二度と戦争はしません、この言葉大事(斑猫独語 57)
澤山輝彦
あの戦争知る人また減って行く敗戦の日
終戦記念日という言葉にはこだわらねばならない。敗戦の日なのだ。終ったのではない、負けたのだ。無謀、厚顔の日本だ、反省の言葉がまずここから無かったのだ。もう一つ、戦争で死んだという言葉もまちがっている。戦争で殺されたのだよ。戦争は殺人ごっこである。
そうして今、平和ぼけという言葉が平和をまるで悪者扱いする。平和にぼけて何が悪いのだ。戦争ぼけや、好戦ぼけの恐ろしさを知れ。というわけであのころのことを少し。
小さくえぐい収穫もれのジャガイモ食った疎開の日
ムシイモ秤で分けた夕食戦後民主主義
水筒からかゆ出して食っていた人駅の階段
米食わぬ時代代用食という言葉で生きた日々
アカザ食い自慢にならぬ忘れもならぬ幼き日
ジャガイモの皮食う犬いて猫はネズミを食っていた
かんてきの熱でシラミをあぶり出していた姉がいた
傷痍軍人戦闘帽ゲートルの人野田阪神
闇市の芋団子甘かったことサッカリン
米軍の車列が続く続く見ていた日夕焼け
ジャガイモの皮を食っていた犬とは、飼うでも無し家にいついていた犬で“シロ”と呼んでいた。人も食えない時代だがよくなついてくれた可愛い白茶のぶち犬だった。猫も実家は五軒先だが何故かうちにいそうろうしていた。名は“チビ”だった。彼等が記録を残せば何と書くだろう。私は食い物の事ばかり。飽食の時代という言葉も甘やかしを助長するだけのものである。決して世界はそんな甘いものではないのだ。
シリア情勢緊迫す見せつける英国民主主義
シリア攻撃降りる英国ポチよ真似よ (9月2日現在)
戦争は次から次へと起こされるのだ。
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