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粉雪の万座へ

万座の粉雪と雪景色、流れる雲と青空に魅せられ綴っています。

坂の上の雲と爽やかな人々

2009年01月17日 | 坂の上の雲

このところ東京も随分と冷え込んでいるので、昨夜シェラカップに水を入れて外に出し
て氷が張るか試してみたら、今朝、厚さ5ミリぐらいの氷が張っていました。


8時30分から今年初めてのテニス。
気温が低くても陽が出て風もないために30分もすると身体が十分に温まり、そのうち
に汗ばんできました。


今年の年賀状にこのブログのURLを記入したところ、四国・松山の知人から年明け早
々突然メールが来て、「ブログの中に、『坂の上の雲』関連のことが出ておりましたので
・・・。昨年7月、『秋より高き・・・ 晩年の秋山好古と周辺のひとびと』(アトラス出版)とい
うささやかな書物を出版させていただきました。」とのこと。
早速インターネットで調べると新宿の紀伊国屋書店で販売されていることが分かり、先
週会社からの帰りに立ち寄り購入。

読み始めると、心爽やかな気分に。
秋山好古が軍人でながら、リベラリストであり平和をいかに希求した人であることが実に
爽やかに描かれています。また、秋山好古と心を同じくする友人達についても書かれて
おり、みんな私心のない明治に生きた爽やかな人々です。


著者(知人)があとがきの最後の行に引用する、正岡子規のさわやかさを象徴する俳句
を紹介します。
『松山や秋より高き天守閣』


この本を読むと、爽やかな心になること間違いなしです。


『坂の上の雲』を辿って、横須賀へ

2007年11月10日 | 坂の上の雲

四国・高知の知人と横須賀で午後会う約束があったので、その前に、日本海海戦で旗艦
として活躍した『三笠』を見に行きました。小説『坂の上の雲』を読んで以来、是非見てみた
いと思っていたひとつです。


 
あいにく曇り空でしたが、そのために重厚さというか少し重苦しい雰囲気があり、戦争の
悲惨さを忘れてはいけないという先人の配慮のような感がありました。


『三笠』で一番確認したい、見たいと思っていた所が東郷平八郎や秋山真之が海戦中
ずっと立っていたという艦橋です。
 
その艦橋は操舵室(写真中央の四角い構造物)の上にあり、想像していた所より艦の前方
にあって、一番見晴らしはいいけれど弾を防ぐものが全くなく、身を敵陣にさらすもっとも危
険な場所でした。
東郷平八郎が立っていたところは、一番前の丸い板です。左後方の丸い板のところに秋山
真之が立っていたとのことです。こんなところに平然と立っていた二人の胆力に驚くとともに、
リーダがこんなところに立っていれば、俄然部下たる兵士も獅子奮迅の働きをおのずとする
だろうと思いました。


 
写真は、秋山真之が立っていたところからの眺めです。


 


高知の知人は坂本龍馬倶楽部http://www.ryoma-club.com/index.htmという団体で活躍し
ており、坂本龍馬の妻だった『おりょう』を題材にした芝居を観るために横須賀へやって来
たのでした。私も一緒に観ないかと誘われていたので、同行しました。
 
芝居は一人芝居的な内容で、味わい深いものがありました。観劇の後は、『おりょう』の墓
参りに信楽寺(しんぎょうじ)へ行ってきました。


『坂の上の雲』と『坂本龍馬』の共通点は、司馬遼太郎と海軍です。
司馬遼太郎は、『坂の上の雲』と『竜馬がゆく』を書きました。
『坂の上の雲』は日露戦争を題材にしており、日本海海戦等を描いています。『坂本龍馬』
は海軍中興の人とされています。


故郷松山へ、坂の上の雲を辿って(PartⅡ)

2007年09月08日 | 坂の上の雲

子どもの頃の記憶も交えながら、あれこれと書いてみます。よって多少の誤りがあるかも知れ
ませんので、ご了承ください。

 

 
松山城は小高い山の上にあります。山の名前は「勝山」ですが、松山人はこの山を「城山」、
あるいは親しみを込めて「お城山」と呼んでいます。
松山城は別名「勝山城」、時には「金亀(きんき)城」といいます。金亀城のいわれは、かつて
二の丸付近の池に金の亀が住んでいたという伝説に由来しています。城は、豊臣秀吉の家臣、
賤ケ岳の七本槍の一人「加藤嘉明」が築城、その後落雷で焼失しますが、江戸時代に復元され、
江戸時代から現存する数少ない木造の城として貴重な存在です。

 

 
加藤嘉明の後、しばらくしてから徳川の松平家(後に旧姓の久松に改姓)が藩主となり、幕末、
明治に至ります。
明治になり、城山の南麓に旧藩主久松定謨は別邸としてフランス風洋館「萬翠荘」を建てました。
「萬翠荘」、かつてはフランス料理のレストランでしたが、今は美術館になっています。
小学生のとき城山で遊んでいて、菊花展を開催中の「萬翠荘」の敷地内に迷い込んだことがあ
ります。

 


 
秋山兄弟の生家には、石碑とその碑文の要約が建てられています。
父・久敬が家を建て、兄弟はここで生まれ育ったこと、兄の好古は陸軍大将を退役後ここに住み、
北豫中学(現在の松山北高校)の校長として教育に尽くしたことが記されています。
私にとっての松山北高校は、部活(バレーボール)の良きライバルチームでした。

 

 
生家は四部屋しかない、質素な作りです。

 

 
兄の好古は二十代後半、旧藩主久松定謨の依頼により陸軍を休職して、久松定謨の輔導役とし
てフランスに留学したそうです。明治になっても、旧藩主の意に従わなくてはならなかったようです。
私が子どもの頃はずっと、愛媛県知事は久松定武でした。当時大人は時々、知事のことを「お殿
さま」と言っていました。調べてみると、久松定謨の子・定武が1951年から1971年まで県知事
をしていました。
弟の真之は日露戦争の日本海海戦で、村上水軍の戦法を参考に作戦を立て、また、開戦前の
電文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を起草しています。
私の両親は瀬戸内海の島の生まれのため、たぶん祖先は村上水軍と思われます。私は小学生
時代、運動会のマイクのテストで友人と一緒に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と言ていたことを記
憶しています。これが真之の起草文であることを知ったのは、小説・坂の上の雲を読んでからです。
秋山兄弟は軍人として戦争に参加はしたものの、平和を希求していたことが小説の中でよく分か
ります。兄の好古は、人生の最初と最期を教育に携わっています。弟の真之は戦争の悲惨さに
遭遇して、「軍人を辞めたい」と言っていたそうです。

 

好古は幼少の頃、藩校・明教館で学んでいます。明教館は明治になって松山中学に引き継がれ、
ここで真之と友人・正岡子規は学んでいます。松山中学は現在、私の母校の松山東高校になって
います。その敷地内に、明教館の建物がいまも現存しています。私が高校生のときは、部活の大
きな大会前には明教館の畳の上に座って、高名な方の話を聞いて試合に臨んでいました。悲しい
かな、その話の中身は全く記憶に残っていません。
松山東高校の敷地内には、明治の作家・夏目漱石が歩いたという石畳もあります。そう、漱石の
小説「坊ちゃん」の学校は当時の松山中学、今の松山東高校なのです。

故郷の先人たちが苦労を苦労とも思わず明治を明るく生き、日本のある部分の第一人者として
活躍した足跡を、ほんの少しだけ辿ることができた帰省でした。


故郷松山へ、『坂の上の雲』を辿って

2007年09月04日 | 坂の上の雲

9月1日、故郷松山へ1年ぶりに帰省しました。
 
「春や昔 十五万石の城下かな」と、松山出身の俳人『正岡 子規』は郷土を俳句で表現。


今年の帰省の楽しみは、作家『司馬 遼太郎』さんの大作であり、私の愛読書である『坂の上の雲』
にちなんだ箇所を辿ることです。


『坂の上の雲』の主人公は、正岡子規と秋山兄弟の三人。
まずは、復元して間もない『秋山兄弟の生家』を訪れました。
 
真新しくはありますが、想像以上にまことに質素で小さな生家でした。
ここで放映されているビデオで、秋山好古の臨終最期に発した言葉が「馬引けー」だったと分かり
ます。小説では「奉天へ」となっています。
「奉天へ」はロマンを感じ、「馬引けー」は明治人の気概を感じます。



 
馬上の人が日本の騎兵隊を創設した兄の『秋山 好古』。
胸像は日本海海戦の作戦を立て、「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」を起草した弟の『秋山 真之』。


次に、今春完成したばかりの『坂の上の雲ミュージアム』を訪問。
 
建物は、建築家『安藤 忠雄』さんが設計。『坂の上の雲』の雰囲気にふさわしい作りでした。
窓からは、緑に囲まれた、旧松山藩主の明治時代の別邸を見ることができます。
心に残った展示物は、『坂の上の雲』を産経新聞に掲載していたときのコピー全てと、秋山
真之が友人正岡子規に書き送った英文の手紙。司馬さんの渾身の魂と、明治人の気骨を
感じました。


そして、久しぶりに私が卒業した中学跡に立ち寄りました。
松山城の二の丸跡にあった母校は、今は公園に生まれ変わっています。
 
 
中学は、坂を登った石垣の上にありました。
まさに、『坂の上の雲』を見つめながら、毎日登校したものです。


このブログは『万座』をメインテーマに、粉雪・雪景色・温泉・スキー・スキー学校にまつわることを
徒然なるままに記しています。
サブテーマは『青空と雲』としています。愛読書『坂の上の雲』ともう一つの理由から、『青空と雲』を
サブテーマとしています。