北国街道と佐渡への十字路出雲崎
――良寛と芭蕉の跡をたずねて――
川西自然教室 井上道博
3月29日、山形県川西町をたずねたあと、米坂線羽前小松駅より雪の小国町を越えると、越後路は春の日差しがいっぱいだった。新潟からの高速バスを北長岡で降り、今夜の宿の若主人の迎えの車で着いた町は、江戸時代に栄えた良寛誕生の地、また芭蕉が奥の細道で「荒海や……」と詠んだ町、出雲崎だ。町は海に沿って細長く北から南へゆっくり歩くと30分かかる。ところどころに「出雲崎よもやま話」が町屋の軒先に掲げてある。高台の良寛剃髪の寺、光照寺に上がると、出雲崎の港、遠く佐渡が霞んで見える。
芭蕉は、元禄2年(1689)7月4日午後4時前、出雲崎に着き、大崎屋に泊まった。大崎屋の裏はそのころすぐ海で、「荒海や佐渡に横たふ天河」と吟じ、後に名文「銀河の序」を発表している。
「えちごの駅 出雲崎いふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや 谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへず 波の音さかすにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ 見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に至りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷(すさま)しき心地せらるゝに 宵の月入かゝる此うみのおもてほのくらく山のかたち雲透にみへて波の音いとゝかなしく聞え侍るに 芭蕉」
芭蕉園にある「北国街道人物往来史」をたどると、伊能忠敬や木食上人も歩き、古今の旅人の行き交いがしのばれます。
- 天智7年(668年)燃える土、燃える水を天皇に献上。(出雲崎は日本の石油産業発祥の地)
- 文永8年(1271年)日蓮上人、佐渡へ配流。当町久田にて休憩。
- 正中2年(1325年)日野資朝、佐渡へ配流。当町橘屋(良寛の生家)にて船待ちす。
- 永禄8年(1565年)上杉謙信、佐渡へ出馬。多聞寺を旅館とする。
- 慶長9年(1604年)佐渡初代奉行、大久保石見守長安、佐渡へ渡る。
- 元禄年間 中山(堀部)安兵衛、養泉寺門前に仮寓す。
- 宝暦8年(1758年)良寛、大名主橘屋の長男として生まれる。幼名栄蔵。
- 安永8年(1779年)良寛、22歳で備中玉島の円通寺に赴く。
- 享和2年(1802年)伊能忠敬、海岸を測量に来る。
- 享和4年(1804年)木食五行上人、来杖す。
- 文政1年(1818年)十返舎一九、来る。
まさに、此の地は北国街道と佐渡への十字路だったと言えます。夕暮れに、良寛の 生家橘屋に建てられた良寛堂より海を眺めると、佐渡が蜃気楼のように見えます。
「たらちねのはゝがかたみとあさゆふにさどのしまへをうちみつるかも」
夜は町の端にある江戸時代からの旅館「くるまや」で、安田靫彦の描いた良寛和尚像に向かい合って海の幸を頂きました。この旅館では、良寛の弟由之の書や高浜虚子や河東碧悟桐のサインのある三角堂などを見せて頂きました。30日は、良寛の道を歩いて丘の上にある良寛記念館へ向かう。道端にはキクザキイチゲ、カタクリ、ショウジョウバカマ、ミスミソウが日差しをあぴている。門前の歌碑には
「君看雙眼色 不語似無憂 君看よ 双眼の色 語らざるは憂いなきに似たり」
記念館の中には、自書の般若心経や円通寺修行時の書などの他に、会津八一の書もあります。またたくさんの良寛に関する本が収められています。ここから又若主人に良寛が晩年に身を寄せた和島村の木村屋の吾提寺隆泉寺へ送ってもらい、良寛と弟由介之墓へ参りました。天保2年(1831年)正月6日、良寛は貞心尼や由介に看取られて74歳で息をひきとったということです。
辞世の句は「散る桜 残る桜 散る桜」
寺泊の密蔵院をたずねた後、タクシーで国上山の五合庵へ向かう。この地で59歳まで20年近く過ごした所です。6畳一間くらいの板敷きの庵で、越後の山中は寒かった事でしょう。
「堂久保登磐 閑勢閑毛天久留 於知者可難 たくほどは かぜがもてくるおちばかな」
すぐ上の千眼堂吊り橋を渡り、朝日山展望台からふもとを眺めると、雪の八海山や洪水に悩まされた信濃川の水を日本海ヘ流した大河津分水路が一望です。下がった所に一時住んだ乙子神社があります。崖はキクザキイチゲが花盛りでした。ここから分水町の良寛記念館へはバスも無く、1時間半も風雨の中を歩くことになってしまいました。資料館には三森九木の良寛てまり図や遺愛のてまりが展示されていました。
良寛の旅はこれでおしまい。本降りの中、分水駅より越後線で吉日で乗り換え、弥彦線で燕三条へ夜11時前の夜行バスおけさ号で大阪へ帰って来ました。
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