『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』**斑猫雑感(斑猫独語80)**≪2020.冬季&2021.春季合併号 Vol.109≫

2021年04月23日 | 斑猫独語

斑猫雑感(斑猫独語80)

澤山輝彦

 「これまでで最大の強烈寒波がやってくる」とか、「大雪が降ります」とかテレビの気象情報は大局的な見地からの予想をまず全国に向かって恐ろしげに言う。大阪の都市部に住み雪はちらほら寒気は冬だから当然、と思っている私なんかは「また言うとるなあ、あいつらは人をびびらして楽しんどんのんとちがうか」と思う。ケチをつけていると、「いちいちケチつけるもんじゃない」と二階から声がしたりして。 ――今は団地住まいで二階はありませんが―― とにかく、もう少し局地的にしぼった警報の伝え方を工夫すべきであると思うのだ。

 雪国という言葉がある。美しい響きだ。でもそこは決して美しいだけではない、深い雪に埋もれて難儀な生活をされている多くの方々が居られるのだ。ここんとこは十分承知している。危機的な気象状況を民衆に知らせるのが、テレビなどの役目だと思っているのなら、もっと政治の嘘、庶民を馬鹿にした政治などを徹底して報道をすべきではないか。これらも日本の危機なのだから。そうすれば「マスゴミ」などと、揶揄される言葉から濁点を自ずから消すことができるのだ。

 そんな大雪で埋もれた雪国の高速道路にたくさんの車が立ち往生している場面は、新聞・テレビには格好の写真としてよく出るものだ。それにはいつも後始末の苦労や、炊き出しや差し入れに感謝したというような、結末の記事が添えられる。だがこんな時、誰が何処で車の乗り入れを制限したり、適切な除雪の出動判断をしたりしていたのか、その適否などはあまり知らされない。こんな積雪渋滞の繰り返しを見ていると、技術の進歩を疑ってしまう。もっと自然とは謙虚に付き合うべきであると思う。何かこのあたりの対策を講じる部署間の調整が、うまく行っていないのではないかという気がする。

 冬の雪と同じように夏には豪雨の予報がある。近年はゲリラ豪雨などと呼ばれる集中豪雨が続いた。これにこりた(こりることは悪くない)熊本県知事は、凍結していた川辺川ダムの建設容認に踏み切った。普段は水を流す流水式のダムにするということだが、堰をきったように(ここで堰を切るという句を使うのも面白いことだと思うけど)滋賀県を中心に、ストップしていた大戸川ダムも建設容認に向かって動きだした。これまで様々な方面の考え方からダム設置に反対してきたことが、このことを機に待ってましたとばかりにとんとんと崩れてしまうのは、人を信じるという人間の根本が崩れてしまうのだと寂しくなる。豪雨にあふれる川との付き合いには強力な堤防の設置、それが一番だと私は思うのだが。ダム建設が洪水対策に万全であるとは限らない。ダムの時代は終わったともいわれているのに。

 自然界が産むコロナウイルス、これに対抗するにはせいぜいワクチンを作ることぐらいで、そのワクチンが完成した頃には、また別種のウイルスがうまれているのだ。人と自然はこんな付き合いしか出来ないのである。我々日本人の自然観は謙虚なものであった。西洋技術思想が入り自然をおさえこむという考え方が広まると、私達の自然観まで変わってしまったのか。河の流れをダムで制御するよりも、ワクチン的?であるかもしれない堤防の強化のほうが自然との付き合い方として優れていると思うのだ。ダム建設で沈む広大な土地、そこには岩や樹など神が宿る場がいっぱいある。古来、日本人はこんな形で自然と付き合ってきたのだ。生き物も無数にいる。

 21世紀だ。科学技術万能の世だ。考えもしなかったことが出来ている世界だ。ここから抜け出さねばならないとはとても言えない。でもこんな科学技術の行き着くところを見極め、これ以上は要らないという限界を見つけることは必要だ。それも科学技術に設計してもらうのかもしれないが、そのための心を人間がまず持たねばならない。地球の資源を使い尽くし、気がつけば残り滓の自然の中にうろうろする人類がいる、SF的発想だが案外人類の終末というのはそんなものかもしれない。私達は居ませんが。

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