『 HARD & LOOSE 』 れいめい塾 津市久居

塾頭の『れいめい塾発 25時』
三重県津市久居にある学習塾『れいめい塾』の塾頭のブログです。

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怒涛に2学期範囲を潰していく

2024年08月05日 21時03分40秒 | Weblog
2学期期末範囲となる相似の問題。


一番速いのはやはり悠二か。


小5の密航者も同じ授業を聞き、相似の問題を解いている。



やはり苦手なようだが・・・。
数学が終わった中3から基本的人権と裁判所&三権分立の試験が始まる。今夜は終わるまで帰れない。


俺は午後6時から突発的な英語の授業。先週の金曜日の授業・・・このような授業を克典は U tube にアップしろと言ってるわけやな。


2階では平岡(三重大学医学部2年)の化学基礎が始まっている。


明日は朝一の地理・・・3階の机の上に置いておく。バローにコピー用紙を買いにいくので、授業は午前9時半開始でお願い。
名古屋大学の英語は午後4時から実施。

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育伸社模試が返却、へこむ

2024年08月05日 16時41分00秒 | Weblog
朝から治療院・・・コテンパンである。


岡山からの密航者は由翔(西大和中2年)に頼んだ。


2階では寺岡(三重大学医学部5年)の授業が始まっている。


俺は中3に二次方程式の計算。春休みに教えているが、できる生徒とできない生徒に分かれる。その分、ゆっくりと説明し、一人一人の出来を見ていく。
密航者が戻ってから公民・・・裁判所と三権分立の解説。先週の日本国憲法と国会と内閣の復習。このあたりはすぐに忘れるから繰り返す。
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厳しい時代になる

2024年08月05日 15時33分11秒 | Weblog
朝一の地理の授業。


嘉子が撮ってくれた初めての写真。

いつものように午後は相似から公民、それが終わったら5教科が始まる。
俺は高3の英語・・・名古屋大学の労働問題。


この類の内容となると、どうしてもこれからの時代をどう生きていくかとの話になる。高3にすれば「またか」と感じるかもしれないが、克典や和田金で話した3人のドクターたちの意見はほぼ同じだ・・・これからの時代を生きる子供たちの生活はきつくなる。ゆえに高3の生徒たちに言いたいことをまたぞろ繰り返すことになる。そんな過酷な時代の準備をする意味で、高3には半年後の入試に納得できる進学を果たしてほしいのだ。
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竹中君呉に現る(ブログジャックby橋本)

2024年08月05日 15時33分11秒 | Weblog
すいません
呉から橋本が勝手に投稿です。塾長事後承諾でお願いします。ー
竹中君が呉に来てくれました


休憩時間の13:40
突然竹中君から電話が…。
「どうした?」
「今クリニックの前なんです!」
「ええぇ!」
「フードコートで昼ごはん食べます」
「行くわ」

到着してから私のことを思い出したそうです。
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放蕩な学生さんたち、立派になりはって

2024年08月05日 00時39分57秒 | Weblog
菊山(5期生・パナソニック)が津高に進学後、「化学が分からない」と言ったことから化学を教えられる講師を探すことになる。あの時代だ、新聞のバイト募集欄をホワイトボードに貼り、丹念に眺めながら数日を過ごした。本屋の中を歩きながら俺に買ってくれという本を物色する・・・あんな感じで気になる人物が浮かび上がる、それが橋本ドクター、当時三重大学医学部1年の学生だった。電話で連絡を取り、念のために当時のウチの大判広告を送った。そして橋本君が塾に来てくれたときには俺は不在・・・数日前に酔っぱらって塾の2階から落下、硬膜下出血とほかに何かで救急車で松阪中央病院へ搬送、意識も回復しないままに松阪中央のベッドで寝ていた。
そこから彼らとの付き合いが始まったのだ。

三重大学に入局した北野ドクター、したくないことをしたくないと言ったことで冷ややかな視線のなかで過ごすことになる。ふびんに思ってくれる人もいたようで、アメリカへの留学を段取りしてくれた。しかし大学からの研究留学とはならず生活費は自腹での出陣となった。その経緯を聞き、一人アメリカに旅立つ北野君が不憫で俺と奥さんはセントレアに見送りにいった。
アメリカでの生活は新たなる癌治療を開発しようとする研究者たちの間で刺激があるものだったが、生活は厳しかった。
橋本ドクターはその前年、呉にクリニックを開業していた。開業日に俺たち家族は呉に入り、初日の営業が終わった後にすし屋で乾杯した。かなりのお客さんが来られたが、橋本ドクターが予想していた数ではなかったようでどこか不機嫌だったことを覚えている。
田丸ドクターは地元でもあり、大学卒業後は三重大学に所属。厚生労働省に2年、三重に戻ってからは県庁に1年と明らかに王道を往く。そして3年前にこの学年初の教授を拝命した。その夜、塾でお祝いのマージャン大会をやったが、さすがにツキが降臨したようで、序盤から何度も長考。役満がテンパりそうになっては、後ろで見ていた橋本君も驚きの表情の連鎖だ。それでも和れないのが田丸ドクターの奥ゆかしさ。やはりこの人徳あってこそ、教授に押し上げられたのだ。
新しい癌治療に携わっている医師が国内にいなかったことから白羽の矢が北野ドクターに届く。時代は新たな癌治療へと急転していく、同時進行で三重大学やそれ以外の大学からのオファーもあり気のいい北野ドクターは逡巡。三重大学に戻ろうかと悩んでいる北野ドクターに橋本ドクター、「アメリカへ行く際支援してくれなかった三重大学なんてどうでもいい。やりたいことをさせてくれる環境を選べよ」
北野ドクターは帰国後に国立がん研に在籍、後に有明病院へと移った。いつしか「名医が名医を選ぶ」という週刊ポストの特集で取り上げられ、アエラの単独インタビューを受けたりと癌治療の最前線で、働き方改革?どこの話やねん!とばかりに働いている。


毎日のように彼らと深夜まで酒を飲んで過ごした。俺もまた杯を傾けるなかで、青春の追体験をしていた気がする。あの時代、それぞれが尖っていた医学生たちがいつしか50歳を越え、自分がいるべき場所ですべきことをしている。まだまだ負けられない・・・そう独りごちる。


明日は治療院からスタート。放蕩だった医学部生の手を煩わせないように、自分でできるだけのディフェンスだけは講じておきたい。

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