捨てる神あれば拾う神ありというコトワザはよく知られているようだ。
だが、本日のタイトルは受動形になるが、写真との関連で何を意味するのだろうか。
上の組合せ写真はとある発掘現場だが、雨のためか発掘作業は中止されていた。でも、市街地の、しかも幹線道路のすぐそばのようである。表示板に記されているように、人々の目に触れる前からまさに文化財の扱いを受けている。
ここは全国最大級の広大さを誇る国の史跡山形城三の丸の内側である。
更に下の組写真はつい最近まで存在していた昭和初期建造の店舗群であり、互いに至近距離に存立してロマンの雰囲気が漂う街並み景観を形成していたが、解体のやむなきに至っている。
こちらは三の丸の外側だが、上の発掘現場とはきわめて近い距離にある。
そう、どちらも同一の幹線道路の拡幅事業に伴い、片や埋蔵文化財の発掘調査が行われ、もう一方は跡形もなく解体消滅している。
片や長い年月市民の目に触れることがなかった江戸時代の武家屋敷の遺構や食器類の破片などが貴重な「お宝」としてきわめて丁寧に「拾い上げ」られ、もう一方は長い間多くの市民に親しまれ、かつ観光客等にも文化財的価値が高いと称揚されてきた建造物はただの「廃棄物」の扱いをされるに至っている。
発掘現場で表示されている「みんなで守ろう文化財」の言葉もこれらの歴史的建造物群は対象外であったようだ。
同じ「お宝」なのに、この極端な「格差」はどこから生じるのか。
一方は金を掛け、保存、復元
他方は金を掛け、破壊、破棄。
江戸時代がそんなに偉いのか
明治以降は二束三文なのか
判断している自治体担当者に問いたくなります。
こんなことしていて「最上川を世界遺産に…」って、到底無理でしょうね。どうせ観光活用とか、知名度とか、最終的には「お金」でしょう。
発掘現場で取り上げられたほとんどの遺物は、県埋文センターや市埋文センター内の廊下に積み上げられたコンテナ箱の中や部屋の中で適切な処理もされず、市民の目に触れることも無く朽ちていくのが末路です。
山形は、文化(財)継承・保存・活用全てにおいて矛盾だらけですね。つくづく失望させられます。
自然や遺産、そしてこれらを大切に守り続けていく心なんてないのでしょう。目先の利益、利便性や快適性を求めている結果です。
中心市街地でも最近はやたらに青空駐車場が増えた。
もちろん郊外の大型店では広大な駐車場を備えている。
むろんマイカー族には便利だが、郊外の商業ゾーン(“商店街”のイメージとはかけ離れている)の景観ほど殺風景なものはない。
でも“見事”なほどアスファルトの平面が広がる。
まさに“世界遺産”ものだ!?