新しい時代の「教養」について(3)ドイツ古典音楽もワールドミュージックになってほしい

 日本経済新聞の「教養アゲイン」はなかなか面白い連載でした。第一回目(7月19日)では、「今」の日本における「教養志向」の典型的な現れ方の紹介がありました。最近はやりの「あらすじ本」「ダイジェストCD」等のことです。この種のものはあらすじ、曲のさわりがどうのというより「カタログ」「データベース」として機能していると思うので、いわゆるポストモダンを具現していると言えるのかもしれません。これについてはもっとよく考えてみます(それから、まだほんの思いつきの域を出ていませんが、ひょっとしたらポスト=ポストモダンは「ハイパーテクスト」の時代かなと思ったりします)。

 わたしは別にこういう販売法が悪いとは思いません。しかし「ベスト・クラシックのCDが売れていても、ほかのクラシックCDへの影響は見られない」「文庫の売れ行きに大きな変動はない」という事実がはっきり報告されているところから見ても、どうもこういう試みは生を揺るがすような、生を支配してしまうような美的体験と出会うことにはなかなかつながらないのじゃないかと思います(大層な言い方ですが、わたしの場合、まあついうきうきと鼻歌で歌ってしまう、というくらいのことでもあります)。非常に優れた美というのはこういうカタログ化の営みからは本質的にはみ出る場合が多いのかもしれません。

 それはともかく、やはり問題の「旧制高校」の話が第二回(7月20日)に出てきました。紹介されている各地での「かつての旧制高校のような教養教育」模索の内容はかなり性質が多様ですので一概には言えませんが、「教養教育復権は、五十歳以上の世代が抱く」「無知に対する恐れとおののき」というのが第一回の締めくくりの言葉であるところからも、若い世代の「無知」というのが厳密に言うと「五十歳以上の世代が知っていて若い世代が知らないこと」という意味であるのが分かります。

 ということは、五十歳以上の世代が知らなかったもの、または知るに値するとは思っていなかったものに関しては、若い世代が知らなくてもそれは「無知」には見えない、ということになりますね。

 わたしの危惧するのは、旧制高校ノスタルジーから出発する教養主義が「昔(旧制高校の世代に)見えなかったものを、これからも(若い世代に)見えなくしたままにする」という事態を招かないか、「むかし軽視されていたものが、これからも軽視されつづけるようにする」という危険性を持っていなか、ということです。
 例によってアルジェリア文化のことを考えます。アルジェリアは、旧制高校のあった時代にはまだ国ではなくフランスの一部でしかありませんでした。この国とこの国の文化に対する無知、軽視を旧制高校へのノスタルジーとともに再び「学び直す」ということになるのでしたら、(くさい言い方かもしれませんが)わたしはアルジェリアのためにその不当さを糾弾します。
 わたしとしては、「新教養」においては「ジャンルに貴賤なし」という原則が徹底され、世界の諸文化ができるかぎり平等に紹介されるべきであると主張します。

 音楽の分野ではわたしは。特にドイツ古典音楽が他の多くのジャンルと同等の資格のワールドミュージックになってほしい、と期待したく思います(ここで言う「ワールドミュージック」というのは現行の音楽ジャンル名を意識的に拡大解釈させていただいたものです)。
 「教養アゲイン」第一回にも音楽家として名前が出てきたのがバッハ、シューベルトだけだったということは、ドイツ古典音楽が日本でいう「クラシック」の、「教養」の中核をなしていることを象徴的に示しています。しかしすでに欧米でもポピュラー音楽の伸張等のために「クラシック」は21世紀の生きた音楽として支持を得、生き延びるのに困難を覚え、はなはだ苦しんでいるのです。そういうものを日本の「教養主義」の中で「教養」としてだけ生かしても仕方がないのではないでしょうか。それでは「権威」として生き残っているだけで、実際に人に生きる喜びを与えたり気合いを入れてくれたりするものにはなっていないことになります。
 本当はそんなことはないはずなのです。わたしにとって印象深かったのは、バッハの『ゴールドベルグ変奏曲』の例です。ずいぶん長い間わたしはこの曲に偏見がありまして、「音楽の父」バッハさまのいかめしい顔、「ゴールドベルグ」なんていかにも重金属(ヘビメタじゃないけど)、重々しそうな語感のタイトルからこの曲が「権威」そのもののような感じがして気をそがれ、聞かないままに敬遠していたのです。

 しかしラジオで聞く機会があって、唖然としました。 (*o*)

 楽しい曲じゃないですか!  (^_^)y

 とくにグレン・グールドによるこの曲の演奏を聴いたことのない人は、確実に人生の喜びをひとつ損していると思いますよ(それにしてもグールドの二回目の録音がヤマハのピアノでなされたというのは痛快な話ですね。 (^_^) )。まあいっぺんお聞き下さい。 (^_^)y
 この曲はドイツの某作曲家の作った『アリアと三十の変奏』という曲であった方がむしろ出会いやすかったかもしれないとさえ思います。

(まったくの余談ですが:タイトルで損しているというと、志賀直哉の『暗夜行路』も頭に浮かびます。いまだったら『謙作がんばる』くらいにした方が・・・ (^_^;) というのは、あの作品はまだ読まれるだけの価値があると思うので、タイトルの暗さで現代の読者に敬遠されていそうなのを残念に思うからです)

 ドイツ古典音楽、いわゆる日本でいう「クラシック」の中核をなすものが人々に聴かれることは結構ですが、特にこれら「だけ」が聞かれるべきものとして、権威として示されるというのは「新教養」の時代にはやめておくべきことだと思います。『ゴルドベルク』や『フランス組曲5番』みたいな可愛い曲を作ってくれたパパ・バッハですもの、もし21世紀にやってきたら、たぶん「いろいろいい音楽が世界にたくさんあるようになったのだから、わたしのだけじゃなくていろいろ聴いてみてはいかがかね」とか言うに決まっていると思うんですよね。(^_^)
「新教養」時代には、教養として勧められる音楽としてヨハン=セバスチャン・バッハとエリック・クラプトンとラシード・タハでそんなに扱いに差がない、という状況が望ましいと思うのです。
 ・・・となると、やっぱりどうしても諸ジャンルのカタログ化が起こってしまいますね。これはたしかにポストモダンだな。 (^_^;)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« いってらっし... 音楽と酒と宗教と »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。