日本三大仇討の一つ、「曽我兄弟の仇討」と題して一昨日と今日の2回に亘って取り上げています。
今日は「曽我兄弟の仇討(曽我事件)」と「頼朝暗殺未遂事件」をご紹介します。
建久4年(1193年)5月8日、頼家が鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために約1か月に亘って行われた「富士野巻狩り」が終わろうとしていた5月28日の晩に曽我事件が起きました。
「曽我兄弟の仇討(曽我事件)」
皆が寝静まった深夜、曽我十郎祐成(すけなり)と弟・五郎時致(ときむね)の二人が御家人たちが泊まる富士野の館に忍び込んだのです。
そこで頼朝側近の有力御家人工藤祐経(すけつね)を殺害しました。
これが「曽我兄弟の仇討」、所謂、曽我事件です。
「曽我兄弟の仇討までの経緯」
事の発端は頼朝の挙兵以前に遡ります。
殺害された工藤祐経は伊豆の領地を巡って有力豪族・伊東祐親と争っていました。
争いの中で工藤祐経は伊東祐親の嫡男河津三郎祐泰を殺してしまいます。
河津三郎には二人の息子がいたのですが、父を殺されたことから、残された兄弟は相模の貧しい武士・曽我氏に引き取られたのです。
そして、父親を殺した工藤祐経を恨みながら成長していきました。
一方、工藤祐経は頼朝に重用され、鎌倉幕府の有力御家人に出世していきました。
元服した二人はそんな工藤祐経を討ち取る機会を狙っていたのです。
そして富士野巻狩りの夜、遂に本懐を遂げたのです。
兄の曽我十郎祐成は22歳、弟の五郎時致は20歳になっていました。
現在では、この事件は親の仇討をした側面だけが強調されて語られています。
「頼朝暗殺未遂事件」
しかし、事件は仇討ちだけでは終わりません。
兄弟の標的はもう一人いたのです。
この仇討に隠された「頼朝暗殺未遂事件」が起きたのです。
兄弟は工藤祐経を討った後、頼朝の館へ向かって走り出しました。
兄の十郎祐成は集まってきた御家人10人を相手に切り合いになり、9人までは倒したものの、10人目で遂に討たれてしまいます。
一方、弟の五郎時致は目指す館の入り口まで行き、更にこの館の奥で迎え撃とうとする頼朝を目掛けて走って行きました。
しかし五郎は捉えられてしまいました。
翌日、頼朝の尋問を受けたのですが、そこで五郎は「頼朝への恨みがあった」と答えています。
その尋問で五郎は
「祖父の伊東祐親が罰せられてから子孫は落ちぶれてしまい、お傍に近づくことも許されなかった。
工藤祐経を討ったのは、父が殺された恥を雪ぐ(そそぐ)ためです。兄祐成が9歳、私・時致が7歳の頃からその事を忘れることはありませんでした。
頼朝様の御前に推参いたしましたのは、工藤祐経が可愛がられ、祖父祐親は嫌われておりました。その恨みがないわけでもありませんでしたので、お会いし、その事を申し上げて自害するつもりでした」
これを聞いていた者は皆感動したといいます。
この時、頼朝は五郎の勇猛ぶりを称え、勇士として許そうとしたのですが、殺された工藤祐経の遺児犬房丸が泣いて訴えたので、時致を引き渡しました。
そして、五郎は鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられ梟首(きょうしゅ=斬首した人の首を木にかけてさらすこと)にされたのでした。
以上が曽我兄弟による頼朝暗殺未遂事件の概要です。
現在、曽我事件は殺された父の仇を討ったという側面にのみに脚光が当てられていますが、その裏には祖父の伊東祐親が頼朝に罰せられ、不遇の生活を余儀なくされたその恨みから、頼朝を暗殺するという「頼朝暗殺未遂事件」が隠されているとも考えられています。
一昨日と今日の2回に亘ってご紹介した日本三大仇討の一つ「曽我兄弟の仇討」、そして、その裏に隠された「頼朝暗殺未遂事件」をご紹介しました。