬新なら「こんなのいままで聴いたことない」「新曲みたい」に聴こえるはずですから。

ドラマは虚構なので、すべてがリアルである必要はありません。極端な話、綺麗でも可愛くもない平凡な容姿の女優さんが、“モテモテ美女”役にキャスティングされていても、演技力と演出力で観客にそう見せ、納得させることはかなりの程度可能です。

その女性が実際モテている状況、美女として処遇され、美女らしく仰ぎ見られ、嫉妬もされている様子をリアルに描出できればいい。実世界でも、さほどでもない外見の人が「カッコいい」「かわいい」「おシャレ」ともてはやされチヤホヤされているなんてのはよくある図です。人間は社会的、集住的動物なので、或るアタマカズだけ取り巻きというかチヤホヤ隊を確保できれば、その外っ側にいる大勢は、ご本尊がチヤホヤされるに足る内容かを判断する前に、周囲のチヤホヤ行動だけを見て模倣してくれるということもある。

しかし、『だんだん』の双子、特にドラマ時制に入る前から音楽好きで歌手にあこがれていたという設定のめぐみ(三倉茉奈さん)のほうに歌う場面が多いのですが、地元の路上で歌っていた頃から、“素人っぽいありふれた女の子だけど何かが違う”と道行く人を釘付けにするような描写はない。褒めているのは常に“身内”“近隣”“幼なじみ”の世界の住人ばかりでした。

石橋(山口翔悟さん)の仕込みで京都のライブハウス飛び入りのシーンでも、居合わせた若い客たちの拍手や声援は、先に登壇して歌い始めたのぞみ(三倉佳奈さん)がすっぽり舞妓のいでたちだったこと、追いかけてギターとともにハモリ出しためぐみが瓜二つだったことを興がってのものともとれ、“歌唱力で初見のオーディエンスを酔わせた”とはとても見えませんでした。

よってドラマがどう見えるかというと、「石橋は下心があるから、親から引き離して自分のテリトリーに引き込みたいんだろう」…いやコレはウチの高齢組が言ってるだけであまり一般性はないんですが、とにかく客観的に認識できる双子の歌唱力と、劇中の石橋の手放しの褒めよう、ぞっこんぶりとにあまりにも差があるため、“夢を叶えるために若者が努力する姿”なんてことより“家族vs.下心”“地道な就学就業vs.一攫千金商業主義”みたいな、NHKがどちらに軍配を上げるかがそれこそシロウトでも見え見えの図式になっている。

以前にもここで書きましたが、このドラマはチーフPをはじめ制作陣が、本当に三倉姉妹の魅力にベタ惚れで、ぜひ彼女たちが主演できる年齢のうちにもう一本朝ドラを…という発想から立ち上がった企画で、家族の尊さや夢への努力どうこうは、“マナカナちゃんの演じるキャラが輝くように”と後付けされたファクターに過ぎないのだと思う。

ドラマの作り手が特定の俳優さんを念頭において、その人が演じたら引き立ちそうな人物、立ったら映えそうな舞台背景、言ったら決まりそうな台詞を積み上げて作品を作ることはそれほど珍しくないし、狙いがすべてピンポイント的中、かつ「星の数ほど役者が居る中、俺ひとりを輝かせようとしてここまで考え抜いてくれたのか」と意気に感じた役者さんからいやが上にも名演技を引き出して、傑作に仕上がることもあります。

しかし、ドラマは制作と俳優の仲良し会イベントではなく、不特定多数のお客さんに見てもらって商売にするものである以上、作り手が役者に惚れても惚れた思いに“淫して”はいけないと思う。

音楽であれ、映像であれ、文学であれ絵画彫刻などの造形美術であれ、モノを作って人に供覧することを業とする人間は、自分が作ったモノ、作りつつあるモノを愛し過ぎては絶対にいけません。自分の作品と自分とは、どこかできっぱり他人になるべきです。その作品に対して何の思い入れもリスペクトも持たない、冷たく意地悪な他人の目で、耳で、不完全なところも未熟なところも洗いざらい丸裸に一度はしてみることができなければ、“生業”としてのクリエイトとは言えない。身内や友人知人をひととき楽しませ面白がらせる、ただの趣味です。

『だんだん』にはそういう冷厳さ、外柔内剛の精神が感じられない。作っている人たちが観客よりいい気分でうっとり、あるいはほのぼのしているような気配がいろんなところからちょこちょこと匂う。

観客をどれだけ捉え得たかが速攻「スポンサーに切られる/切られない」に直結する危惧のない、NHKだからこうなってしまうのか。80作の歴史を重ねロケ地舞台が全国都道府県を一巡したことで来期からは見直しもささやかれる朝ドラですが、ロケ地の選択などより、“作っている自分たちの、内輪ウケ体質”をこそ真っ先に見直していただきたいものです。

コメント
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