『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**横断車道(116)**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 横断車道

横断車道(116)

「経済学」というものは何処に行ってしまったのだろうか。TVや新聞、それにネットなどで、経済評論家とか言われる諸氏が、「経済」について論じられることは多々ある。が、それは如何に儲けるとか、将来予測などでしかない。「経済学」という代物ではない▼ソ連の崩壊とともに、「マルクス経済学」は間違っていたなどという、ド素人的流言が支配しだした。「近代経済学」と共に、経済学が語られることは無くなった感がある。そんな風潮の中で、経済評論屋が外国為替や株取引、はたまたTOB (株式公開買付) やM&A(合併・買収)、要は会社乗っ取りを論じることが、「経済学」であるかのように錯覚されるようになった▼「資本主義」と「社会主義(共産主義)」は、相対する理念には違いない。しかし、現実の社会の中で純粋の「資本主義」と「社会主義(共産主義)」が存在することは無い。「資本主義」はかつて、過剰生産恐慌を起こしてきた。それが「資本主義」の限界と思われた向きもあるが、「社会主義(共産主義)」の理念の、国家(政府)の統制によって、経済のコントロールを実現し、過剰生産恐慌は限定的となった。旧ソ連の経済学者が「資本主義の恐慌10年周期説」を唱えたこともあったが、正しくはなかった▼では、「資本主義」は正しかったのか? モノづくりが中心の社会では、コントロールが効いていたが、金融が大きなシェアを持ち出して、金融恐慌が起こり始めた。日本では1990年の「バブルの崩壊」が起こった。アメリカ発のリーマンショックが2008年におこった。日本では山一證券を犠牲にし、米国ではリーマンブラザーズを犠牲にして、何とか乗り越えた。これも計画経済の内だろうから、社会主義手法に過ぎないかもしれない▼さて、金融恐慌も克服したかに見えた。が、モノづくりの実体経済から、金融(架空)経済が利益を収奪するようになり、実体経済より金融経済がはるかに膨大化しだした。マネーゲームと言われる株式投資・FX・TOB・M&Aなとが、実体経済にそぐわない規模になった。収益率が問題になり、より収益率を上げることを強要するようになる。新植民地も限界になり、手を付けてはならない大国のロシアに触手を伸ばして、ウクライナ戦争を企画した。米国産軍共同体は年間70兆円の生産を拡大し、地球上で戦争を拡大しなければ、存在を維持できなくなってしまっている▼2億年前のシダ類(植物)が地中深くで地圧と熱で炭化し、化石燃料を作り出した。大気中の二酸化炭素を地中に閉じ込めた。それを産業革命以来の200数十年で、多くを大気中に戻してしまったのが、温暖化だと言われる。その真相は人類ごときには、まだ判らない。とはいえ、マネーゲーム加熱の金融恐慌が行き着く果ては、マネーゲーマーの主流には判っている。が、止められないのがやつらの愚かなところなのだ。

(コラムX)

【投稿日 2024.4.21.】

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『みちしるべ』**世の中は三日見ぬ間の……(斑猫独語91)**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 斑猫独語

世の中は三日見ぬ間の……(斑猫独語91)

澤山輝彦

 現住所に引っ越して3年になる。この3年間で周辺には大きく変わったものがある。最寄りの駅のプラットフォームにほとんど接して10階建ての消防庁舎ができ、それまで見えていた風景が、ある部分みえなくなった。今、住んでいる団地の中でも古い低層棟や耐震補強のための棟の建て替えも始まっていたが、その幾棟かはこの夏には完成、入居が始まるはずだ。色々変わっていくのだ。

 つい最近、阪神電車を利用する機会があった。最寄り駅(初めに書いた駅だ)が阪急電車であることから、阪神間の移動は主に阪急電車を使うが、この用件を済ませるには阪神電車が便利だとわかったからだ。久しぶりに阪神電車に梅田駅始発から乗ることにうきうきした。そんな子供っぽいこと、と思われる方もおられるだろうが、些細なことに喜びを感じ精神を愉快に保つことが、長生きの秘訣であると私は思っている。

 さて、私が乗るのは各駅停車だ。電光案内板を見ると4番線からの発車だ。4番線ホームに行くと、4番ホームは従来の部分と板張りされ拡張されたスペースとで広くなっている。もとはレールがあって電車が入っていたところを板で覆ってしまったのだ。線路を減らすやりくりをしてプラットフォームを広げたことは、混雑を緩和し乗客へのサービスを図ったのだろう。

 プロ野球セリーグ戦が始まれば阪神タイガースフアンは阪神電車で大移動するのだから。たまに阪神電車に乗りに来た私が気付いた変化である。記憶にある場所の様子が少し間をおけば、このように変化していることに驚くことがある。それは建物が建った、消えたという大きなものに限らず、小さな商店がなくなったり、別の店に変わっていたりすることなどでも同じことだ。高齢のため閉店しますとか何とか理由の張り紙で予告があっての閉店ならまだしも、突然無くなる店舗の異様さを見たことがある。こんな極端な場合、一寸怪しい商売と見たが。無くなるも、増えるも驚きの種になる。

 目に見える物ばかりが変わっていくのではない。人体細胞など日々の変化を遂げているのだ。小腸細胞は平均1日で入れ替わる。胃の粘膜は約3日、肌は10代で約20日、20代は約28日、30代は約40日、40代は約55日、50代は約75日、60代は約100日、70代や80代は記載無し。詳しい学術文献などにあたればわかるのだろうが、もうこの年では肌細胞の入れ替わりは、ほとんど無いとあきらめた方が賢明なのではないか。血液の中の有形成分である赤血球は骨髄で作られているが1秒で約200万個作られているそうだ。即席ラーメン1杯3分間待つ間に3億6000万個作られる勘定になる。一つの赤血球は100~120日で命を終える。脳細胞も一生そのままであるはずがないと思う。変化しているはずだ。でも夢に見る昔の事、あれらの記憶は変わることなく貯蔵・記憶されている。脳は不思議だ。ゆっくりと理解したい。コンピュータを電脳という中国語が面白い。

 色々変わっていくこと、面白いことも悲しいこともあるだろうが、そうして世は進んでいく。いつまでも変わらず世に逆行しているのは今の自民党である。私たちが世の中を変えねばならない。無関心でいてはならない。変化を私達の手で引き寄せあっと驚きたいものだ。

【投稿日 2024.3.11.】

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『みちしるべ』**出入橋(変遷)と中之島界隈(桜とバラ)視察**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

出入橋(変遷)と中之島界隈(桜とバラ)視察

2024年4月例会

よっしー(吉岡 裕子)

 時は4月11日(木)、「春爛漫」は少し過ぎた感のある今日。むしろ汗ばむほどのいい天気です。阪神電車福島駅に午後1時半集合。メンバ-は澤山さん、田中さん、藤井さん、藤本さん、平出さんと私の6名。日陰は涼しいけど陽の当たるところは少し暑い。

 まずは出入橋近くの「きんつば屋」でひとつ110円のきんつばを買う。すごく有名な店と澤山さんに聞いていたが、ほんまだ。人が並んでいる! 今日は木曜日、祝日でもなく平日、普通の日。3組も居てはって、少ししたら後ろにも2人。びっくりしたよ。

 阪神高速道路沿いを歩き、川に出たら橋を渡って東へ。「散歩道」とある。堂島川沿い。時々、観光船が通る。手を振ったら振り返してくれはったよ。あと作業船とゆうのか、動力のついてない船を引ぱる船も走っている。田中さんに散歩道に咲く木・花・野草の名前を教えてもらいながらのんびり歩いていたら、田中さん、藤本さん、私の3人は前を行く3人(澤山さん、藤井さん、平出さん)と距離がついてしまった。途中、陰になっていて石でできた椅子のあるところで休憩して、さっき買ったきんつばをみんなで食べる。おいしかったよ。

 中之島手前の大阪市役所のトイレを記念(?)として使用させてもらう。市役所のすぐ隣で「大阪万博をこの時期にするのはやめて、能登の支援をしよう」という集会が行われていた。音楽が流れていて明るくいい感じ。署名活動もされていて、私も署名させてもらった。

 中之島の端っこまで歩く。南側は工事中。今度来た時どおなっているのかな。桜の花もまだ咲いていて、川に小さな花いかだをつくっていた。半分以上は散ってます。もうすぐ若葉の木に変身する桜だ。ビルが立ち並ぶ大阪の大きな川の中州にある中之島。普通背の高いビルがあると、その威圧感で押さえつけられるような、ちょっと怖い感覚があるんやけど、ここにはそれはない。とんでもなく高いビルがないという事だけじゃなくて、川があることで景色が広がり、両岸の建物の中に、ぽつんぽつんと2階建ての民家があるのがなんともほっこりさせる。それがのんびりとした気持ちにさせて威圧感を感じさせないのかも。

 中之島の芝生広場では、大人も子どもも歩いて走って自由にしていた。犬も一緒だ。その端っこには小さなテントをたてて、中でくつろいでいる人やピクニックシ-トを敷いて寝転んでいる人もいた。あの大阪ーなにわー「〇〇でっせ」、「〇〇やさかい」の言葉があふれた町。「そやけど」ここはちょっと違った大阪だ。なんやろ! 都会やけど田舎のような。みんながせかせかしていない。ゆっくりしている。ここに来ている人はその空間と時間を大事に大切にして、お互いにその邪魔をしない。だから気持ちよく過ごせる。ふらりと来た私もその中でほっこりさせてもらいました。ありがとう、いや「おおきに」か。

 途中、中之島図書館や中之島公会堂の近くを通る。JR大阪駅まで戻り解散。今日は歩いた。箕面よりもっと歩いたよ。10000歩は歩いたよ。ベルサイユ宮殿の庭園を限りなくちっこくしたような庭園があって、薔薇がたくさん植えられていた。花が咲いているのは少なかったけど近寄ると少し香った。今度は花がいっぱい咲いている時にもう一度来ようとみんなで約束。そして、待ち合わせは中之島公園にできるだけ近い駅でと言う事は満場一致。

【投稿日 2024.5.7.】

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『みちしるべ』**紅葉狩りを兼ねての交流会(箕面の滝)**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

紅葉狩りを兼ねての交流会(箕面の滝)

2023年11月例会

よっしー(吉岡裕子)

 2023年11月27日(月)くもり。雨が降るのではと聞いていたけれど降らなくてよかった。箕面の滝まで澤山さん、田中さん、藤井さん、藤本さん、平出さん、私の6名で歩く。今にも降ってきそうな空模様だけど、さすが箕面。紅葉がすごくきれい。もみじ、いちょう、多分うるし。あと名前のわからない木。ごめんなさい。

 いたるところに、サザンカが咲いていた。私は今まで赤やピンクをよく見てきたんやけど、ここは白のサザンカが多い。国語辞典を見たら漢字は「山茶花」と書いて「白/赤の花をひらく」とあった。花図鑑(単行本の大きさ)にも「晩秋に白い花を咲かせます」とあった。サザンカは白なんや。これまで、歩いていると家の庭に咲いているサザンカを見かけたけれど、濃いピンク色が多かった。白は少なかった。山に咲くサザンカは野生で花は白色。そっかぁ。赤やピンクのさざんかは人間が作りだした色やったんや。

 滝に向かって歩く。そしたら、ここに咲いている赤やピンクのサザンカはあとから人が植えたんや。ツバキもあった。まだまだ花が開いているのは少ないけど、ひとつふたつと咲いている木もあった。中国ではツバキ類は「山茶」と書く。「山茶の花」で「サンサカ、サンザカ」と呼ぶ。それが誤って「サザンカ」と呼ばれるようになったらしい。ふと思った。「サザンカ」が「山茶花」なら、なんで「ツバキ」は「山茶」じゃないんやろ。ツバキは日本が原産地で、「山茶花」は日本の国有種とある。でもツバキが「山茶」となっていたらと考えたら、「うーん、なんか違うな」となったので「ツバキ」は「椿」がいい。

 平日なのに人が多くて、途中のトイレ休憩の時も少し並んだ。滝までの道なので「滝道」と呼ぶんやけど、両側にお店がいっぱい。新しいお店も多く、昔(10年以上前)よく来てた時と様変わりしていた。駅からの100m程は昔ながらの箕面名物「もみじの天ぷら」の店が並んでいて、なつかしかったよ。すこしだけお店を冷やかしながら滝へ歩く。昆虫館も通り過ぎる。あっ、田中さんが「もみじの天ぷら」を買ってくれて、みんなに分けてくれた。私はもみじとゆうより、このサクサク感が好きだ。おいしかった。

 犬を連れた人は箕面在住の方だろうか。いや車で来たとゆう事もあるかな、とか思いながら「よかったな」と犬に心で声をかけた。歩きました。普段歩かないので2.8kmは「あるいたー」の私です。(2.8km、2.7km、2.7kmと、いくつかの「駅~滝」までの距離が記してたので2.8kmが正しいかわからないけど。)

 滝は「ふつう」やった。豪快に「グワ-」と流れているわけでもなく、静かに「さらり」と流れてもなかった。記念写真を撮ろうと近くの観光客の人に頼んだら「オッケ-、オッケ-」とニコニコと引き受けてくれた。「ワン、ツウ、スリ-」の声掛けで、みんな「にっこり」と微笑む。アジアの方(男性)でした。ありがとうございました。そおなの。外国からの観光客の人が多かった。アジアの人は同じアジアだから見た目は同じ。でも言葉が日本語と違うから、海外から来はったんやとわかった。

 帰りは基本的に下り道やから行より楽やった。鳥が鳴いて空を飛んでいる。木々の紅葉。鹿もいたよ。下の方を流れる川には魚がおると思うけど、見つけられんかった。サザンカ、赤もピンクもいいけど白もすてきやった。また来たい。いつかまた行きましょうね。

【投稿日 2024.5.7.】

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『みちしるべ』**「イランからの葉書」**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

「イランからの葉書」

藤本千恵子

 4月15日、ポストから2~3通の葉書を受取り、「あぁ~、DMばかり……」と思った瞬間、キラリと光るものがあった。「ん?」とよく見ると、貼られた3枚の切手の右端が光っている。切手の真ん中には紫のスミレのような蕾とミントのような緑の葉に鮮やかな蝶がとまっている。その美しさにホッと心が和らいだ。さらによく見てみると図柄の下には鳩のような鳥が切り込まれており、手の混んだ切手に驚いた。老眼の目でやっと見えたのは「Iran」の文字だ。

 その葉書の正体は広島の絨毯屋さんが1年に1度、買い付けに行くイランから投函したものだった。4月14日の上川外務大臣の談話には「現地時間の4月13日夜から14日未明にかけて、イランはイスラエルに対して、ドローンやミサイル等を使用した攻撃を行いました。」とある。

 心配になって絨毯屋さんに電話すると、店主が「いえいえ、大丈夫ですよ。私共がこの葉書を出したのはちょうど1ヵ月前です。それに、戦争は国のトップがしていることで、遊牧民はもちろんのこと、下々の者は普段の生活をしています。」と言う。「それに、戦争とは関係なく、イランに着いたら必ず現地の人がついての行動となります。空港と絨毯の倉庫の往復しかしません。」とのことである。切手も購入から投函まで、現地の「いつも決まった男の子」に頼むそうだ。「日本人がイランへ入国すること」と「戦争」について、端的に話してくれたように思う。「これが現実なのか……」とつくづく思う。

 絵葉書の表はザクロス山脈で、カシュガイ族の遊牧民がにっこり笑いながら、子羊の皮袋を棒に吊るして、ヨーグルトとチーズを作っている。彼女が着る民族衣装は、土の茶色の世界に暮らすからと、鮮やかな緑や紫やピンクなどの色が使われるという。四季のある日本の、京都でよく見かける着物とは正反対の色彩である。

 また、彼女らが織る絨毯の文様の中で、ザクロは「豊穣・子孫繁栄」、四角は「窓・井戸」、櫛は「結婚・生命の誕生」、羊は「財産」、鳥は「悪事喰いの鳥」を表す。

日本がすでに失ったものばかりだ。

 文様に戦後の日本が目指してきたものが間違いだったと言われ、切手に豊かさとは何ですか?と問われた気がしてならない。

【投稿日 2024.4.27.】

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『みちしるべ』**パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(中編)**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 川西自然教室

パレスチナ、ガザの何が問題なのか?(中編)

田中 廉

1.イスラエル建国

 イスラエル建国には二つの要因があります。

① 第一次大戦後、イギリスが委任統治を開始したパレスチナへのユダヤ人の移住が進んだことです。

 パレスチナのユダヤ人の人口はヒットラ-が政権を握る(1931年)前年の1930年は17万人(パレスチナ人口の16%)でしたが、ナチによる迫害からパレスチナに移住する人が増え1945年には59万人(同31%)と3.5倍に増えました。この間アラブ人の増加が1.5倍ですので、異常なスピ-ドでユダヤ人が増えて来たことがわかります。しかし、ユダヤ人の移住が順調に移行したわけではありません。

 イギリスはパレスチナ人の反乱などで、自分たちの石油の権益が脅かされるようになると、1939年5月、急遽シオニズム支援策を中止。ユダヤ人の新移民入国と、ユダヤ人の土地購入を禁止する決定(「マクドナルド白書」)を下し、アラブ大反乱の終息と大戦中の反英運動の激化回避策を講じました。「ユダヤ人民族国家」建設運動へのイギリスの支援を突如失ったシオニズムの側は、イギリスに対して暴力テロ活動を強めてゆきます。1946年6月には過激シオニストは、イギリス軍の入居するホテルを爆破し、一般人を含む91名が死亡しました。イギリスを見切り、アメリカを頼り建国を画策します。

② 第2の要因はホロコ-ストを生きのび、ヨ-ロッパで行き場を亡くした25万人のユダヤ人難民対策です。

 欧米にとっては非常に頭の痛い問題だったので、こちらの方が、より重要だったと思います。1945年に第二次世界大戦は終了しましたが、ヨーロッパでは600万人と言われるユダヤ人が虐殺されました。ホロコ-ストを生きのこったユダヤ人は25万人いましたが、元住んでいた家は他人に奪われ、ポーランドでは帰郷した村で集団虐殺されるなど、故郷に帰ることができませんでした。また、米国などへの移民も認められず、ドイツやドイツが占領していた東欧で難民となっていました。この25万人のユダヤ人難民対策が連合軍の大きな課題でした。

 その解決策として、パレスチナにユダヤ人国家を創り、そちらに移住させることが画策されます。国連は特別委員会を設け、パレスチナ分割案についてアドホック委員会で検討させます。アドホック委員会は「分割案は国連憲章違反であり、国際法にも違反している可能性があるので、国際司法裁判所に諮るべきである。」、「分割案は、経済的にはユダヤ国家にはよいが、アラブ国家には持続不可能になる。」、「ヨーロッパのユダヤ人難民問題は関係当事国が可及的速やかに解決しなければならないが、それをホロコ-ストと何ら関係のないパレスチナ人に代償を支払わせる形で、パレスチナの地にユダヤ人の国を創って解決しようとするなどは、政治的に不正である。」と結論。特別委員会で可決され、総会にかけられます。

 国連総会でユダヤ人国家が認められるには、欠席と棄権を除いた2/3以上の賛成が必要ですが、現住民(パレスチナ人)の同意もなく、その領土を奪って、他の民族が国を創るのは正当化できるはずもありません。反対する国が多く投票しても勝てる見込みがなかったことにより、当初の投票日はシオニストの妨害で3日間延期させ、その間にシオニストとアメリカは経済援助と脅迫を使い、強烈な多数派工作を行いました。

 その結果、1947年11月に国連でアラブ側の反対にもかかわらず、「パレスチナを分割し、イスラエル国家を認める」ことが決議されます。人口で31%、土地所有率で6%のユダヤ人に、57%の土地を与えるという不当なものでした。1948年(第一次中東戦争)から1973年(第4次中東戦争)まで、アラブ側とイスラエルの戦争が起こります。いずれもイスラエルが勝利、または負けることがなく、イスラエルはパレスチナ自治領を侵食するだけでなく、シリアの一部などを占領し領土を拡大させてゆきます。

 イスラエル国家成立については、2つの大きな問題があります。まず、ユダヤ人差別、迫害、虐殺などは主としてヨ-ロッパで生じたことなのに、その解決策として自分たちが植民地としていた、つまり自分たちに痛みのない場所に、何代にもわたって住んでいた住民の同意や生活を無視し、ユダヤ人国家を創り解決を図ろうとしたことです。本来であれば、もともとユダヤ人たちが望んだように、自国に住むユダヤ人の文化、人格を自国民と同等に尊重し協調して生活することです。それをせずに自分たちにとって厄介な難民化したユダヤ人を、パレスチナ住民の意思を無視して送り込むことにしたのです。それは身勝手な行いであり、そこに正当性はありません。

 第二番目は、一歩譲ってユダヤ国家を認めるとしても、ユダヤ人はもともとそこに住んでいたパレスチナ人と対等な関係で共存を図るべきです。イスラエルの「土地なき民に、民なき土地を」のスロ-ガンで、自分たちの行動を正当化しようとしていますが、それは事実を捻じ曲げています。

 旧約聖書で「乳と蜜の流れる地」と書かれているパレスチナは、古代より農業がおこなわれていました。イスラエルではすべての土地・場所に関する名称から、アラビア語を廃止しヘブライ語に変え、子どもたちに自分たちは無人の荒野を開発し緑地にしたが、アラブ人たちはその繁栄を見て、後から来たのだと教え込もうとしています。(2011年に私がパレスチナ西岸自治区を訪問した時に、市販されているすべての地図から、アラブの町や村の名前は消されていました。)また、ユダヤ人は相場の何倍もの価格で土地を買ったのだと主張しますが、アラブ側から見ると異なります。以下は「世界史研究所」の説明です。

 「高等弁務官は、委任統治政府が『第一次世界大戦で村々は破壊され、国内は貧しさと閉塞の空気に満ちている。』と指摘しながら、何の打開策も講じなかった。疲弊したアラブ農民の負担能力を超えた苛酷な税を課し、その一方で安い価格の穀物を大量に輸入して国内作物の価格暴落を招いた上に、作物の海外輸出を禁止した。行き詰まった農民は納税のため土地を売るしかなく、ユダヤ人は土地を安値で手に入れた。また政府は旧オスマン帝国銀行の債務取り立てを引継ぎ、農民に厳しく返済を迫り、その結果多くの土地が没収された……。アラブ住民は、委任統治政府の不当な政策により、生活の糧を奪われる危険に陥ったことを痛感している。」(Al-Huseinī,Jamāl, Radd al-Lajnati al-Tanfīdhīyah alā Mulāhazāti al-Mandūbi. 1924、140)。

2.パレスチナ難民は何故生じたのか?

 パレスチナ難民はイスラエルにより意図的に作られたものです。

 シオニストはイスラエル建国前から、将来のイスラエル国家でユダヤ人が安定的に暮らすためには、自国領土内のパレスチナ人の比率を下げる必要があると考えていました。イスラエルの初代首相となったベングリオンは、「たとえユダヤ国家ができたとしても、ユダヤ人の人口が60%程度では、安定的かつ強力なユダヤ国家にはならない。」と発言します。

 国連によるパレスチナ分割を決議した1947年11月から、イスラエル建国宣言を挟んだ1949年初頭まで、民兵組織を使い多数の集団虐殺を行います。その一例が、1948年4月(イスラエル建国宣言の1ケ月前)のディル・ヤシーンの虐殺です。エルサレム郊外のパレスチナ人集落(ディル・ヤシーン)がイスラエルの民兵に襲われ、100名余りの村民が暴行・レイプ後に虐殺されます。普通はこのような虐殺は隠すものですが、虐殺の首謀者であるイスラエルの民兵組織は記者会見を行い、犠牲者数を200名以上と倍増し発表します。(この事件の民兵組織の指導者が、のちにイスラエル首相となるベギンです。)

 その結果、パレスチナ人はパニックを起こし、着の身着のままでパレスチナ領や国外に避難しました。(これをナクバと呼びます)イスラエルは国境を閉ざし難民を締めだし、帰国しようとする者は容赦なく射殺しました。その結果イスラエル領内のパレスチナ人比率は40%から20%と下がりました。200以上の村が破壊され、70万人が難民となりました。

 国連総会は1948年12月に「故郷に帰還を希望する難民は可能な限り速やかに帰還を許す。そう望まない難民には損失に対する補償を行う。」、1974年には「追放された郷里に帰還し奪われた財産を取り戻すパレスチナ人の不可侵の権利を再確認し、帰還を要請する。」との決議を行いますが、イスラエルは拒否したままです。イスラエルは1948年に80万人のユダヤ人がアラブ国から追放され、人口交換があったのだから、この問題は解決済みだと主張しますが、まったくもっておかしな論理です。アラブ諸国からユダヤ人を追放したのはアラブ諸国であって、パレスチナ人が行ったことではありません。これはアラブ諸国とイスラエルの間の問題であってパレスチナ人が決めたことではありません。

3.ガザとは

 16年の長きにわたり、「天井の無い監獄」と言われ、福岡市とほぼ同じ面積のところに約230万人(福岡市は約160万人)が住んでいます。食糧、燃料、日用品、医薬品などすべての物資の出入りはイスラエルの管理下に置かれ、その出入をイスラエルが恣意的に制限。かつてヨーロッパに輸出していたオレンジ・イチゴ・花などの生産はほぼ壊滅し、経済は疲弊しています。地下水脈の上部でイスラエルが水を大量に汲み上げるので、井戸水は海水が混ざり、飲料水はイスラエルから輸入せざるを得ない状態で、電気の80%はイスラエルに依存しています。かつて日本の援助で作られた空港も、イスラエルによって破壊され長期に渡り使用不能です。若者の失業率は約67%で、将来に絶望し宗教上の理由から、今までほとんど行われなかった自殺が増えているといわれています。これらのイスラエルの行為は、国際法で禁じられている「集団懲罰」であると、国連や人権団体から強い批判を受けていますが、イスラエル政府には馬の耳に念仏の状態です。

長くなったので、今回はここまでにします。
(ガザの現状、イスラエルの情報操作、イスラエルの狙い、私たちに何ができるのかなどは次回掲載予定)

【投稿日 2024.5.19.】

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『みちしるべ』**名神湾岸連絡線の有料道路事業者決定**≪2024年春季号 Vol.119≫

2024年06月13日 | 単独記事

名神湾岸連絡線の有料道路事業者決定

藤本千恵子

 スマホを上手く使いこなせない昭和生まれの人間でも、世の中、本当に便利になった、と実感させられることがある。道路関連の単語を検索すると「国土交通省」のニュースをはじめ、「乗りものニュース」「日刊建設工業新聞」等のニュースが瞬時に送信されてくる。

 2024年4月5日の日刊建設工業新聞には「名神湾岸連絡線/阪神高速会社と西日本高速会社が参画、有料道路事業を導入」とあった。

 名神湾岸連絡線とは兵庫県西宮市今津水波町~西宮浜2丁目までの約3kmの自動車専用道路で、筆者の住む今津地域にとっては、今後の住環境に多大な影響を及ぼす道路である。阪神高速3号神戸線の渋滞を解消する「ミッシングリンク対策」とされているが、コロナ禍で1年遅れとなった令和3(2021)年道路交通センサスによれば、3号神戸線は6年前の平成27(2015)年の時より、湊川ランプ以外は軒並み交通量は減少している。しかし、令和3(2021)年3月に都市計画決定し、国交省の直轄事業として進められた。

 開示請求した「名神湾岸連絡線橋梁 (西宮JCT2工区)予備設計業務の成果品は、当然ながらその殆どが「黒塗り」だったが、「計画系業務スケジュール管理表」には、2022年12/9(阪・Nx)と印字があり、両社を交えて協議した形跡がある。だから、この2社の参画決定にはさほど驚きはなかった。

 しかし、地元住民のみならず西宮市の担当課さえも驚いた点は、「阪神高速の工事着手予定日が2028年4月1日、西日本高速会社の工事着手予定日が2031年4月1日」と記載されていたことだ。

 始点となる西宮JCT(ジャンクション)の橋梁予備設計業務は4区分に分けられているが、4工区は3/29に納品検査が終了したばかりで、斜張橋と推測される「海上部」はまだ納品に至っておらず、終点の西宮浜JCTにおいては、今年度になって発注されたばかりである。このようは状況のなかで、たとえ「予定日」とはいえ工事着手日が発表できたのか、は事業主体である「兵庫国道事務所」に問い合わせるしかなかった。担当専門家官が言うには「阪神高速と西日本高速会社が『有料事業許可申請』を行う際、申請書類に工事着手予定日を記載する必要があったから。」という回答だった。

 また、「実際の状況をご説明すると、始点の西宮JCT付近でも検討する案件が出ており、西宮JCT周辺の今津地域での住民説明会は当分の間、開催できる状況ではない。」と言う。要は「まだまだ先」ということなのだが、ここで問題になるのは、一度新聞記事となって発信されてしまうと、読者は「名湾が動き出した。名湾は進んでいる。」と思い込んでしまうことだ。

 読み手が問い合わせない限り、国は「あり得ない工事着手予定日」を否定も肯定もしないことだ。あくまでも思い込んでしまった「あなた」が悪いということなのか?今の日本のいたるところで起こっている、黙ってやり過ごすことの「恐さ」を見せつけられた思いがする。

【投稿日 2024.4.27.】

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