退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「中庸であること」について

2016-03-04 03:04:32 | Weblog
晴れ。春間近のあたたかさ。

柏野牧夫「空耳の科学 だまされる耳・聞き分ける脳」を読む。

耳という感覚器官の精密さを知りつつ
それが脳によって単純化されるよりない仕組みにふむふむ。

われわれは「聞きたいもの」だけを聞いているらしい。
ノイズがある方が言葉を聞き取りやすいという不思議なども。

われわれの「体質」は圧倒的に「セカイ系」。
ならば自分の感覚を信じつつ疑うよりないか。

かくして「宙ぶらりん」にならざるを得ず。
その「体力」がないものはいたずらに「絶対あるいは白黒」を説き。

深夜アニメ「暗殺教室」を観る。

メインキャラクターの渚は息子を自分の思い通りにしたいシングルマザーに従っているものの
進路調査の時期に迷いが生じ。

楽しく過ごせているE組を抜け出す工作までしようとする母親に戸惑いつつ
ころせんせーのアドバイスでどうにか「和解への道」を歩き出すというお話。

なぜこの種の「和解の物語」が好まれるのかと言えば
それが「現実に存在しがたいから」。

「フィクションが願望を示すこと」もあるのは覚えておいていいだろう。
もっともこの「単純さ」にはいささか辟易とするけれど。

残念ながら母親が異様なまでに子どもに執着する原因は「夫婦の不和」にある。
そもそも自分が楽しければ「支配したい欲求」など生まれようもなく。

その一方「和解という幻想」を脱ぎ捨てれば
「ほどほどに付き合うこと」も出来るはずだという「理屈」の「実行」も難しく。

物理的な「身近さ」を「わかりあえるはず」と思い込む過ちよ。
むしろ「虐待」を生み出す土壌だったりするのにご用心。

「相手を認めること」が「自分を見つめ直すこと」にもつながるわけで。
ことほど左様に「思い通り」というのは「厄介な考え」ではある。

どこまでも「セカイ系」なわれわれときたら。
「中庸である」ためにはやはり「体力」が要る模様。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする