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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「灯台記念日」と「エルトゥールル号」遭難事故

2010-11-01 | 雑学
今日11月1日は「灯台記念日」です。

海上保安庁のHPによれば、「灯台記念日」とは、我が国における西洋技術を用いた灯台の建設が明治元年(1868年)に横須賀市の観音崎灯台で始まり、灯台業務の開始を記念するため、同灯台起工式である11月1日に因んで昭和24年(1949年)に定めた記念日で、今年は明治元年から142周年を迎えます。

1854年、日本はそれまでの鎖国から開国に転じました。これに伴って日本付近の船の往来も多くなり、幕府はアメリカ・イギリス・フランスの助言によって、主な岬に灯台を設置することを決めました。
慶応3年(1867年)、その中で最も緊急性のある場所として、観音崎(横須賀市)、野島崎(房総半島)、城ケ島(三浦半島)、品川第二砲台(江戸)が選ばれ、フランス人技師F.L.ヴェニルに建設が依頼されました。
しかし、依頼してすぐに江戸幕府が倒れて明治維新となったため、実際の着工は約1年遅れて明治元年(1868年)になったそうです。

・美保関灯台です(島根県)


「エルトゥールル号」の遭難事故」
灯台と言えば、先日のNHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、トルコの軍艦”エルトゥールル号”の遭難事故を特集していましたが、この事故で、遭難したトルコの水兵が助けを求めてきたのが和歌山県串本町大島の樫野崎灯台です。

今日は「灯台記念日」に付随して「エルトゥールル号」遭難事故の概略をご紹介します。
「遭難事故の概略」
エルトゥールル号遭難事故とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町大島の樫野崎灯台沖で遭難した事故で、概略は次のようなものです。

オスマン帝国(現在トルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えるためと、両国の友好関係の発展と相互理解を期待して派遣された艦船で、1889年(明治22年)7月、イスタンブールから11ケ月をかけ、1890年(明治23年)6月に日本に到着しました。
一行は皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

そして3ヶ月余後の1890年(明治23年)9月16日夜半、帰路に着いたエルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県串本沖の大島の樫野崎に連なる岩礁に激突しました。
座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こして沈没し、司令官オスマン・パシャを始めとする乗組員587名が死亡または行方不明となる大惨事となりました。

このとき、樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、四十メートルにも及ぶ断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせました。
灯台守から通報を受けた大島村(現串本町)樫野の住民たちは総出で救助と生存者の介抱にあたりました。

漁業で生計をたてている村人たちは貧しい生活をしており、台風で出漁できず、食料の蓄えも僅かでしたが、それにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリにいたるまで供給するなどして、献身的に生存者たちの回復に努めました。
この結果、収容された69名が救出され生還することが出来ました。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島町長に伝えられ、町長は神戸港の外国領事館に救助を求めて、生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配すると共に、県を通じて日本政府に通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられています。
こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、10月5日に品川港から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。

エルトゥールル号遭難事故はオスマン帝国に大きな衝撃を呼びましたが、新聞を通じて大島島民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は、遠い異国の日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれています。
この時の大島村の村長の危機管理に対する対応と連携は見事であり、その後も称賛されていると伝えられています。

・樫野崎灯台です。この灯台は日本初の石造り灯台、回転式閃光灯台であり、当時、最先端の救助のノウハウを持っていたそうです。


昨年トルコ旅行をしたときに、現地ガイドのギョクハンさんは、”トルコの人達は、助けてあげても恩返しは期待しませんが、親切にされたら必ず恩返しをするという国民性であり、日本人に対しては、殆どの国民が「好きだ」と答えるほど親日的な国です”と話していました。
その理由は、120年前に起きたエルトゥールル号遭難事故に遡ります。
この事故で日本の救助活動に感謝し、トルコは長い間日本に対する親愛の情を育ててきた国なのだそうです。

「トルコの恩返し」
トルコの恩返しが実行されたのが1980年(昭和55年)に勃発したイラン・イラク戦争でイランに取り残された日本人を救出してくれたトルコ政府の対応です。
1985年(昭和60年)3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間後にイラン上空を飛ぶ全ての飛行機を無差別攻撃する」と宣言しました。
このため、各国は自国民の救出に奔走しました。
日本では、イランの日本大使が八方手を尽くしましたが、自衛隊機や日航の飛行機が海外派遣不可の原則で救出に行けず、他国も自国民を救出するのが精一杯で協力が得られませんでした。
そんな中、トルコ大使だけが「直ちに本国に救助を求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰でもが「エルトゥールル号」の遭難に際して受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」と答え、2機のトルコ航空機が派遣され、215名の日本人全員を乗せて、トルコ経由で成田に全員帰国させてくれたのでした。
先日のNHKの放送を観た時に、改めてそのことを思い浮かべました。

・現地ガイドのギョクハンさんです。流暢な日本語で”エルトゥールル号”の遭難事故について説明してくれました。