昨日までの2日間ブログを休ませていただきました。
この間に現役時代のOBで構成する”歴史探訪同好会”のメンバーと熊野古道を歩いてきたので、今日から数回に分けて世界遺産「熊野古道」をご紹介します。
この同好会は、熊野古道の「中辺路コース」を4年間に亘って歩いてきましたが、今回がこのシリーズの総仕上げとなるものです。
今回のコースは、「猪鼻(いのはな)王子」から「熊野本宮大社」までの10キロ弱の道程です。
今回はいよいよ最終目的地の「熊野本宮大社」に到達するということで、民宿に宿泊し、温泉で禊を済ませ、酒を酌み交わしながら、参加者13名は半年ぶりの対面に花を咲かせました。
・これが民宿です。
民宿の横を流れる河原の木々は赤く色づいて、深まる秋を演出していました。
早朝に今回のスタート地点である「発心門王子」までバスで行き、そこから約1キロm先、80mほど下った谷の音無川の河畔にある猪鼻王子跡を目指しました。
平安時代末期の藤原宗忠の参詣記『中右記』には「三輿の多介(みこしのたけ:三越峠)を越え、次いで谷を下り、谷川を渡ること数度。
亥の鼻(猪鼻:いのはな)を過ぎ、ついで発心門に入る」との記述があるようです。
・バス停から谷川に下る古道です。
・途中の林道は紅葉が綺麗でした。
「猪鼻王子跡」
ここに立てられている説明によれば、滝尻王子から本格的な山岳路となった熊野参詣道(中辺路)は、十丈峠、岩神峠、を過ぎ、標高約500mの三越峠(みこしとうげ)を越えると、熊野川の流域に入る。
この猪鼻王子から先の道は登り下りをくり返しながら高度を下げ、明治22年(1888年)の水害まで熊野本宮大社が鎮座していた熊野川の中洲(大斎原:おおゆのはら)へと続く。
と記されています。
猪鼻王子(いのはなおうじ)は、『中右記』『頼資卿記』に、谷川を数度わたって猪鼻王子に着いたと書かれているそうですが、その後の熊野詣の衰微に伴って廃絶したそうです。
「猪鼻王子」と刻んだ石碑は、享保8年(1723年)に紀州藩主徳川宗直が熊野御幸の史蹟顕彰のために建てたもので、紀北産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)製だそうです。
・紀北産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)製と言われている、「猪鼻王子」と刻んだ石碑です。
猪鼻王子跡の石碑の傍には、穏やかな顔で合掌しているお地蔵さんが鎮座していますが、風雨にさらされ、苔がむしてお気の毒な感じがします。
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今回が、4年間歩いた総仕上げなら、いつも以上の充実感が得られたのではないでしょうか。このシリーズがたのしみです。
古道を歩きながら、猪鼻王子などの史跡や地蔵さまを見るのも風情です。
iinaも、こんかいの旅でイノシシに助けられた和気清麻呂が歩いた道をドライブしました。近々にご案内しますね。
らいちゃんは、オープン近いハウステンボスにお出かけでしたか。イメージは、当時と違って見えるでしょうか?
ホテルヨーロッパに宿泊なら、テーマパーク内のホテルですから自由に園内を歩き廻れたことでしょう。
iinaは、対象施設をフリー体験できるパスポートではない入場のみのチケットにしましたが、ご覧のとおりに充分たのしめました。
同じ趣味のお仲間ともなれば、なおさらのこと。
素敵な交流が出来たのではございませんか。
私も昨夜は上海の仲間と、しばしの別れを惜しんでまいりました。
MOUTAIで何度も乾杯をし上海蟹を3ハイも食べたので満足して中国を離れられます。(笑)
中国の乾杯は、文字通り「さかずき」を「ほす」ので、53度のお酒はキツイ。
日本の盃ほどの分量が入る、小さなワイングラス状の杯なので、量的には大したことはないのですがね。
歳のせいで」お酒が弱くなったので、度重なる乾杯には閉口します。
なにぶん、私以外は全員中国人ですので・・。(笑)
明日、帰国いたします。
一度歩いてみたいものですね。
これはきついでしょうね。
歳のせいではなく、アルコール度数のせいでしょう。
仲間の皆さんはみな中国人とのことですが、彼等はこの度数の強いお酒を平気で飲んでいるのですか?
ロシア人は寒い冬に体を温めるためにきついウォッカを飲むと聞いていますが、ロシアより暖かい上海でこのような酒を飲むとは思いも寄りませんでした。
日本に帰ったら、度数の低いお酒で中和して、体内を整えてください。