駒姫は豊臣秀次によって強く京に来てもらいたいと所望されたのだが、はたして九戸の乱の鎮定後に秀次が山形に立ち寄ったかどうかについては確たることは言えないものの、実際に九戸城の近くにまで軍を進めていたことは確かなので、山形まで寄る可能性がまったくなかったとまでも言い切れない。
彼が山形で駒姫を実際に見たかどうかにかかわりなく、駒姫がすごい美少女である噂は彼の耳に入っていたことであろうし、前年に駒姫の父の最上義光が京都に訪れた時も直接に義光から駒姫のことを聞いており、遠い奥羽の美少女をなんとか自分のそばに引き寄せたいという思いを募らせて奥羽の奥地での乱の鎮定に赴いたのかもしれない。
秀次が奥羽の地に来た時は駒姫はまだ11歳でしかなかったから、彼女が京に輿入れしたのは15歳になってからであったが、不運なことに秀次に会いもしないうちに三条河原の惨劇の当事者として秀次の他の妻妾や子供たち38人とともに無残に殺害されてしまったのである。
なお、当プログでの駒姫に関する記事は下記の年月日付けである。
2008年12月13日 同年12月14日 2010年12月6日
◆写真説明 駒姫の菩提を弔うために山形城下に移築されたと言われる専称寺の山門と本堂 本堂は元禄期の建造だが、東北一の巨大伽藍といわれる
彼が山形で駒姫を実際に見たかどうかにかかわりなく、駒姫がすごい美少女である噂は彼の耳に入っていたことであろうし、前年に駒姫の父の最上義光が京都に訪れた時も直接に義光から駒姫のことを聞いており、遠い奥羽の美少女をなんとか自分のそばに引き寄せたいという思いを募らせて奥羽の奥地での乱の鎮定に赴いたのかもしれない。
秀次が奥羽の地に来た時は駒姫はまだ11歳でしかなかったから、彼女が京に輿入れしたのは15歳になってからであったが、不運なことに秀次に会いもしないうちに三条河原の惨劇の当事者として秀次の他の妻妾や子供たち38人とともに無残に殺害されてしまったのである。
なお、当プログでの駒姫に関する記事は下記の年月日付けである。
2008年12月13日 同年12月14日 2010年12月6日
◆写真説明 駒姫の菩提を弔うために山形城下に移築されたと言われる専称寺の山門と本堂 本堂は元禄期の建造だが、東北一の巨大伽藍といわれる