ピッコロ便り

ピッコロシアター、県立ピッコロ劇団、ピッコロ演劇学校・ピッコロ舞台技術学校など、劇場のトピックをご紹介します。

ピッコロ Side Story(1) ピッコロシアター開館33周年

2011年08月19日 | piccolo side story

8月19日はピッコロシアターの開館記念日。今日で33周年を迎えた。阪神工業地帯の中心・尼崎にピッコロシアターが誕生したのは1978年。

職場演劇が盛んだった当時、地元の若者たちの意見を劇場建設や運営に取り入れようと、設立構想委員会には青年の代表者が多く加わった。「多目的なものは何にも不十分になる」「ライブラリー的なものをつくり、活動の推進材料としておけないか」「客席は400~500程度で、ステージの3倍以上の舞台袖を作る」などなど、様々な意見が出され、こうした声を踏まえ、『観る』ことより『演じる』ことに主眼を置いた画期的な劇場機構が実現した。

今年6月、神戸でのある集まりで、「私、ピッコロシアターを作ったんですよ」と声をかけられた。京都橘大学都市環境デザイン学科教授の竹山清明さんだった。

今まで「ピッコロ演劇学校OBです」や「ピッコロフェスティバルに出たことあります」という人には時々出会うが、「作った人」に会ったのは初めて。当時のことを聞いてみたい!と興奮した。

竹山さんは1968年兵庫県庁に入り、営繕課でピッコロの設計に携わったという。ピッコロには大学の建築学科の学生たちがフィールドワークに訪れたり、前衛的でモダンな外観と自由度の高い空間に、視察した方から「どなたの設計ですか?」と質問されることがある。

県の営繕課の設計であると答えると一様に驚かれる。

そんなことを竹山さんに伝えると、「いやー、当時の営繕課には僕らのような若手も自由に意見が言える雰囲気があったんですよ。高名な専門家からの変更案に、それでは演劇専門劇場にはふさわしくないと現プランを提案したのです。

開館前日は山根さん(故山根淑子前館長)と劇場で徹夜しましたよ。」とにこやかに話してくださった。「よくぞ使いやすい人間サイズの空間を!」と思わず感謝を述べた。

そんなピッコロ誕生の秘話を、開館当初からの職員にも聞いてみた。

「劇場入りしたのは8月1日。何もない事務所の床に電話がポツンと置かれていて、机を運び入れるところから始めた。」と、驚きのエピソードが。開館まで19日という短期間でオープニングにこぎつけた当時のスタッフや陣頭指揮をとった山根前館長の奮闘ぶりにあらためて驚く。

★開館記念式典であいさつする坂井時忠知事(当時)=1978年8月19日


「青少年の自由な創造活動を推進する」という劇場のコンセプトは、多くの先人たちから受け継がれ、今も劇場の隅々に息づいている。開館記念日の今日も、劇場内は多くの若者たちで賑わっている。

★今年のピッコロフェスティバル≪中高校演劇の部≫より 

大ホールでは、ピッコロフェスティバル≪中高校演劇の部≫が始まり、地元の演劇部が次々と熱演を披露している。中ホールでは、≪大学一般の部≫として地元劇団がミュージカルを上演、劇場向かいの県立ピッコロ劇団の稽古場では、秋に小学校を巡演する「銀河鉄道の夜」の稽古中だ。そして、今日、劇団の別部隊は東北へと旅立って行った。16年前の阪神淡路大震災で、ピッコロ劇団は避難所の子どもたちに歌や芝居を届ける「被災地激励活動」として約2ケ月で52か所を訪問した。そのノウハウを今度は東北に届け、地元の演劇人たちと協働で被災地の子どもたちを“演劇の力”で元気づける方策を探る旅だ。

開館34年目、演劇を通した息の長い被災地支援と交流が始まった。

★被災地激励活動で「ももたろう」を上演するピッコロ劇団員=1995年3月1日神戸市立明親小学校

(業務部 古川知可子)


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