山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

冷泉家ゆかりの岩出山

2009-12-04 10:04:15 | 郷土史

 伊達政宗と聞けば大かたの人は出生と躍進の地米沢か藩祖となった地の仙台を連想するであろう。だから「岩出山」と聞いて伊達政宗を想起する人はそう多くはあるまい。
 でも、確かに政宗は約12年間この岩出山を居城としていたのである。
奥羽の関ヶ原、つまり慶長出羽合戦の際に直江兼続率いる上杉軍が山形盆地になだれ込んだ頃、政宗の居城は岩出山にあった。
 政宗が秀吉の命により居城を米沢から岩出山から移されたのは天正19年(1591)で、その後仙台に城を築いたのは慶長元年(1601)、仙台を居城とするようになったのは慶長3年である。
 岩出山は政宗入部以前は岩手沢と称し、この地方の名門大崎氏の重臣氏家氏の拠点だったが、秀吉の小田原参陣の命を怠った大崎氏の取り潰しの直後に徳川家康が改修等に滞在し、政宗が入部している。
 政宗の仙台移動後も伊達一族の支城として存続し、京の冷泉家の姫が輿入れするなどによりこの地にも京文化がもたらされた。
 なお、政宗の母が山形に出奔したのも政宗の岩出山時代の文禄3年(1594)であったことが平成になって発見された政宗の学問の師匠虎哉禅師の手紙によって判明し、天正18年(1590)に政宗毒殺未遂事件があったとされる会津黒川城から出奔したという従来の説より4年も後のことであり、その前後の政宗と母との情愛あふれる手紙のやりとりとともに、毒殺計画の首謀者を母の義姫(お東の方)とし、直後に政宗が母が溺愛していた弟小次郎を斬殺したという“事件”自体の史実性を疑うのに充分である。[11月21日、22日の記事参照]

 ◆写真 すべて仙台藩支藩岩出山の藩校「有備館」の校舎と池泉回遊式庭園 「有事に備える」というよりはむしろきわめて“優美な”館(やかた)である(国の史跡 JR陸羽東線有備館駅で下車1分)

◆姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(←クリック)をご覧あれ。
   タイガー・ウッズの“事故”関係の記事なり。

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