いつしか当ブログはクイズブログに変貌したみたいだ。
前回の記事もクイズ形式で、今回の記事の後部に前回での設問の回答が掲載されることになっているから、今回の設問の回答はいつのことになるのだろうか。
まずは、以下の設問を読んでいただきたい。
むろん、今回の冒頭の写真時代が設問であるが、訪れたことのある人でなければ、まったく何処にある建物の内部なのかわからないであろう。
もし、この建物がメジャーな観光地の建物ならば、たとえ訪れたことがなくとも旅行ガイド本やテレビの旅番組、あるいワイドショーの中の地方の話題などにも結構登場するから、かなりの人たちもここが何処の建物の内部なのか判断できるのであろう。
でも、この建物は現在は決して超有名(メジャー)な建物ではないものの、歴史的価値、建築的価値は超一級ものなのである。
なんで、これほどまでに素晴らしい建物がメジャーにならないでいたのかは山形県と山形市の観光行政及び文化財行政の長年にわたる怠慢と無知・無関心によるものと申しても過言ではない。
この建物はタイトルにもあるように明治天皇が立ち寄って休憩された建物なのである。
だが、この建物の現在地は山岳地帯であるが、もともとはずっと下界の平地に在った。
いわば、平野部の豪農の屋敷内に天皇が山形県内を巡幸されるということで、急遽建造されたものであるが、それだけに建造には建屋はむろん建具に至るまでそれこそ念入りに造られた。
だからこの写真のガラス窓付きの障子窓も百数十年経った現在もほとんど狂いは見られない。
ところが、当の豪農屋敷のある周辺はそれ以降は、特に戦後は観光的にはまったく陽が当てられることはなく、文化財としても歴史的価値としてもないがしろにされてきたも同然であった。
それゆえ、この建物(天皇が休息されたということで行在所と呼ばれてきた)もいつしか荒廃の一途を辿ることになった。
だが、同じ山形市内の篤志家が山形周辺に残る他の数件の民家などの歴史的建造物を某山岳観光地の一角に集めて「山形版民家園」を開設してくれた。
こうして現在は我々一般庶民も天皇さまになった気分に浸ることができるようになった。
さて、この行在所の建物が以前在った所の地名は何という(最寄りのJRの駅名と同じ)のであろうか。
そして、現在地は何処なのであろうか。
⇒ 回答は次回の記事の後部
◆前回の記事内の設問に対する回答
白洲次郎 1902年生まれ、1985年(昭和60年)死亡 妻は白洲正子
蔵王スキー場上の台ゲレンデ西北脇の山荘敷地内
前回の記事もクイズ形式で、今回の記事の後部に前回での設問の回答が掲載されることになっているから、今回の設問の回答はいつのことになるのだろうか。
まずは、以下の設問を読んでいただきたい。
むろん、今回の冒頭の写真時代が設問であるが、訪れたことのある人でなければ、まったく何処にある建物の内部なのかわからないであろう。
もし、この建物がメジャーな観光地の建物ならば、たとえ訪れたことがなくとも旅行ガイド本やテレビの旅番組、あるいワイドショーの中の地方の話題などにも結構登場するから、かなりの人たちもここが何処の建物の内部なのか判断できるのであろう。
でも、この建物は現在は決して超有名(メジャー)な建物ではないものの、歴史的価値、建築的価値は超一級ものなのである。
なんで、これほどまでに素晴らしい建物がメジャーにならないでいたのかは山形県と山形市の観光行政及び文化財行政の長年にわたる怠慢と無知・無関心によるものと申しても過言ではない。
この建物はタイトルにもあるように明治天皇が立ち寄って休憩された建物なのである。
だが、この建物の現在地は山岳地帯であるが、もともとはずっと下界の平地に在った。
いわば、平野部の豪農の屋敷内に天皇が山形県内を巡幸されるということで、急遽建造されたものであるが、それだけに建造には建屋はむろん建具に至るまでそれこそ念入りに造られた。
だからこの写真のガラス窓付きの障子窓も百数十年経った現在もほとんど狂いは見られない。
ところが、当の豪農屋敷のある周辺はそれ以降は、特に戦後は観光的にはまったく陽が当てられることはなく、文化財としても歴史的価値としてもないがしろにされてきたも同然であった。
それゆえ、この建物(天皇が休息されたということで行在所と呼ばれてきた)もいつしか荒廃の一途を辿ることになった。
だが、同じ山形市内の篤志家が山形周辺に残る他の数件の民家などの歴史的建造物を某山岳観光地の一角に集めて「山形版民家園」を開設してくれた。
こうして現在は我々一般庶民も天皇さまになった気分に浸ることができるようになった。
さて、この行在所の建物が以前在った所の地名は何という(最寄りのJRの駅名と同じ)のであろうか。
そして、現在地は何処なのであろうか。
⇒ 回答は次回の記事の後部
◆前回の記事内の設問に対する回答
白洲次郎 1902年生まれ、1985年(昭和60年)死亡 妻は白洲正子
蔵王スキー場上の台ゲレンデ西北脇の山荘敷地内