音無川の河畔にある猪鼻王子跡から、約1㎞(高低差80m)上ると「発心門王子」へと戻って来ます。
「発心門王子(ほっしんもんおうじ)」は熊野九十九王子のひとつで、五体王子のひとつに数えられている格式の高い王子社です。
現在では、諸史料から、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の5社が一般的にそう呼ばれているようです。
「発心門」と言う語は山岳信仰における四門修行に由来するそうです。
四門修行においては、山上の聖地に至る間に、発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説かれています。
「発心」とは発菩提心、すなわち仏道に入り、修行への志を固めることを意味し、「発心門」とは聖域への入り口を意味しているのだそうです。
・猪鼻王子から戻る古道です。
「発心門王子」
ここに掲げられている説明によれば、
熊野川の中州に鎮座する熊野本宮まで7㎞のところにあるこの王子の名は、発心門、即ち「悟りの門を開く入口」とされる大鳥居があったことに由来します。
天仁2年(1109年)に参詣した貴族、藤原宗忠(1062~1141)は、先ず門前で祓いをし、発心門は大鳥居であり、参詣の人々は必ずこの大鳥居をくぐること、また、はるかに見やると恐れを感じることを日記に書き残しているそうです。
熊野九十九王子の名称は地名や地形に基づくものが多いが、発心門王子の場合は信仰に関連する命名の代表と言われています。
・世界遺産の石碑と発心門王子の鳥居です。
この発心門王子の古(いにしえ)の様子を詳しく伝えるのが、建仁元年(1201年)の藤原定家の参詣記です。
それによれば、この王子の社は思わず信心をかきたてられるほどに神々しく、さらに社殿の周囲にすきまなく生い繁った木々がみな紅葉し、風が紅葉を舞い散らして境内に散る、荘厳で美しいさまを伝えているそうです。
藤原定家(1162~1241)は、建仁元年(1201年)に和歌の講師として後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉(ぐぶ)し、王子社の背後にあった南無房という尼の居宅を宿舎とし、門柱に感動と祈願を込めた漢詩と和歌を書きつけていたそうです。
・鳥居越しに社殿を望む発心門王子社です。
「南無房(なむぼう)宅跡」
発心門王子の社殿の右側の後方に尼庵の家があり、建仁元年、藤原定家はここに宿泊したとされていますが、現在、跡地は付近の地形が変化したため面影は見られません。
「藤原定家の歌」
「いりがたき みのりのかどは けふすぎぬ いまよりむつの みちにかへすな」
苦行の末、ようやく仏の国に入ったのだから、もはや六道苦の世界に後戻りはするまいという決意を述べたものだとされています。
(なお、六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界)
お釈迦差者言葉はよく耳にしますが、これからは藤原定家の歌、言葉も聴いてみます。
清清しさを感じます。ありがとうございます。
古道を歩くには、いにしえの歴史を頭に置いて廻ったほうが好いでしょう。少しマイナーな方や古事はとっつき難い面
を感じます。
秋と冬場の季節限定のハウステンボス電飾は、1000万球超で日本でナンバーワンなのだそうです。
たしかに納得する光の王国でした。
神戸のような東京ミレナリオの光のショーを見ましたが、光がうねって きらびやかでした。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/6110c8cbf4a8d86b0e06bd40ff3dcb08
夕闇の迫る中、高速バスは一路東京方面へ向かっております。
長かったようで短い休日は、今年は此れでお仕舞い。
最後の三日間は日本で苦しんでいる夢を見ました。
コレから現実との格闘が始まります。(笑)
中国の茅台酒は、何処でも飲まれる中国人御用達のお酒です。
一般的には北京などの帰宅は度数の高い白酒(ばいじゅう)で50度以上有ります。
上海なと南は紹興酒で日本酒と同じ程度の度数ですが、例外が茅台酒なのです。
中国人の心の酒とでも言ったところでしょうか。
絶対など、相手をもてなす場合には不可欠な酒で、超高級酒です。
偽物も多いのですが、本物は中級品で一本数万円します。
今夜は帰宅したら、絶対に寿司屋だな!(笑)
帰宅ではなく、北の北京です。
無事のご帰国何よりでした。
中国のきついお酒で痛めた体を、お寿司と日本酒で癒すのですね。
矢張り、日本人には日本酒が一番ではないですか?