先週のNHK大河ドラマでは「曽我兄弟の仇討」、所謂、曽我事件が放送されました。
テレビを観た方はご存知だと思いますが、「曽我兄弟の仇討」は、その裏に頼朝暗殺未遂事件がありました。
この仇討は、忠臣蔵、伊賀越えの仇討と共に日本三大仇討の一つと言われています。
そこで今回と次回の2回に分けて「富士の巻狩り」と「曽我兄弟の仇討」を取り上げます。
1回目の今日は「曽我兄弟の仇討」が起きた「富士の巻狩り」についてです。
「日本三大仇討」
先ず、冒頭にも書いたように「曽我兄弟の仇討」は、「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」「伊賀越えの仇討」と共に日本三大仇討の一つと言われています。
この内、忠臣蔵はご存じのとおり、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入った事件です。
「伊賀越えの仇討」は、寛永11年(1634年)11月7日に渡辺数馬が義兄・荒木又右衛門の助太刀を得て、弟・源太夫を殺した河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件で、「鍵屋の辻の決闘」とも言われています。
そして「曽我兄弟の仇討」は、富士の巻狩りの際、曽我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件です。
「曽我事件(曽我兄弟の仇討)と頼朝暗殺未遂事件」
曽我事件(曽我兄弟の仇討)は、父親の敵討ちだけでなく、頼朝暗殺を狙った事件でもあると言われています。
曽我事件は駿河の国で催された「富士野巻狩り」で起こりました。
では、「富士野巻狩り」とはどのような催しだったのでしょうか?
「鎌倉殿の後継問題」
建久3年(1192年)7月26日、鎌倉の源頼朝を征夷大将軍に任命する辞令を届けに、都から勅使がやってきました。
この時、頼朝は46歳です。一介の流人が挙兵してから12年が経っており、名実共に武家の統領に上り詰め、「鎌倉殿、頼朝」は正に得意の絶頂でした。
頼朝が次に考えたことは、嫡男・源頼家を次の「鎌倉殿」にすることでした。
しかしそれは簡単にいくことではありません。
御家人たちにとって鎌倉殿の継承は特別な意味があったのです。
ただ、家の跡を継ぐというのではなく、別次元の、政治的、軍事的な重要な意味合いが生じてくることから、こちらの方が大事だったのです。
従って、鎌倉殿の継承は「頼朝家の血筋でなくても、源氏の血筋の中に器が大きくて、いい人物がいれば、その人を立ててもいいのではないか」と考える人がいても不思議ではないのです。
例えば、頼家以外の源氏として弟の源範頼がいます。範頼は平家追討の現場指揮官でした。
更に、頼朝に匹敵する血筋を誇る甲斐源氏の安田義定などがいるのです。
このため、頼朝はこうした源氏一族よりも頼家が鎌倉殿に相応しいことを示さなくてはならないのです。
・巻狩りの準備を担当した北条時政(頼朝の義父)です。
「富士野巻狩り」
そこで頼朝が思いついたのが「富士の巻狩り」です。
この巻狩りは頼家が鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために約1か月に亘って行われました。
頼朝はこの巻狩りで頼家の弓の腕前を披露し、武人としての能力を広く御家人たちに示そうとしたのです。
この重要な行事の仕切り役に、頼朝は妻・政子の父親・北条時政を指名しました。
時政は挙兵以前から頼朝を支えてきた大恩人で、頼朝が鎌倉を出発する6日前に現地に入り、そこで配下の者たちを指揮して獲物の状況を調べ、更に頼朝が泊まる館の設営など入念に準備を進めていったのでした。
建久4年(1193年)5月8日、頼朝は北条義時を始め三浦義澄、畠山重忠、和田義盛など、挙兵以来の重臣や側近、そのほか大勢の御家人を引き連れて駿河の国の富士野へ向かい、空前の規模で「富士野巻狩り」が催されたのです。
・富士野巻狩りの石碑です。
では、「富士野巻狩り」ではどのようなことが行われたのでしょうか?
「巻狩り」とは
勢子(せこ)が巻き込むように鹿を追い立てていきます。それを下の方で、頼朝や頼家、その幕閣たちが待ち受けて仕留めるのです。
5月16日、頼家は御家人たちが見守る中、生まれて初めての狩りで見事に鹿を射止めました。(ドラマでは、紙で作った鹿でした)
そしてその後、山神・矢口祭が行われます。
これは頼家が頼朝の正当な後継者であることを神に認めてもらう重要な儀式です。
このような一連の流れが「富士野巻狩り」だったようです。
「曽我兄弟の仇討(曽我事件)」
ところが、巻狩りが終わろうとしている5月28日の晩に曽我事件が起きましたが、この続きは明後日に取り上げます。