「江戸の敵を長崎で討つ」と言う諺があります。
この諺は元々は「江戸の敵を長崎が討つ」と言うのが本当なのですが、ご存知だったでしょうか?
そこで今日はこの諺の由来をご紹介します。
「江戸の敵を長崎で討つ」とは、意外な場所や筋違いなことなど、ひょんなことから、嘗て受けた恨みの仕返しをする例えとして使われます。
これは、江戸の地で恨みを受けた相手を、江戸から遠く離れた長崎の地で討ち果たすことから、このように言われていますが、実は、その由来はそうではありません。
「諺の由来」
江戸時代の文政年間(1818年から1831年)に、大阪の一田七正郎という職人が巨大な涅槃像を竹細工で作り、浅草で展示したところ、これが大好評を博しました。
しかし、江戸の職人には面白くありません。
江戸っ子気質で負けてはならじと、布袋(ほてい)の像を作って対抗したのですが、なにぶん、にわか作りの事ゆえ大阪陣に完敗を喫しました。
江戸の職人の面目は丸潰れです。
ところが、丁度同じころ、江戸で長崎から来た興行師がオランダ船の見世物を打ったのです。
あちこちが機械仕掛けで動くようになったからくりで、大砲の轟音のおまけまでついていました。
人気は非常に高く、先の大阪の竹細工に大きく水を開けたのでした。
これを喜んだのは江戸の職人たちでした。
長崎から来た興行師が江戸の職人の面目をはらしてくれたことから、「江戸の敵を長崎が討った」と言われ始めたのです。
これがいつの間にか由来が忘れられて、「長崎が」が「長崎で」に変わっていき、現在のような使われ方になったのだそうです。