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退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「物語という『不自然』」について

2013-12-14 02:15:59 | Weblog
晴れ。冷える。

「科学以前の心」読了。

あとがきの福岡伸一はまるで「ラブレター」を書いているよう。
もちろんそれだけの魅力はあるのだけれど。

中谷宇吉郎が科学そのものに疑いを抱く文章を書いていないところを
実に興味深く解釈しているので詳細は本書まで。

それが「客観的な評価」なのか「アバタもエクボ」なのかを
是非確かめていただきたいもの。

さて。

自分がある種の「美学」に基づいて日頃何らかの行動をしているとする。
その対象は仕事であろうと遊びであろうと構わない。

たまたま知り合った他人が「同種」だと思われる「気遣い」を見せると
それだけで好意を持つようにになるということがある。

もちろんそれはその人物のごく一部に過ぎず
「拡大解釈」した結果に過ぎない。

その人物は唐突に「いい人」ということになり
仮に彼もしくは彼女が「美学に反すること」をしたとしてもそれを「補う解釈」をする。

曰く「何か事情があったのではないか」
あるいは「あの人がそんなことをするはずがない」など。

ただし当然の事ながらその人物についてすべてを知ることは不可能で
単にその人物が「違う顔」を持っていたという「事実」を認めたくないだけだったり。

要は「贔屓(ひいき)の引き倒し」。

注意すべきはその相手が他人ならまだしも自分であったりすること。
それを「ありがちなこと」だと思えば人は謙虚にならざるをえないはずなのだが。

「仕組み」は単純極まりないとはいえ「実行」するのは案外難しい模様。
「崇高」と「卑小」がひとつの身体に同時に宿る「事実」はどこへ。

そこを直視しないために「英雄」や「天才」はその一部を圧倒的に「拡大解釈」され
「伝説」が生まれもてはやされることにもなるとして。

われわれは生まれつきどうにも「不自然なもの」が好きらしい。
通常それらはすべて「物語」と呼ばれて愛されているけれど。
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「透明な率直さ」について

2013-12-13 02:43:40 | Weblog
晴れ。風が冷たい。

中谷宇吉郎「科学以前の心」を半分くらい読む。

寺田寅彦、中谷宇吉郎と続くこのラインは
科学に関する読み物におけるわが国の「宝」と言っていいだろう。

一方北杜夫、本書の編者福岡伸一という別のラインは確認できているものの
それ以外に「センス・オブ・ワンダー」を伝える書き手がいるかどうかは不明。

以前にも書いたようにライアル・ワトソンはその「系列」ではある。
不勉強ゆえそれ以外については寡聞にして知らずという状態。

「世界にさまざまな不思議があるのではない。世界があることが不思議なのだ」
小林秀雄風のこの言葉(記憶が正確ではない)は誰が言ったのか忘れてしまった。

そうした不思議についてもなるほどと思いつつ
「センス・オブ・ワンダー」はやはり「世界に存在する不思議」ではある。

たとえばそれがペダンティックな小栗虫太郎やあやかしの夢野久作となると
また違った「風味」が加わることになる。

久生十蘭ならもっと華麗で山田風太郎だと哄笑になったり。
さらには江戸川乱歩や横溝正史を加えてもよし。

個人的には科学は「曹達(ソーダ)水の清涼感」。
抑制の効いた知性と冷ややかな感覚の融合が心地よく。

文章の雰囲気だけで言えば水上瀧太郎も似た感じがなくもない。
「透明感」がキーポイントだとしておこう。

今のところ本書ではひょんなことから雪の結晶に関する映画を撮ることになり
「編集の妙」を面白がったりするエピソードが印象に残る。

ひと言で表すなら「素直な好奇心」。
結局そこに尽きるように思えるのだが如何。
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「灰色であること」について

2013-12-12 01:19:41 | Weblog
晴れ。出がけには地面が濡れていた。

佐倉統編著「科学の横道」を読む。

「横道」に期待したものの思ったほどの「収穫」はなし。
いっそのこともっと「王道」を行くべきだったかも。

どうやら編者には「文系・理系」という区別がありすぎて
その「当然」を「斜めに超えたつもり」がインパクトの弱さにつながった模様。

「センス・オブ・ワンダー」を知っていることと実際にそれを伝えることは別。
なかなか難しいものではある。

大櫛陽一「メタボの罠」を読む。

「メタボリックシンドローム」というのが
実は厚生省と製薬会社と医者による「デッチ上げ」だという「告発」。

何事においても重要なのは
「どこからどこへ金が渡っているか」。

TV局がスポンサーにマイナスな情報を採り上げられないのと同様。
もっともこの場合はさらに「悪質」ではあるけれど。

そもそも「健康増進法」などというつまらん法律もある。
人がどう生きようがゴチャゴチャ言うべからず。

「異常な健全さ」は必ず「毒」を生み出す。
「寿命」という言葉の持つ意味をあらためて噛みしめたいもの。

われわれの感じる「理不尽」は人間以外の世界ではむしろ「常識」。
「自然の摂理」として最終的には受け入れるよりないだろう。

ただし気をつけなければならないのは
われわれが「自然=環境」を変える力を持っていること。

「白」と「黒」を認識しつつ「灰色」を生きるあたりが「穏当」か。
というより実はそれしかできなかったりするのだけれど。
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「落語」について

2013-12-11 02:09:10 | Weblog
晴れ。風が吹く。

中野翠「この世は落語」を読む。

「男と女」「江戸的人情」「遊びごころ」
「珍談奇談」「人生いろいろ」「騒動勃発」の6つに分けた落語紹介。

個人的にはあまり落語を聞いてはいないのだけれど
興津要「古典落語」や立川談志「現代落語論」などを読んではいるという「妙なご縁」。

これを機にyoutubeで落語もあれこれ探ってみるか。
今のところは音楽と将棋くらいなので。

なぜか「味噌汁で顔を洗って出直してこい」や
「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」という台詞は言ったことがある。

「バカだねえ」も「アホやなあ」も嫌いではない。
「しょーがねえなあ」も「しゃーないなあ」も。

さて。

郊外の無駄な「ハコモノ」の話を聞いたりすると
「油をかけて巨大なキャンプファイヤーをすれば」。

「誰かケータイを不能にする電波を発明したりしないか」
「日本語も満足に出来ない輩が英語なんざバカバカしい」。

やたらに「めんどくさい」という者には「息をするのもめんどくさかろう」
大したことのない身体の痛みを訴える者には「ガンか、若いと進行が早いよ」などとも。

喫煙をとがめられれば「オヤジが肺がんで死んだんで」と照れながら答え
それが飲酒なら「飲めば都」と笑って答える。

計算法則を無視すれば「地球のしきたりが嫌いなら故郷の星へ帰れ」。
「UFO待ちか打ち上げ待ちかどっちにすんだ?」。

漢字の読み書きが不自由なら「頼むから日本人やめてくれ」。
「じゃなきゃ即刻国籍剥奪の上国外退去処分にする」。

毎日「戯言」には事欠かない次第でどうも「大人気ない」ことしきり。
ただしその「反省」が生きないのがたまにキズ。

「佐藤B作」がいて「田中角B」がいないことに気付いたりしてしまうもの。
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「濃淡」について

2013-12-10 02:54:05 | Weblog
晴れ。雲は多い。

梅津信幸「なぜコンピュータの画像はリアルに見えるのか」を読む。

英語の頭文字だけで実はよく意味がわかってない用語を
きちんと説明してくれているのが親切。

本文そのものもわかりにくいところがないのもグッド。
まさに「初心者向け」で「ふむふむ」となるはず。

画像込みでDVDにしたらもっといい。
付録をつけて再発売したらどうかと思った次第。

どうせなら「生」の感覚をじかに目にした方がよさそう。
「写真=静止画像」だけでは「変化の味わい」が物足りないかも。

明確すぎて違和感のある「shadow(影)」と
あいまいゆえにリアルな「shade(陰)」の違いが面白い。

要は人の認識できる幅には限りがあるので
情報量を少なくした方が「リアル」だったりするということ。

PCの能力によって「人」があらためて明らかになる。
実はこの「陰影」による「ヒューマニズム」が「物語」になりやすい。

「早く人間になりたい」妖怪人間もアンドロイドも同じ。
「間」がむしろ「人間」を浮彫りにするという一点に変わりなし。

さらには線で区切る描写ではなく色の濃淡で表す「境界」が加わると
そこにいくらかの「余韻」も生まれそうで。

「モノクロ」であろうと「カラフル」であろうと「美しさ」がないと。
そうしたものについてはできるだけ敏感でありたいもの。
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「感情あるいは思い入れと理想」について

2013-12-08 02:28:17 | Weblog
「晴れ。夜に少し冷える。

今日はバタバタして出かけるのが遅れる。
ドトールには行ったがなぜか読書する気分にならず。

しばしボーッと煙草を吹かしつつ
隣りにいた中年カップルの女性の方がやたらにはしゃいでいるのを見る。

どうやらこれからお出かけのよう。
「サタデーナイト」ゆえの「フィーバー」があるようにと陰ながら祈った次第。

いつも通り淡々と仕事をこなして帰宅。
このところ電車で目を閉じていることが多いのに気付く。」と書いて昨日は寝る。

晴れ。このところずっとおだやか。

水道橋博士「藝人春秋」を読む。

「キャラクター=ある種の人格」が好きなんだなあと思わせる内容。
「イメージ」とは違う「事実」をどうしても「公表」したい気持ちのなせる業も。

「信頼できるレポーター」として認識しておきたい。
「知らない世界」について教えてくれるのは「科学者」と同じ。

その人のどこに「何事か」を感じるかは
実は自分自身が試されていることでもある。

夜になってマル激のNコメを観る。

「特定秘密保護法案」の可決も考えてみれば
「民主主義」をきちんと実行していないわれわれのせいだというのに納得。

自分が抱えている不全感によって
いとも簡単に「感情のポリティクス」に左右されるというのにも。

われわれにはまだまだ「冷静さ」も「賢明さ」も足りていない模様。
「カタルシス」だけを求めるのは虚しいというのが「自明」になる日まで。

ところでそんな日は来るのかと思うだろうけれど
「理想」は常に手の届かないものだからこそ意味があることを自覚したいもの。
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「ついつい」ということについて

2013-12-07 04:01:17 | Weblog
深夜にゴソゴソ。

youtubeに「祇園囃子」(’53)があるのを見つけたのが運の尽き。
ついつい最後まで観てしまう。

まだ二十歳の若尾文子は顔が出来上がっていない。
三十五歳の小暮実千代はいかにもな「女盛り」。

物語は「祇園の姉妹」(’36)よりむしろ「後退」している印象で
「金と身寄りのなさ」が「犠牲」を生む仕組みのみが描かれる。

「憲法」が持ち出されるあたりが当時の「限界」。
「祇園」という「制度」に「アプレ=戦後世代」を持ち込んだものの。

結局「泣き寝入り」ではどうしようもなく。
「現代の目」からすると「物語の設定」にあまり魅力が感じられない。

ただし1953年(昭和28年)ということを考えると
まだまだ巷にその種の「貧困」は当たり前のようにあったのだろう。

敢えて現代と比較すれば
「何もできない女子」が「必死に頑張る姿」にどこか応援したくなる気持ちを呼ぶようなものか。

「女の身体」が「客である男の仕事」を何とかするための「ワイロ」になるあたり
かつてあった「経済学」は今でもあるのだろう。

とはいえ正直それらはどうでもよく
小暮実千代の「姐さんぶり」をあらためて確認できるだけで十分。

彼女の顔は「浮世絵の美人画」を「モダン」にした感じ。
繰り返すが個人的には好ましい。

時代ごとの風俗があって
現代も含めていずれも「二度と戻らない」という意味では「同じ」。
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「女優ふたり」について

2013-12-07 01:31:37 | Weblog
くもりがちな晴れ。帰りにはほんのわずかにパラつく。

「女優 若尾文子」を見て読む。

溝口健二、川島雄三、増村保造といった監督たちとの出会いは
学生時代に「石仏」と言われた少女を映画女優に変えた。

いずれの監督との作品も観てはいるけれど
個人的には増村作品の印象が強い。

「妻は告白する」(’61)「清作の妻」(’65)「刺青」(’66)
「赤い天使」(’66)「華岡青洲の妻」(’67)など

二十代後半から三十代前半にかけて「強烈な意志を持つ女性」を演じ続けた姿を
ソフトバンクのCMでしか知らない若者たちに知ってもらいたいもの。

この「ひらがなの曲線を持つ女優」の声も今思えば独特。
柔らかさの中にも芯のあるメリハリが素敵。

それとは別に。

今回溝口の遺作「赤線地帯」(’56)のスチールを見て
小暮実千代の「色気」にあらためて気付いた次第。

小津の「お茶漬けの味」(’52)で佐分利信の妻を演じた時はいかにも可愛く
その一方溝口の「祇園囃子」(’53)では「姐ぶり」が見事で。

最近身近な若者に「好きな女優は?」と聞かれたので
少なくともこのふたりの名前を挙げておくべきだった。

彼ら彼女らが知る由もないのは承知の上で。
今や時代を超えた映像が簡単に見られるのだから検索すればいいだけのこと。

「映画=栄華」であった時代の豊かさを是非。
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「シンプルなこと」について

2013-12-06 02:36:42 | Weblog
またまた快晴。これで12月か。

「水の未来」読了。

やはり雨水の徹底的な利用と「中央管制」でない「地方利水」がいい模様。
とりわけ前者はいつでも出来るはず。

なぜそれが行われていないのかを
あらためて考えてみるべきだろう。

暖かい便器も悪くないけれど
「お尻」より「環境」にやさしい商品の方が好ましいのは確か。

もちろん節水になることは悪くない。
さらにできることがあるというだけのこと。

TOTOには是非お願いしたいもの。
企業イメージも売り上げも上がること間違いなしと言っておく。

かつて栄華を極めた数々の文明が
実は「塩害」で滅びたというのにはなるほど。

飲み水と農作物を育てるための水は必須。
「生き延びる」というシンプルに変わりはない。

「洪水」という自然を「制御」することより
「柳に風」と受け止めるあたりも納得。

あとは権力を持つ者たちがやたらに「巨大プロジェクト」を実現したがる傾向が問題。
「巨大さ」を求める気持ちの底には「自らの卑小」がある。

ここでも「事実」は「シンプル」に。
「身の丈に合った生活」をしよう。
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「水という貴重な資源」について

2013-12-05 01:23:52 | Weblog
快晴。連日。

フレッド・ピアス「水の未来」を途中まで読む。

世界各地の川や湖は干上がり
かつて続々と建設されたダムはむしろ人為による洪水の原因となっている模様。

ただし低開発国における「自然な洪水」は
あながち「悪いこと」ではないということもあるらしい。

実例が豊富に出てくるのでコワさは増す。
ただしそれでどうしたらいいのかが知りたいところではある。

先日風呂に入っている最中に突然ガスが止まった。
ガス会社のミスのせいだとわかり外にあるスイッチの長押しで事なきを得たものの。

久方ぶりにシャワーでなく浴槽からお湯を汲み出してあれこれやったら
思った以上にお湯が減るのに驚いたのがきっかけで借りてみたのだけれど。

蛇口をひねったりボタンを押すだけで水やお湯が出るのに慣れた身としては
水不足のせいで漁業あるいは農業をあきらめ生活を変えるしかない人々はいかにも「遠い」。

わが国の例を出すなら「諫早湾干拓事業」か。
ここでは漁業と農業の対立が生まれてしまう「構図」がもたらされて。

あるいは結局民主党が止められずに終わった「八ッ場ダム」も。
もちろんこれ以外にもいろいろあるのだろう。

「島国」であるせいで少なくとも他国に影響を与える環境にはないとはいえ
「恵まれた環境」を大切にしないと。

このところの「異常気象」で「未来」はますます予想しにくくなってきている。
「できるだけいい方策」が「権益」や「思惑」と関係なく行われなければならない。
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