山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

伊達政宗の母の墓所を訪ねて(5)

2009-11-20 20:21:05 | 郷土史
 仙台市若林区南小泉に静かにたたずむ伊達政宗の母の位牌所「保春院」を皮切りに、同じ仙台市ながら方向違いの北山五山を巡拝しながら、ようやく彼女の墓がある覚範寺に辿り着いた。
 位牌を置いてある寺と墓がある寺が別々であるというのは現代の感覚からは不可解な感じがするし、私もつい最近までは伊達政宗の母の墓は彼女の出家名の保春院と同一の名の保春院に在るものとばかり思い込んでいたほどである。
「戦国の鬼姫」とまで呼ばれたほどの勝気な気性の行動派女性であった彼女は婚姻前は義姫と呼ばれ、伊達輝宗との婚姻後はいつしか「お東の方」とか「お東さま」或いは「最上御前」とも呼ばれていたようである。
 従来、彼女は息子の伊達政宗の毒殺を図って失敗し、すぐさま山形に遁走したと伝えられてきたが、そのことについてはかつてより多くの識者から疑問視されてきた。
 そのことについては彼女の墓所の前にある「由緒」碑(写真4)と「保春院の墓」案内標(写真7)にも記されている。
 記載内容については、次回以降の記事にて紹介したい。
◆写真 ①覚範寺の山門前も他の北山五山寺院と同じく長い石段の参道が続く ②山門内には左右に仁王像が睨みを効かしている ③左が政宗の三男で黒川郡を任せられた宗清の供養塔 右の小さいのが保春院の墓 ④墓前の「由緒」碑 ⑤覚範寺本堂前の2つのダルマ ⑥覚範寺の鐘楼から望む仙台駅方面 ⑦墓所の説明標 ⑧ダルマの拡大 ⑨右の写真は保春院の墓だが左は誰の墓なのだろうか。⇒次回の記事写真が回答

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2 コメント

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義姫☆ (一山形市民)
2009-11-21 12:45:06
 義姫(保春院)の墓所のご案内ありがとうございます。最上家の宿老氏家尾張守の進言・説得・交渉で、伊達輝宗に義姫が輿入れしたが、ここで伊達と最上が一つとなれば歴史が変わっていたのではなかろうか。それに上杉と同盟を結んだら?と、有り得ない事を考えます。
 義守(義光の父)の妹婿である上山城主・満兼が、山形城を入手せんとし、伊達輝宗に援軍を要請した事から、敵対関係に陥ったそうですね。人間関係・征服欲で歴史が動くなんて、ボタンの掛け違いの様です。
 また、最上家は何故改易となったのでしょうか、幕府は嫡子義俊を考えていたのに、理由は何であれ、最上家家中が心を一つにして義俊を守り立てていたら、最上家は改易を免れ、最上家は幕末まで山形の地に残っていたのでは無いでしょうか?領主の跡目争いによる家臣の二分化により、山形から最上家が消えたとは残念です。今の、政治のゴタゴタが、日本を消滅させない様願うばかりです。
 然し、最上家の改易を機に義姫は仙台に移り「保春院」なったのですね。伊達家は最上家の轍を踏まないようにしたために、残ったのでしょうね。
 山形の霞城公園の最上義光の銅像を視ておりますと歴史からの教訓、そして歴史を学んで、現在を反省して欲しい政治家、政党を嘆かざるを得ません。
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兼続の矢面に立ったがゆえに (蝦夷弁のK)
2009-11-26 20:17:07
長谷堂を中心とする「奥羽の関ヶ原」の戦いで勝敗がつかないうちに上杉軍は西軍敗北の報を聞いて撤退したが、ともかく上杉軍を喰い止めた功により最上家は57万石の大大名になった。
しかし、奥羽に62万石の伊達、勢力が大きく削がれたとはいえ30万石の上杉とともに57万石の大大名が並ぶことは幕府はむろん伊達も上杉も喜ぶことではなかった。
だから、少しでも統治に乱れが見られると「これ幸い」と潰しにかかられたのであろう。
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