粉雪の万座へ

万座の粉雪と雪景色、流れる雲と青空に魅せられ綴っています。

寒気流入、旭岳は初冠雪

2007年09月29日 | 

昨日の東京は最高気温が32度の暑さでしたが、今日は朝から冷たい雨が降り、
肌寒い一日でした。我が家の玄関先の寒暖計も、午後2時現在でわずか16.5度
でした。この寒暖計、このところずっと日差しが直接当たると45度くらいまで上が
り、壊れたのかなと思っていましたが、今日の温度を見る限り大丈夫だったようです。


今日気温が下がった理由は、日本列島の南に秋雨前線が下がり、大陸から高気
圧がやって来て冷たい空気を日本列島に流し込んだことによるそうです。

(天気図は日本気象協会が提供しているもの)


今日のような天気になると着実に冬に向かっていることを感じ、雪のことが気になっ
てきます。


北海道・大雪山系の旭岳では、今週の火曜日・25日の朝、初冠雪が観測されたと
のことです。旭川地方気象台は「上空に寒気が入り、頂上付近が雪になった」と発表
しています。
旭岳の初冠雪は例年は9月24日、昨年は9月23日ということで、今年もほぼ例年
どおりといえるでしょう。 このことを聞いて、万座も今年の冬は例年通りの積雪にな
るかなと期待するのは、私だけでしょうか。


テニスの日&スキーの日

2007年09月23日 | 2007テニス&スキー

今日9月23日は『テニスの日』です。
2007年テニスの日ピンバッジ
テニスの発展と普及を目的に、『テニスの日』を制定しています。今年はちょうど十周年
にあたります。なぜ、『秋分の日』である9月23日を『テニスの日』としたかというと、
・ 当日が、多くの方が参加しやすい祝祭日であること。
・ 北海道から九州・沖縄まで全国各地で同時に楽しくプレーする為に気候的に最適で
 あること。
とのことです。


『テニスの日』を記念して私が通っているテニススクールでは、昨日と今日イベントがあ
りました。



昨日は快晴で真夏並みの暑さの下、ダブルスで勝ち残りのチャンピョンゲームがあり
ました。私の組はずっと負け続けていましたが、最終のゲームで運良く勝ち、最終の
チャンピョンとなりました。
おかげで記念品として、「2007 公式ピンバッジ」をいただきました。


 

今日は曇り空で久しぶりに涼しいコートで、『テニスの日』恒例の『全国一斉ボレーボレ
ー大会』が開催されました。今年は10周年なので、『10万人』参加をめざすとともに、
テニスの日推進協議会では、『10分間ノーバウンドで続いたペア』を認定するというこ
とで、10分以上を目標に挑戦しました。私のペアは数分間しかできませんでしたが、
スクールの中では最長時間でしたので、なんと今日も「2007 公式ピンバッジ」をいた
だき、2個になりました。
 


『スキーの日』は1月12日です。
1911年(明治44年)1月12日、新潟県高田(現上越市)において、オーストリアの武
官「レルヒ少佐」が日本の高田陸軍歩兵連隊の青年将校に初めてスキー指導を行い
ました。日本に初めて本格的にスキーが伝えられた日とされているこの日を『スキーの
日』としています。


『スキーの日』も『テニスの日』と同様に、全国のスキー場やスキー学校でさまざまなイ
ベントが開催されています。万座スキー学校では昨シーズン、朝夕2回無料ワンポイン
トレッスンが行われています。


テニス&スキー(3)

2007年09月16日 | 2007テニス&スキー

東京も朝夕は随分涼しくなってきましたが、日中はまだまだ暑く、今夏の疲れが溜まって
きていることもあいまってか、昨日も今日もテニスでヘトヘトになりました。

3ヶ月ぶりにストリングス(ガット)を張替え、新しいストリングスの感触を楽しみにボールを
打っちましたが、調子がイマイチで、スイートスポットに当たらないことにはボールは上手く
飛ばないし、張り替えたばかりのストリングスの感触を存分に楽しむことはできませんでした。


体軸を中心としたショルダーターンもスムーズにできず、折角のチャンスボールを思うように
打てなく、ミスばかりしていました。
テニスの動作もスキーによく似ていて、ボールを打つときは、足⇒腰⇒上体⇒肩⇒腕の順に
運動をしていきます。ところが、なかなかこの順番に上手くできないですね。




スキーも同様に、板の真ん中に乗らないことにはご覧のような体がバラバラの滑りになって
しまいます。この写真は、白根山の火口の中(から釜)を滑ったときのものです。


来週の日曜日、9月23日は『テニスの日』です。各種のイベントが各地で開催されるようです。
ちなみに私が通っているテニススクールでは、ボレー大会が行われます。このボレー大会は、
全国のテニススクールで10万人くらいが参加し、ボレーを10分以上続けたペアが認定され
ます。興味のある方はhttp://www.tennis.or.jp/をご覧ください。


富士山の初雪

2007年09月10日 | 

9月10日は、富士山に初雪が降る平均日です。
富士山には夏でも雪が降ります。


それでは富士山の初雪とは、いつ降る雪のことか知っていますか?
その年の最高気温を記録した日より後に降った雪を、『初雪』としています。
では、今年の初雪はいつか?
残念ながら、分かりません。と言うのは、富士山頂にあった測候所が2004年9月30日で
常駐観測を終え、以後、初雪観測ができなくなったからです。


先週の9月3日、帰省先の松山から東京に戻る際、飛行機の窓から山全体が真っ黒な富士
山を見ることができましたが、富士山にはやはり雪のほうが似合うと思いました。


 
写真は、富士山の西麓にある田貫湖へキャンプに行ったときのものです。今は女房より身長が
高い一番下の子どもが、まだ十分に小さい時分でした。
田貫湖からは富士山のすそ野の雄大さを最高に味わうことができ、好きな眺めの一つです。


万座の初雪はいつ頃か?
富士山に遅れること1ヶ月後の10月10日頃、万座に初雪が降ります。ただし、近年は初雪
が遅くなってきているそうです。ちなみに昨年の初雪は、11月7日だったようです。


さて、今年の初雪はいつ降るでしょうか?
いつ降るにしても、待ち遠しいものです。


故郷松山へ、坂の上の雲を辿って(PartⅡ)

2007年09月08日 | 坂の上の雲

子どもの頃の記憶も交えながら、あれこれと書いてみます。よって多少の誤りがあるかも知れ
ませんので、ご了承ください。

 

 
松山城は小高い山の上にあります。山の名前は「勝山」ですが、松山人はこの山を「城山」、
あるいは親しみを込めて「お城山」と呼んでいます。
松山城は別名「勝山城」、時には「金亀(きんき)城」といいます。金亀城のいわれは、かつて
二の丸付近の池に金の亀が住んでいたという伝説に由来しています。城は、豊臣秀吉の家臣、
賤ケ岳の七本槍の一人「加藤嘉明」が築城、その後落雷で焼失しますが、江戸時代に復元され、
江戸時代から現存する数少ない木造の城として貴重な存在です。

 

 
加藤嘉明の後、しばらくしてから徳川の松平家(後に旧姓の久松に改姓)が藩主となり、幕末、
明治に至ります。
明治になり、城山の南麓に旧藩主久松定謨は別邸としてフランス風洋館「萬翠荘」を建てました。
「萬翠荘」、かつてはフランス料理のレストランでしたが、今は美術館になっています。
小学生のとき城山で遊んでいて、菊花展を開催中の「萬翠荘」の敷地内に迷い込んだことがあ
ります。

 


 
秋山兄弟の生家には、石碑とその碑文の要約が建てられています。
父・久敬が家を建て、兄弟はここで生まれ育ったこと、兄の好古は陸軍大将を退役後ここに住み、
北豫中学(現在の松山北高校)の校長として教育に尽くしたことが記されています。
私にとっての松山北高校は、部活(バレーボール)の良きライバルチームでした。

 

 
生家は四部屋しかない、質素な作りです。

 

 
兄の好古は二十代後半、旧藩主久松定謨の依頼により陸軍を休職して、久松定謨の輔導役とし
てフランスに留学したそうです。明治になっても、旧藩主の意に従わなくてはならなかったようです。
私が子どもの頃はずっと、愛媛県知事は久松定武でした。当時大人は時々、知事のことを「お殿
さま」と言っていました。調べてみると、久松定謨の子・定武が1951年から1971年まで県知事
をしていました。
弟の真之は日露戦争の日本海海戦で、村上水軍の戦法を参考に作戦を立て、また、開戦前の
電文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を起草しています。
私の両親は瀬戸内海の島の生まれのため、たぶん祖先は村上水軍と思われます。私は小学生
時代、運動会のマイクのテストで友人と一緒に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と言ていたことを記
憶しています。これが真之の起草文であることを知ったのは、小説・坂の上の雲を読んでからです。
秋山兄弟は軍人として戦争に参加はしたものの、平和を希求していたことが小説の中でよく分か
ります。兄の好古は、人生の最初と最期を教育に携わっています。弟の真之は戦争の悲惨さに
遭遇して、「軍人を辞めたい」と言っていたそうです。

 

好古は幼少の頃、藩校・明教館で学んでいます。明教館は明治になって松山中学に引き継がれ、
ここで真之と友人・正岡子規は学んでいます。松山中学は現在、私の母校の松山東高校になって
います。その敷地内に、明教館の建物がいまも現存しています。私が高校生のときは、部活の大
きな大会前には明教館の畳の上に座って、高名な方の話を聞いて試合に臨んでいました。悲しい
かな、その話の中身は全く記憶に残っていません。
松山東高校の敷地内には、明治の作家・夏目漱石が歩いたという石畳もあります。そう、漱石の
小説「坊ちゃん」の学校は当時の松山中学、今の松山東高校なのです。

故郷の先人たちが苦労を苦労とも思わず明治を明るく生き、日本のある部分の第一人者として
活躍した足跡を、ほんの少しだけ辿ることができた帰省でした。


故郷松山へ、『坂の上の雲』を辿って

2007年09月04日 | 坂の上の雲

9月1日、故郷松山へ1年ぶりに帰省しました。
 
「春や昔 十五万石の城下かな」と、松山出身の俳人『正岡 子規』は郷土を俳句で表現。


今年の帰省の楽しみは、作家『司馬 遼太郎』さんの大作であり、私の愛読書である『坂の上の雲』
にちなんだ箇所を辿ることです。


『坂の上の雲』の主人公は、正岡子規と秋山兄弟の三人。
まずは、復元して間もない『秋山兄弟の生家』を訪れました。
 
真新しくはありますが、想像以上にまことに質素で小さな生家でした。
ここで放映されているビデオで、秋山好古の臨終最期に発した言葉が「馬引けー」だったと分かり
ます。小説では「奉天へ」となっています。
「奉天へ」はロマンを感じ、「馬引けー」は明治人の気概を感じます。



 
馬上の人が日本の騎兵隊を創設した兄の『秋山 好古』。
胸像は日本海海戦の作戦を立て、「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」を起草した弟の『秋山 真之』。


次に、今春完成したばかりの『坂の上の雲ミュージアム』を訪問。
 
建物は、建築家『安藤 忠雄』さんが設計。『坂の上の雲』の雰囲気にふさわしい作りでした。
窓からは、緑に囲まれた、旧松山藩主の明治時代の別邸を見ることができます。
心に残った展示物は、『坂の上の雲』を産経新聞に掲載していたときのコピー全てと、秋山
真之が友人正岡子規に書き送った英文の手紙。司馬さんの渾身の魂と、明治人の気骨を
感じました。


そして、久しぶりに私が卒業した中学跡に立ち寄りました。
松山城の二の丸跡にあった母校は、今は公園に生まれ変わっています。
 
 
中学は、坂を登った石垣の上にありました。
まさに、『坂の上の雲』を見つめながら、毎日登校したものです。


このブログは『万座』をメインテーマに、粉雪・雪景色・温泉・スキー・スキー学校にまつわることを
徒然なるままに記しています。
サブテーマは『青空と雲』としています。愛読書『坂の上の雲』ともう一つの理由から、『青空と雲』を
サブテーマとしています。