退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ついつい」ということについて

2013-12-07 04:01:17 | Weblog
深夜にゴソゴソ。

youtubeに「祇園囃子」(’53)があるのを見つけたのが運の尽き。
ついつい最後まで観てしまう。

まだ二十歳の若尾文子は顔が出来上がっていない。
三十五歳の小暮実千代はいかにもな「女盛り」。

物語は「祇園の姉妹」(’36)よりむしろ「後退」している印象で
「金と身寄りのなさ」が「犠牲」を生む仕組みのみが描かれる。

「憲法」が持ち出されるあたりが当時の「限界」。
「祇園」という「制度」に「アプレ=戦後世代」を持ち込んだものの。

結局「泣き寝入り」ではどうしようもなく。
「現代の目」からすると「物語の設定」にあまり魅力が感じられない。

ただし1953年(昭和28年)ということを考えると
まだまだ巷にその種の「貧困」は当たり前のようにあったのだろう。

敢えて現代と比較すれば
「何もできない女子」が「必死に頑張る姿」にどこか応援したくなる気持ちを呼ぶようなものか。

「女の身体」が「客である男の仕事」を何とかするための「ワイロ」になるあたり
かつてあった「経済学」は今でもあるのだろう。

とはいえ正直それらはどうでもよく
小暮実千代の「姐さんぶり」をあらためて確認できるだけで十分。

彼女の顔は「浮世絵の美人画」を「モダン」にした感じ。
繰り返すが個人的には好ましい。

時代ごとの風俗があって
現代も含めていずれも「二度と戻らない」という意味では「同じ」。
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「女優ふたり」について

2013-12-07 01:31:37 | Weblog
くもりがちな晴れ。帰りにはほんのわずかにパラつく。

「女優 若尾文子」を見て読む。

溝口健二、川島雄三、増村保造といった監督たちとの出会いは
学生時代に「石仏」と言われた少女を映画女優に変えた。

いずれの監督との作品も観てはいるけれど
個人的には増村作品の印象が強い。

「妻は告白する」(’61)「清作の妻」(’65)「刺青」(’66)
「赤い天使」(’66)「華岡青洲の妻」(’67)など

二十代後半から三十代前半にかけて「強烈な意志を持つ女性」を演じ続けた姿を
ソフトバンクのCMでしか知らない若者たちに知ってもらいたいもの。

この「ひらがなの曲線を持つ女優」の声も今思えば独特。
柔らかさの中にも芯のあるメリハリが素敵。

それとは別に。

今回溝口の遺作「赤線地帯」(’56)のスチールを見て
小暮実千代の「色気」にあらためて気付いた次第。

小津の「お茶漬けの味」(’52)で佐分利信の妻を演じた時はいかにも可愛く
その一方溝口の「祇園囃子」(’53)では「姐ぶり」が見事で。

最近身近な若者に「好きな女優は?」と聞かれたので
少なくともこのふたりの名前を挙げておくべきだった。

彼ら彼女らが知る由もないのは承知の上で。
今や時代を超えた映像が簡単に見られるのだから検索すればいいだけのこと。

「映画=栄華」であった時代の豊かさを是非。
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