石原慎太郎は必然か


 『文芸春秋』9月号、もう店頭には並んでないと思いますが・・・ 芥川賞受賞作に隠れて、石原慎太郎氏が「白人の世界支配は終わった」という一文を書いてます。白人の世界支配が終わるなら、次に支配者になる人たちがいるとすればそれは中国の人たちだ、という主張なのでしょうね、日本の人たちということはありえないように思うので・・・

 先に申し上げておきますが、これはフランスという名前は明言していないものの、攻撃のターゲットは明らかにフランスである嫌仏、そして反フランス語的言説だろうなと思います。なぜなら「白人の世界支配は終わった」とはなんともどぎついタイトルですが、全部読んでみるとどうもこの「白人」というのが現代日本で「白人」という言葉で指し示されるカテゴリーの人々とは違うのが分かるので。

 たしかに「これはおよそ七十年前に日本とドイツ(このあとドイツは国としてはこの文章には出てこないのですが、もちろんドイツもいわゆる「白人」の強力な一角をなす人たちが中心になっている国であることは言うまでもありません)が戦争に敗れ無条件降伏をした直後にアメリカの代表的新聞ともいえるニューヨークタイムズの日本に関する論説に添えられていた漫画です」(p.162)としてあるカリカチュア漫画を転載するところから始まっていますが、最後の節でIOCの内部事情を批判している節では、ロンドンオリンピックの最高責任者セバスチャン・コーという人(文脈からして、いわゆる白人の英国人なのだと思います)から:

 「日本のプレゼンテイションは最高だった。準備態勢も財政面も全て含めてうらやましいものだった。しかるになー」(p.174)

といって慰められた?というエピソードが語られています。少なくともこの節に関する限り、打倒されるべき「白人」支配者の中にイギリス人(というのも、マジョリティはいわゆる「白人」の、まさに中核をなす人たちではないですか)ははずされている感じなのです。

 さらに「私がオリンピックの招致活動の間中感じたこととは、皮肉なことに戦後日本の統治者だったアメリカ人をヨーロッパ人種は同等の白人と見なしてはいないという実感でした」(同)とも言われていて、「白人」の中にはアメリカ人(の指導階層?)のことも入っていないようです。それで:

 「その端的な事例は民族の祭典ともいわれるオリンピックを司るヨーロッパ人が主導するIOCなる組織の実態で、私自身東京でのオリンピックを唱導してその招致のために努力もし、再度それを唱えて後人のたちの努力で幸い成功にこぎつけはしましたが、初めての試みの中で痛感させられたあのなれ合いにも満ちた不透明極まりない不条理さにはいまだに我慢が出来ません。
 我々が行った招致運動なる試みはまさに『懇願』そのものであって、招致の松明に再度火をともしながら私が知事の仕事の四選を忌避したのも、もう二度とあんなに屈辱的な仕事にかかわりたくはないと念じたからに他なりません」(p.173)

とまで書かれてしまってます。石原氏は知事職は任期の途中に別の理由で辞めたように記憶していますが、本当の理由は本当にこれだったのでしょうか。

 IOCが舞台になっていてイギリス、アメリカ、言いかえれば勝ち誇る英語圏の中核にいる人々でもない有力な「白人」「ヨーロッパ人」となると、筆者が敵視しているのは間違いなく「フランス人」あるいは「フランス語でコミュニケートする人」がその重要な部分を占めるグループであろう、と思います。

 それじゃ、なぜ「フランス」のことも「フランス語」のことも、石原氏はひとことも言っていないのだろう? 
 それを言ってしまうと、フランス語が「白人」だけのものではないというのがオリンピック招聘委員長?として目の当たりにした現実だったから? 

 オリンピックの開催国決定というものはいろいろな要素の絡みあった結果としてでてくるものですから、なにも東京都知事がむきだしの反フランス語的態度をみせたから負けたとか、滝川クリステル氏がフランス語でスピーチして見せたから勝った、とかそういう単純なものではないでしょうが・・・

 おそらく石原氏は実際に、オリンピックの内幕の非常に汚い現実を目の当たりにされたのでしょう。わたしもそれはあるだろうし、不正は正されないといけないと思います。
 ただオリンピックそのものが他ならぬフランスのクーベルタンの尽力でできたものでしたね。ついでに言うとサッカーのワールドカップの方はジュール・リメです。
 放っておいたらアメリカと英語が勝ち誇るだけのリアル世界の中に、二番手以下の国の出身者でもリュウインを下げることができる場をスポーツ世界に作り、維持するのにフランスが貢献したというところは、やっぱり評価してもいいんではないでしょうか。まあそれはフランスのような「万年二番手」がある程度やむなくとるエゴイスティックな戦略ではあるのですが・・・でも世界の他の国のひとはそれを利用することができるのです。

 (それに、昔だったら浮世絵の真価、今だったら日本漫画の真価を西洋でいちばんよく理解して世界にそれを発信してくれているのも、やっぱりフランスなのではないかと思います。そっちの方もやっぱり認識しておきたく思うのですが・・・)

 さてこの石原氏は、ここでも書きましたが、それでも知的形成の重要な部分をフランス文学に負っている人だと思いますが、そういう人がなぜ極端な反仏主義者になってしまうのか。そこには必然の要素があるように思います。・・・というようなことを考えるのは、やはりかの朝日新聞の基盤がゆらぐ2014年9月の時点にわたくしがいるからかもしれません。
 
 ずっとずうっと昔、まだテレビが白黒だったころ、石原氏が上田哲氏と議論しているところをみたことがあります。
 あのころから石原氏は、日本のある種の言説に対して憤懣やるかたないという気持ちを持ち続けていて、それはもう本能的なものになっているのだと思います。

 とにかくこのお話は精密な扱いを必要とすると思います。いずれまた続きを書きたく思いますが・・・書けるかな?

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

少子化と認知障害は


 あるいは少子化と老人の認知症は同じカテゴリーで論じられるべきものかもしれない、と思いあたりました・・・
 
 そこで・・・「つながる」という言葉はすでに陳腐化しているし意味も不明確なので、「伝える」という言葉を使って状況を記述してみようと思います。

 社会変化の速度がどんどん速くなる。ひとは次の世代に何かを伝えることの、ほとんど生物学的というべき正しさが信じられず、またその試みが成功するための客観的基盤の存続も信じられないから、結局、暗黙のうちに極端な利己主義に走るしかなくなる。それは次の世代を「作る」意欲を減退させる。
 またこの減退は、次の世代に何かをはたらきかけ「伝えようとする」ときたしかな抵抗を受けるという体験への意欲も減退させ、希少化してしまう。

 例によって、何を言っているのか、分かる読者がいるだろうかなあ・・・
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )