4月11日の朝、大三島から再びしまなみ海道を走って尾道方面へ。
岡山県の高梁市を目指して車を走らせました。
高梁に着くなり、天空の山城で有名な備中松山城へ向かいました。
城山の麓にある駐車場にいた係員が旗で「登れ」と合図するので、さらに車を走らせると離合できない幅が狭い道が続き不安な面持ちに。
最上部の駐車場に到着すると、ここにも旗を持った係員がいました。
係員と話をすると、上と下の係員が連絡を取り合って、狭い山道の途中で車が離合しなくても済むように車を誘導してるとのことでした。
さらに、戦前に行われた天守の修理で、高梁の女学生たちが体育授業の一環として、ひとり瓦3枚を背負って運んだことを教えてくれました。
修理費用が不足したため、女学生の手を借りたとのことでした。
駐車場から徒歩で山道を15分ほど登ると、天守の石垣が見えてきました。
山頂にたどり着くと、険しい山の上にこれほど立派な天守閣があるとは驚きでした。
国内に現存する唯一の山城です。
この広場の左手にある櫓に入ると、日本各地にある天守閣の写真がずらりと飾られていました。
それらの写真を一人の男性外国人観光客がまじまじと見ていました。
その人の背後から日本語で話しかけると無反応だったため、英語で声をかけると応えてくれました。
アメリカから来たとのことで、日本の城巡りをしている『日本の城オタク』でした。
戦前の修理は、昭和14年から15年にかけてに行われた天守の修理でした。
標高480mの臥牛山を麓から手ぶらで登るだけでも大変しょうが、瓦を3枚背負っても若く元気な女学生にとっては楽しい思い出の一つだったろうと想像しました。
山頂付近も木々が生い茂っているため、下界の街が見えるところはわずかです。
淡い緑色と濃い緑色に新緑を織りなす山並みに、ところどころ桜の花が垣間見えました。
現在は高梁市郷土資料館となっているこの建物は、旧高梁尋常小学校の本館です。
玄関わきにある小さな銅像は、備中松山藩の財政を再建したという『山田方谷』でした。
この木造建築は高梁基督教会堂で、明治22年に建てられています。
高梁市内にはまだ武家屋敷が残されており、江戸時代や明治時代の面影をあちこちで感じることができました。
高梁は山あいにある、時の流れがゆっくりとした心安らぐ町でした。
翌12日の朝、ホテルの窓から城山の下に雲がたなびいていました。
もしかして雲海の上に浮かぶ『天空の城』が見えるのではと期待して、急いで展望台へ。
残念ながら雲海は発生せず、『天空の城』を見ることは叶いませんでした。
それでも、なんとなく雰囲気を感じることはできた高梁の旅でした。
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