2010年4月、ハウスユキが閉ざされました。時をほぼ同じくして、私の実家も空き家に。
それぞれ建物自体は残っていて、家人も健在ながらも、住み慣れた二つの家に誰も住ま
なくなった今、心やすらぐ帰る所がなくなった感があります。
初めて万座を訪れた1978年2月、粉雪の万座の名のとおり、万座・鹿沢口の駅舎から
万座温泉のバスターミナルまで、そしてハウスユキも、深々と粉雪に覆われていました。
朝、四国・松山を出発し、万座に着いたときには日が暮れ、ハウスユキでは既に夕食が
始まっていたように記憶しています。
そのシーズンに大ホールが完成し、以来この暖炉に火が燃え続けていました。
大ホールではミーティング、映画鑑賞、年越パーティ、ピアノコンサート、カクテルパーティ
等々、いろいろな想い出があります。
最初に泊まった部屋は洋室でした。
そして、奇しくも最後に泊まった部屋も同じ洋室です。
近年はもっぱら和室に泊まることが多く、自宅でくつろぐのと同じ感がありました。
かつてはスキーヤーズベッドに寝ることが多く、そのときは喫茶コーナー(スチューベの
改装前のこと)でインストラクタや同宿者と語り合ったり、歌ったりして憩いのひとときを
過ごしていました。
ハウスユキには一人で来たり、学生時代の友人、職場の仲間と来ていました。
結婚してすぐ女房と訪れ、先シーズンからは末娘と宿泊も。
ハウスユキに泊まる際の良さの一つは、相部屋で顔なじみの方や初対面の方と外界の
ことは忘れて、楽しくスキー談義ができることでした。
ハウスユキをバックに、スキーヤーの皆さんと記念撮影をしたこともありました。
玄関を出てすぐ左の柱に、大きな寒暖計があります。
ハウスユキに到着すると、いつもこの寒暖計で気温を確認していました。宿泊した翌朝
は朝食前に気温をチェックして、その日に何を着込むか判断していました。
寒暖計は、ハウスユキを閉じた今も健在です。
万座ハウスユキの玄関のドアを開けて中に入ると、いつも笑顔で迎えてくれた事務長、
スキーに熱い情熱を持った黒岩校長をはじめマネージャ、主任、インストラクタの皆様
の想い出と共に、ハウスユキのことは夢のまた夢になりました。
田舎がない息子にとって、ジュニアコースは田舎?のような気分もあったと思います。
そのような理由によりまして、春に、風の便りで突然「山を降りた」ことを聞いたときは、衝撃でした。
息子はハウスユキは卒業?しましたが、スキーの課題は山積で、万座のゲレンデからは卒業出来そうもありません。
今シーズンも時間を作っては、万座に出没していると思います。
コメントを投稿していただいた後、すぐに返事を書いたつもりがコメント欄に保存されていないことに、今やっと気がつき再度記入する次第です。
スキー学校の運営形態が変わり、ハウスユキも閉ざされました。しかし、万座に降る粉雪はこれ先も不変であり、来シーズンのスキー学校のキャンプメニューは、豊富になっています。村里敏彰さんも、万座の粉雪に惚れ込んでいるようなので、新しい万座に期待をしています。
また、とおりすがり様に万座でお会いできることを楽しみにしています。
数年前からスキーシーズン中は軽井沢に滞在しながら、時折万座へ通っています。ハウスユキを利用することはかないませんが、建物自体はいまだ健在です。
裏山の極上の粉雪や坊主山の爽快な雪原は変わりなく、万座の自然を楽しませてもらっています。