退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「説明のあれこれ」について

2012-06-18 03:14:18 | Weblog
晴れ。早足で歩くと汗ばむ。

昨日一昨日とついつい寝てしまう。
いちおう「『趣都』の誕生」「クリエイティブ・コモンズ」を読む。

前者はタイトル通り「オタク趣味」によって「新たな秋葉原」が生まれ成立することを描き
後者は「創造することの自由さ=二次創作」を維持するための「著作権に関する工夫」について。

いずれも「ほほぉ」とうなずく程度の理解のみ。
詳細はそれらの「問題」に詳しい人々におまかせすることにする。

デヴィン・ワトソン「ホラー映画の書き方」を読む。

ホラー映画のシナリオをどう書くかという本。
親切なことに「シナリオの売り込み方」についても書いてある(ただしアメリカでの)。

この種の本はこれまで何冊か読んだものの
いずれも「低調」と言うよりない出来栄えだったが本作はなかなか。

いささか若い著者なのでちょいと心配したのだけれど
「カリガリ博士」「魔人ドラキュラ」などに始まる「歴史意識」はそこそこしっかりしている。

おそらくは幼い頃病弱ゆえにその種のものに親しみを覚え
「好き」だからこその「真摯」があったからだろう。

「シナリオ」という「形式の呪縛」に囚われるタイプの人にはおすすめ。
少なくとも個人的には「映像が思い浮かびやすいかたち」で書かれていた。

「説明しすぎることのマズさ」については全く同感で
書いた「台詞」を「声に出すこと」でその「自然さ」を確保するあたりも同様。

「体験的セオリー」が書かれていると思えばわかりやすく
「ホラーのツボ」は押さえてあると思われる。

むしろ「ホラー」に限定せず
「シナリオあるいは物語一般」についてあてはまることが少なくないと思われるので興味のある向きは是非。

登場人物たちの「キャラクター」を簡潔に描きつつ
「謎解き」を維持しながら「期待」を持たせる「展開」をいかに描くかということなども。

ただ難点は訳者が「ホラー」に詳しくないこと。
「原題」をある程度知っていないとどの映画かわからないこともありそう。

そのあたりの「詰め」が甘いあたりがややもったいない感じ。
「仕事」はそこまで「徹底」しないといけないはずなのでよろしく。

細かいことをつつけばキリがない。
とりあえず「良書」だということだけは確かだと言っておく。
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「非物理的あるいは物理的な空間」について

2012-06-15 03:02:06 | Weblog
くもりときどき晴れ。湿気多し。

「CODE version2.0」ようやく読了。

とはいえ結局「目を通しただけ」に終わった感じ。
今ひとつ著者の関心のあり方についていけずじまい。

最近微妙に疲れているせいか
内容がきちんと捉えられない体勢になっているかも。

読み始めは調子がよかったものの
それ以降どんどん下降していったのが残念。

とりあえず「アーキテクチャ」次第で「事態」が相当変わることはわかった。
国や州で法律が違う場合に「物理的地理」のない「サイバー空間」をどう処理するのかが難しそう。

「現実」のあれこれの「区分」が
結局は「自由な空間」であったはずの場所まで大いに影響を及ぼすことになるのだと。

いちおう「何が問題なのか」はおおよそわかったつもりなので
あとは「専門家」の「導き」を参考にしつつその都度判断していくことにしたい。

深夜ユーロサッカー「クロアチアvsイタリア」を観る。

前半は「見事な剣さばき」を見せる後者が優勢だったものの
後半になって体力が落ちるとともに前者の「鈍い鉈の打ちつけ」が効いてきた模様。

いかにも「剣劇」を思わせる「対照ぶり」がなかなか。
「中世の戦い」を垣間見たような気分になるあたりが「ヨーロッパ」か。

「ベテラン」のピルロがフリーキックを決め
「暴れん坊」のバロテッリが「大器の片鱗」のみを見せ途中交代したあたりが「イタリアの現状」。

球際の処理が圧倒的に下手であるにもかかわらず
「百姓一揆」を思わせる「クロスボール」と「ヘディング」の繰り返しが「クロアチアの持ち味」。

「貴族vs農民」という「構図」を思い浮かべてしまうのは
あながちこちらのせいとばかりは言い切れないだろう。

なるほどサッカーは「代理戦争」。
ここにおける「国柄」の現れを「文化」として楽しめるのは「幸せ」と言っていい。

ついつい「物理的空間」に意味を見つけてしまいがちなのは
「20世紀」に「青春」を過ごした者の「偏見」なのだと思うことにする。
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「キャラクター遊び」について

2012-06-14 03:08:33 | Weblog
くもり。涼しい。

今日は予定時間よりちょいと寝過す。
とはいえ仕事に支障はなし。

唐突に「もぐもぐユイちゃん」というキャラクターを思い付く。

もぐもぐもぐもぐ。
彼女はいつも何か食べている。

やや上目遣いでちょいと不満げな表情の持ち主。
声は高めでややくぐもった感じ。

小股でちょこちょこ歩き性格は自分本位。
あちこちに顔を出すものの気付かないうちにいなくなっていたりする。

他人に対する興味は少なからずあるようで
ちょいと首を突っ込んで述べるひと言ふた言の感想が案外的確。

疲れると不機嫌そうに文句を垂れる。
和風な顔の上にある眉の加減が微妙になる。

食べ物の好みは年齢よりずいぶん高く
「小梅」や「酢昆布」だったりする。

笑いは常に「うふふ」で決して爆笑はしないタイプ。
仕事の合間に何か食べているのを見つかるといつもそれ。

「座敷わらし」のイメージを基本に思い浮かべるとわかりやすいのか。
「かわいげ」と「毒」の「バランス重視」の方向で。

さらに具体的に言うなら頬の赤い「東北の雪ん子」を重ねてもよく。
「三角な笠」が似合うところも忘れずに。

実在の人物を元にした「遊び」を少々。

できればどなたかにイラストにでもしていただけると
さらに面白くなるのだが果たしていかに。

ちなみに彼女は「他人に意見を聞く」ものの
決して「自分の意見」は曲げないという設定を付け加えておく。
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「低空飛行」について

2012-06-13 03:17:10 | Weblog
雨のちくもり。気温がぐっと下がるものの半袖。

「CODE Version2.0」を引き続き読む。

今日はこちらの調子が悪くて内容が身に沁みない。
ちょっとしたことで変わる「受容条件」よ。

おそらくは「加齢」のせいだと思われるものの
長年にわたる「通常でない生活」の影響かもしれない。

毎日細胞は死に新たに生まれるのだから
多少なりとも「流動的」になるのは仕方のないことだろう。

「昨日の自分」が「今日の自分」と違うのは
「生物学的な事実」だと思っていいはずなので。

少なくとも「想定外」ではなくむしろ「折り込み済み」。
それだけの年月は過ごしている。

さて。

昨日TVで観た映画「インセプション」をからめつつ少々。

つまらないのは「現実あるいはオチ」がきちんと「確保」されていること。
主人公の妻が「非現実」を信じてしまったという描写が逆に「現実の確かさ」を際立たせて。

たとえばマスメディアによって「日常の確認」が行われているのがたいていの人の「事実」だとして
その「日常」が「本物のリアル」なのかどうかについては実は何の「保証」もない。

なぜなら各メディアはそれぞれの「ルール」で動くだけであり
そもそも彼らが取り上げた「ニュース」とその扱いが「妥当」かどうかは不明なままだから。

発信する側の「切り取り方」と「報道する上での条件」次第で
「現実」はいくらでも違う「顔」を見せる。

だからこそありもしない「客観報道」が求められたりするのだが
少なくとも「自分たちのスタンス」を明らかにすれば「検証」はできる。

がしかし。

「原因追究」もままならないまま「原発は安全だ」という首相をもつわが国においては
「デタラメ」が「日常」。

出来ればその「貧しいリアル」を共有したいところ。
その上でどうするかはそれぞれの判断次第。

「個人的な状況」においても同様なことが言える。
そこで自分の「視野の狭さ」を思い出せれば幸い。
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「隠れる場所があること」について

2012-06-12 02:58:27 | Weblog
くもり。今日も風が吹く。

ローレンス・レッシグ「CODE Version2.0」を読み始める。

「自由な空間」として始まったはずの「サイバー空間」が
いかに「現実のあれこれ」によって規制されやすいものかを説いている模様。

著者の出す事例は非常にわかりやすく文章も読みやすい。
要は「リアルな世界の基準でヤバイものに誰もが接触できてしまうこと」が引き起こす問題をどうするのか。

当然のように「誰もが接触できること」は「マズい」という判断の下
「アクセスの規制」が「アーキテクチャ=仕組み」としてさまざまなものに盛り込まれることに。

そのために「個人的」にも「地理的」にも確保されていた「匿名性」が侵され
「商売の都合」によっても利用されたりもするらしい。

なるほど「サイバー空間」にはそうした「問題」があったのかとうなずく。
今後の展開も興味深いところ。

若い知り合いに偶然最近の「カラオケ事情」を聞く。
カラオケの音量を自分の声が聞こえないほど大きくして歌ったりするのだと。

「初めて聴く録音された自分の声」がもたらす違和感は誰もが知るところだけれど
「カラオケという密室」でそこまで神経を使うとはいやはや。

アニメ曲を連続して流し
自分は歌わずに好きな場面のみを見るとDVDを借りるより「安上がり」になるとも。

思いがけない「利用法」に驚くことしきり。
出来ればもう少し「おおらか」であってもらいたいものではある。

「過敏すぎる神経のあり方」について文句をつけることもできるとはいえ
どうしてそんなに過敏になったのかを思うと「不幸な匂い」が漂い始めていささか鼻白む。

どうやら「現実の世界」は「ジャングル」のようで
それならばいっそ「秘境」でもあればと願うのみ。
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「ある種の知性」について

2012-06-11 02:46:23 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

上野千鶴子「男おひとりさま道」を読む。

「かわいげ」があって「女ともだち」の多い人がいいらしい。
横山やすし流に言うなら「どだい無理やがな、正味な話が」。

「男らしさ」をやめなさいというのは「正論」だけれど
「べき論」で世の中がどうにかなったためしはなく。

そもそも「かわいげ」というのはある種の「才能」に似ていて
誰もが持っているものではないはず。

「かわいげ」そのものも相手がそう思うかどうかによるものだし
言いたいことはわかるものの「一般人」にはハードルが高そう。

どうにも「目線が高い」ように思われるのだが如何。
途中からついつい読むスピードを上げてしまった次第。

もっとも「会社一筋」に生きてきた人にとっては「なるほど」な内容なのかも。
ただしそうした人はすでに「手遅れ」になりがちなことも忘れずに。

恋愛であろうと介護であろうと
基本は「相手の望みを受け止められるかどうか」に尽きる。

個人的にはそれを承知の上で普段は敢えて相手を刺激する言葉遣いをしたりしていることを思うと
なんだか著者とスタンスの違いはないような気もしないではない。

もちろん相手がそれに反応しなければ何事も始まらず。
ここでも「ご縁の有無」が重要なのか。

そこであらためて思い出すのは「おばちゃん」。
実は彼女たちのあり方が「お付き合い」のあれこれには役立つ。

「美意識」には相当疑問があるとはいえ
「そこそこな幸せ」と「健全な常識」は手に入れている模様。

それを「ある種の知性」だと評価できるかどうか。
「ヘンなおぢさん」として考えてみるに値することだとは思っている。
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「自分の思いにすぎないこと」について

2012-06-10 03:42:38 | Weblog
くもり。傘を持って出て仕事場に置いてくる。

清水幾太郎「流言蜚語」読了。

関東大震災の経験者としての「描写」が沁みる。
同じ道を歩く避難者の声に誘われ思わず「ウォーッ」と叫ぶあたりが何とも言い難く。

死んだと思われた妹と弟の安否を確かめるため
そこらじゅうにある死体を確認したという「事実」もあり。

上空で紙のように見えたトタン板が降ってきて
逃げ惑うよりない姿も心に刻まれるよう。

その著者は後年「東京の脆弱さ」を訴えるのだけれど
政治家はいっさい耳を貸そうとしないのが印象的。

「震災のリアル」を知っているからこそできる「呼びかけ」を
誰も「本気」で受け取らないという「悲劇」よ。

「同じこと」がまた繰り返されるのだとすると
「人は経験から学ぶことができるのだろうか」と真剣に思わざるをえない。

今回は「天罰」という言葉だったりしたけれど
当時は「天譴(てんけん)」という言葉が飛び交った模様。

あらためて「自然の猛威」に何事かを意味づけてしまうわれわれの「愚かさ」は
ある程度の「賢さ」を持っていると思われる作家たちの反応ぶりからも「避けられないもの」だと確信する。

具体的に必要な「処置」というものがあるとして
人はついつい「自分の思い」という「狭い世界」に囚われ「完結」しやすいものらしい。

そのあたりを重々承知した上で
できればあれこれの言動をしたいものではある。

がしかし。

どうやらそれが「無理筋」だと自覚すると
何やら暗澹とした気持ちになるのはまだまだ「子ども」なのかも。

苦笑いしながら明日を迎えることにする。
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「ある種の複雑さ」について

2012-06-09 03:22:40 | Weblog
くもりのち雨。カバンを頭に乗せ雨をしのぎ帰宅。

清水幾太郎「流言蜚語」を読み始める。

オリジナルは昭和十二年(1937)に書かれた模様。
「盧溝橋事件」の年の著者はまだ「社会主義」に傾倒していたのか。

検閲や軍部の台頭もあったための「暗い情熱」がしのばれる。
「遠回り加減」とその「持続力」はまるで欧米人のよう。

そもそもは「草食」であるはずの人間も
「環境」がなせる業によって「肉食」を感じさせる存在になるということ。

独特の迫力のせいかいささか読むのがツライ。
うねうねと続く文章にしばし付き合うことにしよう。

とはいえその指摘の数々は今のところ「現代」にも十分通用する内容で
疲れを予感しつつ楽しみでないわけでもない。

仕事場で「男子キャラ」の若い女子と話す。

ひとりはやたら「霊」を怖れているようなので
「化けて出る時には3回ノックしろと友人には言ってある」旨を伝える。

「金縛り」についても同様な反応を示す。
「ノンレム睡眠時には脳が身体への指令スイッチを切っているために起こる当然のことだ」と言っておく。

ただし彼女は納得したわけでなく
やたらに「科学ではわからないことがあるんでしょう」と言うのが可笑しい。

彼女の「科学に関する知識」はおそらく圧倒的に少ないはずだが
「キッパリと言い放つ」あたりが「よくある反応」。

「霊がいないことは証明できないのだ」と
無駄と知りつつポパーの「反証可能性」などをさりげなく付け加えておいた次第。

もうひとりは「自分の嫌いなもの」を数え上げてはため息をつくので
「世の中には自分の嫌いな人が少なくないこと」を指摘して。

「女子の鬱陶しさ」についても語ったので
「君は『男子』だから」と答える。

「むしろ『オヤジ』だったりするんだけれど」と言うと嫌がるのが面白い。
「男子」だという話には納得しているのに。

「いわゆる『女子力』はないがそのままでいいのだ」とか
「きっとそう言われ続けるだろうが気にするな」と「要らぬお世話」など。

いずれも「キュート」で微笑ましい限り。
彼女たちが「たくましく楽しく生きること」を願ってやまないのはこちらの「勝手」。

とはいえ案外真剣だったりするあたりが我ながら「ややこしい」。
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「バランス」について

2012-06-08 03:21:16 | Weblog
くもり。蒸し暑い。

仲正昌樹「<学問>の取扱説明書」を途中まで再読。

いささか「怒りっぽい」ところはあるにせよやっぱり「まとも」で刺激的。
明日もじっくり味わいたい。

以前にも書いた記憶があるけれど
「刺激に満ちた作品」を引き続き書いていただきたいところ。

できれば「どうでもいい輩」に反応せず
著作に専念してくれればというのが愛読者の勝手な願いではある。

さらに個人的には宮台真司あるいは東浩紀あたりと対談してもらうと
気軽に読める上に楽しそうに思えるのだが如何。

いつものことではあるものの
それがすでに実現済みだとしたら不勉強ですまん。

さて。

「東電OL殺人事件」のネパール人被告がようやく「自由の身」になった。
それにしても15年の間「外国」で刑務所暮らしをせざるを得なかった彼の無念さよ。

こうした「冤罪」を何としても避けるためにこそ
「推定無罪の原則」があることをあらためて確認しておきたい。

またずさんと言うよりない検察あるいは警察の捜査も忘れずに。
「DNA鑑定」の有無だけが問題なわけでもなく。

「違法滞在」をしていた被告の身柄はそもそも入国管理局があずかるべきものだったのに
検察が強引に刑務所に入れた「事実」をTVでノンフィクション作家佐野眞一が指摘していた。

わが国のネパールへのODAが「最大」であるがゆえに
敢えてネパール大使館も日本政府に対して抗議をしなかったことも。

そもそも「推定無罪」がなぜ生まれたのかという「歴史」を勉強し直すことを
検察の仕事をする人々の「義務」だとしておきたい。

「勝手に裁かれる痛み」を知った上で「裁く」こと。
その「前提」がなければいたずらな「権力の行使」が行われるのみ。

「日本国民」としては「煽られた恐怖」に噴き上がることのないようにしたいもの。
「正義」を気取るのはある種の「カタルシス」を生むかもしれないが圧倒的に「貧しい」。

もはや「汚れていない手」などないことは実は「戦後以来の常識」のはずなのに。
誰しも「叩けばホコリの出る身体」だというあたりを「出発点」にしたいものではある。
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「生き物がらみ」について

2012-06-07 02:35:45 | Weblog
快晴。真夏日。

昨夜も寝てしまう。
眠りたいときに眠れるのはむしろ幸せか。

三浦展「下流社会 第3章 オヤジ系女子の時代」を読む。

かつて「オヤジギャル」と呼ばれた女子が一部にいたりしたけれど
今回はその数が増えているというお話。

「男子並み」に働くようになると趣味や生活も変わるらしい。
「ファッション」にあまり興味を持たずお金もかけないという。

かつてほど「結婚」を「強要」されず
いわゆる「社会的進出」をして「経済的余裕」もできれば「当然」のことか。

とはいえ自分の身の回りにはそうした女子はいない印象。
ついつい「東京の一部のみでの現象」ではないかと疑ってしまうところもありいささか「微妙」。

石川幹人「人間とはどういう生物か?」を読む。

「人間とは『意味する存在』である」というのが著者の見立て。
ちなみにその経歴は「ロボットにまつわる研究開発」。

「意味」は「全体」にこそあり
細かく仕分けした「分析」はむしろ「意味」を失わせるのだと。

辞書に載っている「説明」も実は「言い換え」にすぎず
「意味」は「言葉」を通して「互いがイメージする内容」が「一致」したと思えることだとも。

「シュレディンガーの猫」に代表される「量子過程」を生物学に当てはめて
「可能性の重なり」が一気に「進化」を生むとするあたりが面白い。

ソシュール、ポランニー、チョムスキーらの名前が出てくるけれど
大本は栗本慎一郎「意味と生命~暗黙知理論から生命の量子論へ」にある模様。

ただし残念ながら未読なので詳細は不明。
覚えていたら今度図書館から借りてくることにしよう。

深夜「結婚って幸せですか」という台湾のドラマをTVで観る。

「身勝手」な夫に振り回されながらも懸命に愛人の手から彼を取り戻そうとする主人公。
そもそも「そうまでして夫婦であることにこだわるのはなぜか」という疑問は敢えて封じておくのがよさそう。

今回は彼女を憎からず思っている友人であり上司である男から
「魅力的なレディ」になるべく徹底した「訓練」を受けるお話。

すべては夫を取り戻すため。
そのことだけを考えてあとはひたすら行動あるのみ。

「ひたむきになればなるほど滑稽さが増す」あたり
かつてのわが国の「スチュワーデス物語」の系譜と思えばいいかも。

一方愛人にもそれほどの「魅力」はなく「めんどくさいタイプ」にしか見えない。
夫も単なる「優柔不断」としか思えず。

「問答無用に譲れないもの=夫との幸せな生活を取り戻すこと」があると
それを支点にした「力学」が発生してしまうという仕組み。

「グダグダ」がいつ「スッキリ」するのかを見届けたいという「欲望」によって
おそらく視聴者は「ハマったりする」のだと推察しておく。
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