退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「環境」について

2012-06-05 03:01:32 | Weblog
晴れ。上着は手に持つ。

このところついつい寝てしまい昨夜も同様。

特に体力を使っているわけではないけれど
身体が「横になりたがっている」模様。

濱野智史「アーキテクチャの生態系」を読む。

最近立て続けにこの周辺のものを読んでいるせいか
「デジャブ感」が強くそれほど刺激はなく。

たとえば「ケータイ小説」が読者に「ある種のリアル」を感じさせていることを説くのは
「ケータイ」という「アーキテクチャ」が「なせる業」だということなのだろう。

個人的には「郊外の若年層」という「読者」が現れたのだという解釈で十分。
彼ら彼女らを取り巻く「環境」をむしろ「アーキテクチャ」と呼びたいのだが。

内田春菊「あなたも奔放な女と呼ばれよう」を読む。

「家庭」という「環境」から逃げ出したものの
「逃げ切れない部分」を抱えざるをえないことで起きる「めんどくささ」についてのあれこれ。

「born this way(こんな風に生まれちゃったんだもの)」というより
「lived this way(こんな風に暮らしてきたの)」という印象。

フランスには「union libre(自由な結び付き)」というのもあり
カップルの関係はそれでいいと思うのだがわが国はまだまだそれを認めないのか。

「事実婚」という言葉の中に「無条件にいいものとしての結婚」があるという指摘がなかなか。
なるほど言われてみればおっしゃる通り。

「自分の好きに生きること」は他人を「刺激」するのか。
「それもあるか」と受け止める「器量」を持ちたいものではある。

「環境」はある意味人それぞれなので
その「文脈」をできるだけ知って「お付き合い」できれば幸せ。
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「内と外」について

2012-06-03 02:45:06 | Weblog
晴れ。上着を手に持って出かける。

山岸俊男「安心社会から信頼社会へ」を読む。

13年前に出た本書は「安心」と「信頼」の違いを説いている。
前者は「仲間内のもの」で後者は「他人に対するもの」。

「仲間内への信頼」はむしろ「それ以外の他人」への疑心暗鬼を生み出したりする模様。
「人を見たら泥棒と思え」という態度になりがちだと。

その一方「渡る世間に鬼はなし」というのは一見「お人よし」のように思えるけれど
「他人に対する判断」はむしろ的確らしい。

「日本人は集団主義」というのも実は「俗説」で
「監視と懲罰」によって辛うじて「秩序」が維持されているのが「実情」だとも。

本が切れたのでひまつぶしに「ビジネス書」など。

(株)OJTソリューションズ「トヨタの『問題解決』で会社が変わる!」を読む。

まず重要なのは「常に危機感を抱くこと」のよう。

「現状」に安住せず「問題」を発見して「意識を共有する仲間」を集め
徹底的に「解決」を図るというのが「ミソ」だという。

集団の中の「キーパーソン」を「洗脳」するのがポイントだというあたり
やはり「特定のドームの中の宗教」だという感じが強い。

どうにも「健全」すぎて「生きにくそう」というのはこちらの「バイアス」のせいか。
「真面目な人の感動」はいささかめんどくさい。

「お互いダメなんだからぼちぼち付き合おう」くらいがお気楽。
その「ダメさ」を束の間共有できるくらいが「幸せ」。

現在の仕事場の「問題点」とやらを適当に書き出してみたりもしたのだが
その後のあれこれを思うとめんどくさくなったので捨てる。

元々「社員」には向いていないし自分の「居心地」が悪くなければそれでよし。
とりあえず言いたいことは言えているので当分このまま行く予定。

「本気」になると相手を「壊す」ことになりかねないのであくまでおだやかに。
「武道の達人」のような台詞ののちに「うふふ」。
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「そういう気分」について

2012-06-01 02:52:38 | Weblog
晴れ。深夜に雷と雨少々。

東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+」を読む。

P・K・ディックの作品が懐かしくその解説が面白い。
「背景あるいは骨格を読む」というのはこういうことか。

「マクドナルドのイスは長居できないように固く作られている」という例に代表される
「環境管理型権力」というものについての興味のあり方にも納得。

いわゆる「客観的」というものを追い続けると
どうやら視線がそのあたりに向かうものらしい。

内容的には「晶文社」が似合いそうなもの。
かつて「就職しないで生きるには」といった作品を読んだことを思い出す。

それ以降個人的にはあれこれあって
「適当に暮らせる環境」はどうにか整ったと言っていいのかもしれない。

ただしそれは著者のように「周到な戦略」に基づいたものではなく
ほとんど「偶然のなせる業」で。

もっともそれはあくまでこちらの勝手な感想にすぎず
著者もこちらと同様のことを思っているだけかもしれないけれど。

とりあえずそんなことはどうでもよくて
今後も「刺激」を与えてくれればありがたいのみ。

さて。

関西方面の自治体の首長たちが大飯原発の再稼働を認めた模様。
「束の間の現実」に引きずられるだけなら「理想」などいらない。

「生活が出来なくなる」という人々がいる「事実」はあるものの
それをグズグズと認めてきた結果が今回の「未曾有の事態」だったのではないのか。

すでに「従来の生活」をすべて失った人々もいる中で
たまたま「救われた生活」のみを優先するだけでいいのだろうか。

常に「現前性=今こうなんだから」が重要視されるなら「未来」など語るなと思わざるをえず。

「知恵」がある者はそれを使え。
「貨幣」がある者はそれを使え。

やがて確実に訪れる「悲惨さ」を前に
首は垂れるが稲穂は実らない。
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