『チボー家の人々』問題


 「『問題の』って、なにが問題なんですか?」という方が多いんだと思いますが、わたくしは『チボー家の人々』が象徴する文学上の大問題があると思うのです。

 今月の日経の「私の履歴書」はトリシェ・・・さんですね。欧州経済をリードする重責を担った、有能な人であることは疑いないと思います。
 月の最後の方は経済の話ばかりになりましたが、上旬ころ、つまり生い立ちの頃の述懐はこの方が素晴らしい教養の持ち主であることを明確に示すものでした。
 そりゃこの人も書きたいことを書いているだけで都合の悪いことは書いてないでしょう。彼が完全無欠の聖人で見習うべきだ、というわけではないんですけどね。

 だけど日本も、彼ぐらいの「教養」をもった人材が作れないのでは世界をリードする役をつとめるなど、とてもとても。「白人の支配は去った」というのが、代わりに日本人が、という話だったとしたら、それはちゃんちゃら可笑しいです。
 頭の中がカネのことばかりでは、日本にいるカネの亡者たちはついてきても、世界の心ある人々はぜったいついてはこないですよ。

 それはさておき。

 じゃ「教養」とは一体何か。

 ここを間違えやすい。

 わたしが確かかなと思うのは、「21世紀の日本人が世界の中で存在感をもちリスペクトを得られるために持つべき『教養』というのは、20世紀前半までの日本人が『こういうのが教養だ』とみなしていた『もの』とは違うだろう」ということ、もうひとつは「そういう21世紀に求められる『教養』というのが20世紀前半までの『教養』と違うのだ、ということにあまり日本の人たちは気が付いていないだろう、単に『教養』は崩壊したと思っているか、『教養』を元に戻さねばならないと思っているか、だけだろう」ということです。

 「教養」を20世紀前半型に戻すというのは、歴史を逆行させることでそれは無理だしやってはいけないことだから、21世紀型の教養を模索し、作らなければならないのだと思うのです。

 27日の「わたしの履歴書」でトリシェ氏は親友として内海あつし(この字はどうやって出そう?)氏という元財務官の方を「仏文学に深く通じ『チボー家の人々』を原語で読む」人として紹介しておられます。

 『チボー家の人々』。これは20世紀前半まで型の教養主義が生きていた時代には、フランス文学の目玉商品みたいな作品でした。白水社さんはこれでかなりお儲けになったはずです。『チボー家』を「原語で」読めるようになりたい、というのがフランス語学習動機の強力なものになっていたのです。

 いまはそういう状況は完全に消えました。トリシェ氏自身、自身の教養を語るときランボーやマラルメの名はあげていますが、『チボー家』の作者マルタン=デュ=ガールの名は出していませんから、フランスでは日本より早く『チボー家』の凋落が始まっていたことが理解できます。言ってみるならフランス人たちは『チボー家』を静かに葬っていたのです。
 『チボー家』はよく書けた、面白い作品です。ただ面白いだけに、その影響力が忌避されるようになったとき、急いで葬られることになったのかな、と思うのです。

 なぜそうなったかという原因はおおざっぱに言って「作品内で高められている道徳がうさんくさいものになった」ということでしょうか。しかしここではそれ以上原因には触れないことにしておきたいです。ここで言いたいのは『チボー家』は21世紀型の教養には属さないだろう、ということです。

 この小説はいわゆるroman-fleuve、「大河小説」というジャンルに属するものですが、その底流にはAntoine, Daniel, Jacquesなどそれぞれの登場人物――若者たち――の「自己形成」というテーマが厳然として存在します。つまり世界の文学界においてBildungsromanというドイツ語で指し示されるジャンルの特性があるのです。日本ではこのドイツ語に「教養」小説という定訳がかぶせられているのはご存知の通りです。

 実はこの「自己形成」という言葉が、「文学」という言葉と結びついて、いま金沢大学の中にいるわたくしにひとつの大きな問題として存在しているところなのですが・・・
 でもそういう言い方をすると問題を矮小化することになるかもしれません。
 あくまでもお話は一般論として続けますが・・・

 今必要とされている教養、Bildungで指し示されるものとは違う(そして――先日ちょっとわたくしの近辺でお話が出たので付け加えておきますが――もちろんself-fashioningとも違う)、何かだと思うのです。

 



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