今日21日は二十四節気の一つ「小満(しょうまん)」です。
小満とは、秋に蒔〔ま〕いた麦などの穂がつく頃で、ほっと一安心(少し満足)するという意味だそうです。
昔、田畑を耕して生活の糧にしていた時代では、農作物の収穫の有無は生死にかかわる大変重要な問題でした。
そのため、麦などに穂がつくと「今のところは順調で、よかった」とひとまず満足したことから小満と言う名前が付いたようです。
麦と言えば、昨秋初めて小麦を植えた私の菜園でも、見事に小麦色に熟れてきました。
菜園仲間のT氏から種を頂き、昨年10月10日に蒔いた小麦です。
・これがその時の畝です。
・10月15日には発芽しました。
・3月下旬から4月上旬に穂が出始めの頃、数回、花瓶に挿して観賞しましたが、発芽から半年後の今年4月15日には穂先に色がつき始めました。
そして昨日にはすっかり熟れて、このように正真正銘の小麦色に変わりました。
食糧事情が厳しかった子供の頃は、小麦を製粉所へ持っていき、小麦粉と交換してもらったり、祖母が炒った小麦を石臼で挽いて粉にした麨粉(はったいこ)をよく食べていました。
今はハトやカラスなどの格好の餌のようで、飛来してはよく食べています。
ハトやカラスなどの野鳥は、このように外側の藁を倒して食い散らしています。
この小麦は観賞用に栽培しているので、今年秋に植える種用だけ残れば食べられてもOKです。
鶏鳴狗盗
鶏鳴狗盗(けいめいくとう)という故事があります。
「鶏鳴」とは、鶏の鳴きまねをすること。
「狗盗」の「狗」は犬のことで、犬のようにこそこそと、わずかばかりの物を盗むことです。
意味は、小策を弄(ろう)する人や、くだらない人間のこと。また、つまらない技能でも何かの役に立つことがあるとの例えです。
出典は史記:孟嘗君列伝(もうしょうくんでん)からです。
それによれば、中国斉の孟嘗君(もうしょうくん)が秦の昭王にとらわれた時、犬の真似の上手い人間に狐白裘(こはくきゅう)という白狐の皮衣を盗ませて、これを昭王の寵姫(ちょうき)に献じて釈放されました。
そして、国境の函谷関(かんこくかん)まで逃げてきましたが、深夜のため関所は閉まっており、通ることができません。
この関所は鶏が鳴く朝まで門は開かれない定めとなっているのでした。
そこで鶏の鳴き声をまねるのが上手い従者に命じて真似をさせたところ、本物の鶏がつられて鳴き始めたため、門が開かれて無事に脱出する事ができたと言う故事からこの言葉が生まれました。
鶏鳴狗盗はつまらない技能でも役に立つことがあるということを例えて使用されるようです。
わざと人に逆らったり、人の邪魔をする人やひねくれ者のことを「あまのじゃく(天邪鬼)」と言いますが、そのような人があなたの周りにいませんか?
今日は「あまのじゃく(天邪鬼)」について調べてみました。
「あまのじゃく(天邪鬼)」は、「天探女(あまのさぐめ)」という悪神の名前が転訛し、「あまのじゃく」になったと言われています。
天探女は『古事記』や『日本書紀』の神話に出てくる神様で、人の心の内を探り、意に逆らうことばかりするひねくれた神でした。
そこから、あまのじゃく=「人の意に逆らうひねくれもの」の意味になったそうです。
(説話)
日本神話に登場する天稚彦(あめのわかひこ)は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年経っても戻らなかった神です。
そこで次に雉名鳴女(きぎしななきめ)を使者として天稚彦(あめのわかひこ)のもとへ遣わしますが、天稚彦は仕えていた天探女(あまのさぐめ)から告げられて雉名鳴女を矢で射殺します。
しかし、その矢が天から射返されて、天稚彦自身も死んでしまいます。
天探女(あまのさぐめ)は、天の動きや未来、人の心を探ることができる呪術師的な存在とされ、この説話が後に人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼へと変化していったようです。
本来、天探女(あまのさぐめ)は悪者ではありませんでしたが、天稚彦(あめのわかひこ)に告げ口をしたことから、天の邪魔をする鬼、つまり「天邪鬼」となったといわれています。
天邪鬼は「人の心を見計らって悪戯をしかける子鬼」とされることから転じて、現代では、わざと他者に逆らうような言動をするひねくれ者や本心に素直になれず周囲に反発するような人を指して、「あまのじゃく」と呼ばれています。
へそくり
奥さん(或いはご主人)はへそくりをされているでしょうか?
今日はへそくりについて調べました。
へそくりの「へそ(綜麻)」は、つむいだ糸をつないで環状に幾重にも巻いたものを言い、「くる」は「繰る」で、たぐって物にまきとることで、麻糸を綛(かせ)と呼ばれる木の道具で巻き取る作業を「綜麻(へそ)繰り」といって、昔の主婦たちにとっての内職だったのだそうです。
はじめは家計を助けるためでしたが、しだいに主婦たちはこの「綜麻繰り」で得たお金を旦那に内緒で貯め込むようになった言われており、これが「へそくり」の由来だそうです。
なお、女たちが帯の下の「臍(へそ)」のあたりに金を隠したから、という説もあって、「綜麻(へそ)」と「臍(へそ)」が混用されて、現在では「臍繰り」と書くのが普通となっているようです。
オリックス銀行が全国の既婚男女計1,000名(20歳以上)を対象に、夫と妻のお金に関する実態についてアンケート調査を実施し、へそくり金額を聞いたところ、「内緒で貯めているお金はない(0円)」という夫婦が4割近くにのぼった一方で、貯めている人の平均金額は、夫「136万円」、妻「155万円」と、やや妻が上回っていたそうです。
一方、損保ジャパンDIY生命が昨年12月に全国の20~50代のサラリーマン世帯の主婦500名(各年代毎125名平均年齢39.7歳)を対象に「2013年冬のボーナスと家計の実態」をテーマとしたアンケート調査の中では、夫に内緒の資産(へそくり)をしている人の割合は39.4%で、その所持平均額は「417.1万円」だったそうです。
随分へそ繰っているものですね。
姑息
「あんな汚ない手を使うなんて,彼は本当に姑息な男だ。」と言う場合の「姑息」は,「ひきょうな」といった意味で使われていると思いますが、果たしてこれは正しい使い方でしょうか?
姑息の本来の意味を調べました。
広辞苑によれば、姑息の本来の意味は、「一時のまに合わせ。その場のがれ」。と説明しています。
姑息の「姑」は「しばらく」、息は「休息」の意味で、「暫くの間息をついて休む」ところから、姑息は「その場しのぎ」の意味になったようです。
しかし、平成22年度の文化庁の「国語に関する世論調査」では「姑息」を「ひきょうな」という意味と考えている人が70.9%、本来の意味とされる「一時しのぎ」とこたえた人は15.0%となっているそうです。
姑息が「卑怯」や「ケチ」の意味で用いられるのは「姑息な手段(その場しのぎの手段)でごまかそうとする」など、よくない場面で用いられる言葉であることや、こざかしいことや生意気な意味の「小癪(こしゃく)」と音が似ていることから、その混同によるものと考えられているようです。
(参考)
姑息の由来は、「礼記(らいき)」の故事からのようです。
それによると、病床にあった曽子は自分の寝台に身分と合わない上等なすのこを敷いていました。
お付きの童子にそのことを指摘された曽子は、息子の曽元にすのこを取り替えるよう命じますが、曽元は父の病状の重いことを考慮し、明朝、具合が良くなってからにしましょう、と答えました。
それに対し曽子は、お前の愛は童子に及ばないと次のように言いました。
「君子の人を愛するや徳を以てす。細人の人を愛するや姑息を以てす。」
(君子たる者は大義を損なわないように人を愛するが、度量の狭い者はその場をしのぐだけのやり方で人を愛するのだ。)
その場にいた者たちは曽子を抱え上げてすのこを取り替えました。
彼は間もなく亡くなりましたが、曽子は一時しのぎの配慮に従って生き長らえるよりは、正しいことをして死ぬ方がよいと考えたということです。
「けりをつける」と「けじめをつける」という成句があります。
どちらも「結末をつける」と言う意味ですが、今日はこの違いを調べました。
「けりをつける」の「けり」とは、「今は昔、竹取の翁といふものありけり」(竹取物語)の「けり」のことで、物語や、和歌、俳句などの文の終わりに出てくることが多く、そこから「けり」に【結末・決着】などの意味が加わったもので、この言い方は、明治時代以降から使われるようになったようです。
一方、「けじめ」には【区別・境目】という意味があって、ことばの由来は囲碁からという説があるようです。
囲碁では相手の陣地なのか自分の陣地なのか、その【境】をはっきりさせることを「結(ケチ)」といい、「結(ケチ)の目」が「ケヂメ」になったという訳です。
他にも、「ワカチメ(分目)」や「ワカチマ(分間)」が語源という説もあるそうです。
平安時代には、一般的にも【行動や態度につける区別や境目】の意味で「けじめ」を使ったようですが、「けじめをつける」という慣用表現は昭和に入ってからと言われています。
今は意味に大きな違いはない二つの言葉ですが、語源からは「けりをつける」とは完全に終わることを意味し、「けじめをつける」とは、一旦区切りをつけるという意味になりそうです。
最近では「けりをつける」の「けり」は「蹴り」だと思っている方もいるようですが、間違っても「けりをつける」ために蹴りや暴力を使わないようにしましょうね。
姥桜
サクラの季節は過ぎましたが、今日はもう一つのサクラ「姥桜(うばざくら)」について取り上げます。
「姥桜」のテーマを掲げたので、女性の反感を買うかもしれませんが、この言葉の本来の意味をご紹介しますので怒らないでください。
「しょせん私は姥桜・・・」なんてセリフをよく聞きますが、これは「しょせん私は、盛りを過ぎた女・・・」というように自分を卑下して使っているのだと思います。
しかし、「姥桜」の本来の意味はそうではなく、娘盛りを過ぎても美しい女性に対して使われる褒め言葉なのだということを知ってください。
姥桜とは、ヒガンザクラやウバヒガンなど、葉が出るよりも先に花が咲く桜の俗称で、娘盛りが過ぎても、なお美しさや色気が残っている女性を指して言う褒め言葉なのだそうです。
広辞苑にも、葉に先立って花を開く桜の通俗的総称で、ヒガンザクラ、ウバヒガンなどと説明しており、実際のヒガンザクラ(姥桜)は本当に美しい桜です。
ではなぜ、そんな美しいヒガンザクラ(姥桜)が「老女」をイメージさせる言葉となってしまったのか?
姥桜は、その桜の花が散るまで枝に葉をつけないことから、姥桜が咲いている時は葉がありません。
そこからダジャレで「葉がない」が「歯がない」となり、「入れ歯が必要な老人」となって、「老女扱い」の意味となっているものです。
本来は褒め言葉である「姥桜」。
もし、あなたの近くに「所詮私は姥桜」と嘆く女性がいたら、姥桜の本来の意味を教えてあげてください。
映画がお好きなiinaさんはロードショーをよく御覧になっているのでしょうね。
でも映画の封切りを何故ロードショーと言うのでしょうか?
ウィキペディアによると、ロードショーとは、主にアメリカの演劇界で使用された用語で、既に実績がある劇団ならばともかく、新進気鋭の劇団の場合、いきなりブロードウェイでの上演を行うのはリスクが高く、興行主も手を出そうとしません。
そこで、まずは地方を回って上演を行い、そこで評判を得て実績を積み重ね、最終的にブロードウェイでの上演を目指す、という形が取られたそうです。
アメリカでは、新作を公開する前に、地方都市の路上でテスト的に作品の一部を上演して宣伝し、観客の反応によっては手直しをかけてから上演したということです。
この路上(オン・ザ・ロード)の上演から“ロードショー”ということばが生まれたといわれています。
ところが、この用語がアメリカの映画界に移入された際、「まずは、都市部で先行して上映を行い、そこでの評判や観客動員を、他の地方での上映規模等を検討する材料とする」という意味に変質し、この「都市部での先行上映」のことが「ロードショー」と呼ばれるようになったそうです。
日本では、近年の映画作品は全国一斉に封切りされることが多くなったため、先行上映という意味だけでなく、映画興行全般をさす言葉として使われるようになっているということです。
冷奴
先日、「冷奴にはショウガやネギなど、薬味を添えると香りや風味が増し、一層食欲もそそられますよ」と「薬味」のテーマでご紹介しましたが、今日は冷やした豆腐が何故「冷奴(ひややっこ)」なのか調べました。
冷奴の「奴(やっこ)」は大名行列の先頭で槍や挟箱(はさみばこ)を持つ役の「槍持ち奴」のことなのです。
奴が着ていた半纏(はんてん)には「釘抜き紋」と呼ばれる四角い大きな紋が付いており、豆腐の形が奴の紋に似ていることから「奴豆腐」と言うようになり、冷やしたものを「冷奴」、湯豆腐は「湯奴」や「煮奴」と呼ばれるようになったそうです。
・これが奴が着る半纏の釘抜き紋です。(ネットより)
冷たいものを表す「ひやっこい」が転じて「冷やっこい」から「冷やっこ」になったとする説もあるようですが、冷やした豆腐を「冷奴」と呼ぶようになるのは「奴豆腐」よりも後のことなのでこの変化は考えられないそうです。
今日の大阪地方は最高気温が27度と予想されています。
奴豆腐の由来が分かったところで、今夜の晩酌は冷奴を当てにビールといきますか。
今日も文化庁が行っている「国語に関する世論調査」からご紹介します。
質問、
「その発言は流れに棹(さお)さすものだ」という慣用句を、あなたは(ア)と(イ)のどちらの意味で使っていますか?
と尋ねたところ、
(ア)傾向に逆らって,ある事柄の勢いを失わせるような行為をする・・・ 59.4%
(イ)傾向に乗って,ある事柄の勢いを増すような行為をする・・・・・・・・・ 23.4%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.6%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.4%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14.2%
本来の意味は(イ)です。
「流れに棹さす」とは、流れを下る舟に棹さすことで、勢いの付いたところへ更に助力が増えることで物事が調子よく進むことの例えに使われる慣用句です。
調査の結果は、全ての年代で,本来の意味ではない(ア)の「傾向に逆らって,ある事柄の勢いを失わせるような行為をする」を選んだ人の割合が,本来の意味である(イ)の「傾向に乗って,ある事柄の勢いを増すような行為をする」を大きく上回っていたそうです。
何となく(ア)のような感じで答えた人が多いのかも知れませんが、注意したいですね。
「棹さす」と言えば、夏目漱石の「草枕」の冒頭部分で、
『山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』
この「情に棹させば流される」は、「感情の赴くままに突き進むとどんどん流されてしまいますよ」と、(イ)の意味で書いていますよね。
この部分は有名なので何となく記憶しています。