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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』街を往く(其の十一)**<2012.11. Vol.75>

2012年11月03日 | 街を往く


街を往く(其の十一) 徳島市で賀川豊彦についての講演会を聞いて

高松、坂出市へと足をのばす

藤井新造

 少し旧聞になるが、3月に鳴門市賀川豊彦記念館創立10周年の記念行事として≪賀川豊彦と友愛革命≫と題した講演会が徳島市であり、知人に誘われでかけて行った。

 ここでも書いたことがあるが、人に誘われると時間があれば拒むことなく気軽に参加するのが私の習い性になっている。

 今回も講演会の題名に魅力があり、賀川についての知識が少ない私は彼の業績を知るいい機会と思い誘いにのった。これも最近自分で本を読むより、人の話を聞いたり、テレビを見て理解しようと安易な気持によりかかる姿勢が一層強くなったせいである。その原因の一つとして活字を何時間も読む根気がなくなったせいかもしれない。

 それはそれとして、講師の小林正弥氏(千葉大学教授)についても彼の著作を読むことなく、講演の題名にひかれて参加した。と言うのは、賀川が唱えた「友愛」について講師より何程かの知識が得られると期待したからである。

 もともと、私は労働運動と生活協同組合という狭い領域のなかでの仕事しか知らず限定された範囲内での活動であり、主として「実践」で、理論書は多く読んでいない。だから賀川については、1921年当時の川崎三菱造船の争議の指導者であったこと、又神戸の貧民街でのキリスト教の伝道活動をしていたこと、それに我国の農民運動の初期の指導者であったこと、それだけでなく日本の生協活動の組織者であった――特にコープ神戸の生みの親であることをわずかの本を読んで知っていたのみであった。

 個人的なことを言えば、今から約35年前に東京の中野綜合病院を訪れた時、この病院を賀川が設立したことを聞いて感心させられたことがあった。(この病院は生活協同病院として法人として、昭和の初期に設立される。)

 彼の活動範囲の広さと深さに比し、何かしら彼についての評価が私の中では低かった。

 このことは、『賀川豊彦』(隅谷三喜男著・岩波文庫)の本でも指摘されているので、あながち私だけでないことがわかり安堵したが、それにしても彼の著作類を読まないで、勝手に彼の業績を低く、評価していたのだから、その罪は大きい。

 さて、当日の小林氏による講演の内容については長時間の話なので、当日配布された「談話」(レジメ)を少し長くなるが引用させてもらい参考にして戴くことにする。

 「賀川が、このような実践的活動(『死線を越えて』の作家・小説家そして労働運動、農民運動、協同組合運動、キリスト教福音運動での活躍)に立ち上がった動機は『愛』であり、このような愛は社会的には友愛として表現されることが多いのです。友愛は自由・平等とともにフランス革命の3原理のひとつです。賀川は、この愛を基礎にして、新しい経済学や協同組合を基礎にする経済のビジョン、そして平和のビジョンを提起しました。私たちは、先人である賀川から、彼の実践やこのような理想を学ぶことができます。」

 そして、「『友愛革命』は、今日の日本に求められている政治的・社会的な構造変化にとって基軸となる精神の革命を指しています。私は、これがフランス革命に匹敵する世界史的意義をもつ新しい世界を拓くものであり、それが日本において段階的に展開してゆくと考えています」としめくくっている。このことを当日1時間30分にわたり聞かされた。

 講義の内容を理解するため、徳島から帰り次第、前述の隅谷さんの本を読みかえした。勿論、小林さんの文庫本にも眼を通した。

 賀川の膨大な全集(24巻)を読むには、今の私には時間的にも困難であるからである。

 尚、当日講演会の会場はほぼ満席で約200名の出席者があった。講演会が終り、レセプションには、徳島県知事をはじめ各界(農協、生協、全労済etc.)多方面からの参加で盛況をきわめた1日であった。

 同席していた労働運動、全労済で活躍された先輩のKさんは、賀川の思想と活動の影響を受けた人、又彼の功績を讃える人が、このように沢山集まっていたことに深く感じ入っていた。

 Kさんは、神戸の賀川豊彦記念館の運営に長らく携わっていた筈であったが、そのことを聞くのを忘れていた。

 一昨年、日本福祉医療生協連合会(前身は日生協医療部会)によって、賀川の生涯を綴った映画が製作された。その映画が、尼崎でも上映(自主上映)されたので、映画好きの私はさっそく観に行ったが、私の感想として映画化が成功した作品とは思われなかった。

 コープ神戸と賀川との関係は上述した通りであるが、このコープは三木市に同生協の役・職員の研修施設「協同学苑」を今から15年程前に設立した。私も二度宿泊した経験があるが、少し交通の便が悪い難点があるが、研修施設としては申し分ない立派な建物である。

 別棟にイギリスの「生協」の発祥地である「ロッチディール公正開拓組合」の記念館を模した建物があり、イギリス・日本の「生協」運動の歴史を紹介し、賀川についての著作類も展示していて参考資料も多い。

 「生協にかかわる役・職員は一度は訪問した方がいいのでないかと思う。

 今日「生協」のあり方、将来について様々な厳しい意見があるが、そのことについては『世界』(2012年11月号)で特集しているので参考にされるといいと思います。

 <この項、次号に続く> 

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『みちしるべ』街を往く(其の十)**<2012.5.&7. Vol.73>

2012年07月05日 | 街を往く

街を往く(其の十) この小さい街・芦屋市に淳久堂の本屋がやってきた

藤井新造

 昨年のはじめに、JR芦屋駅北筋向いのコープデイズの三階に、阪急西宮北口駅北(アクタ西館)ビル程ではないが、規模の大きい淳久堂の本屋が開店した。

 今まで買いたい本を求めて、時に神戸、大阪へと足をのばしていた時間が著しくはぶけるようになった。私にとっては好都合でありがたいことである。しかし、淳久堂の店の進出により(と想像できる)、駅ビル・モンテメールの三階にあった本屋が店を閉めてしまった。

 この本屋で短い時間であるが、本をよく立ち読みしていた私にとっては複雑な気持ちである。大手のスーパーの進出により商店街の小さな店が廃業をよぎなくされたようで、何となく侘びしさをともなう気持ちになる。

 と言っても大きい書店の方に沢山の本が棚に並んでいて、次から次へと新刊書を立ち読みができるし、数は少ないが木製のベンチも置いてあり、疲れるとそこで座って読めるし、やはり便利なのだ。

 本を雑読する趣味がある私にとって、本屋と図書館ぬきの日常生活は考えられない。どちらかに、2~3日も行かないと気持ちがいらいらして欲求不満が昂じて、家庭内でちょっとした諍いがおこる。勿論、私のさして意味のない挑発的言動によって起きるので困る。そういう時に、図書館か本屋へ足を運ぶようにしている。

 最近は遠くにある図書館より近くの市内の図書分館、神戸に所用がある時は三宮図書館、サークルで使っている宝塚西図書館を利用している。車を持っていた数年前には時たま芦屋市の本館、尼崎市までも行っていた。しかし、車を処分してからは、自然と徒歩と電車で行ける範囲に限定され、それも上述したように近くの所へと変わってきた。

 そこで、私が利用している図書館について軽い印象記を書くことにした。

 まず図書館の本館の所在地であるが、尼崎市を除き、芦屋・西宮市は市街地の中心からはずれていて交通の便がよくない。両市とも建設用地の確保ができずそうなったと推測できるが、あまりにも不便すぎる。特に芦屋市がそうである。そして、その不便さを補うために何ヶ所かに分館を配置しているが、本館との格差(本の冊数、月刊誌の数、読書スペース)があまりにも大きい。利用者の利便性を考えて建設されたとは到底思えない。私の家より1時間にバスは2本しか走ってなく不便きわまりない。若い時は歩くこともできたが(約40分の所要時間)、この年齢では無理になった。駐車場があるから、車を利用してくださいということであろうが、そうすると利用者の多くは近辺(南芦屋浜)の人々に自ずと限定されてこよう。それと小さいことだが、尼崎市では何時間駐車しても無料であったが、この市では有料(但し、1時間以上)である。芦屋市として少し「セコ」すぎると思うが、他市より市民の平均収入が高いので駐車料金を徴収してもいいとの行政の判断で決めたのだろうか。

 次に、先に触れたように図書分館の広さ、本の冊数、雑誌数、読書できるスペースは本館に比しあまりにもその差があり過ぎる。

 特に近年高齢者が多く(私もその一人であるが)、どこの図書館に行っても入館者が大勢いる。高齢者のみならず女性も増えている感じである。それ故立っている人が多いので、さすが芦屋では分館でもパイプ椅子を置くようになった。

 又、三宮の図書館、尼崎の本館などでは結構若い男女が多い。若い人のなかでは、携帯電話で短い仕事中の会話のやりとりが、それとなくすぐわかる。まあ読書に邪魔にならない程度のものであるから差しつかえはない。

 次に、閲覧できる雑誌類の種類であるが、各市によってまちまちである。一番多いのは、本館としては尼崎市である。それでも閲覧できる雑誌の数は減少している。係りの人に聞くと予算上によりそうしたと言っていた。新聞類にもそのようなことがあった。それとは別に、神戸三宮図書分館では、東日本大震災後と思われるが、東北3県の新聞(福島民報など)が閲覧できるようにした。さすが神戸市は大きい都市(?)と感心した。

 次に、尼崎市ではベストセラー類の書物など借りたい人が沢山いるので、その希望者の数を入口に明示している。それも時には約250人の借りたい人がいる場合があり、自分が読みたいと思ってもだいぶ先になり、借りる予約をしていたのを忘れてしまうのではないかと、つい心配してしまう。借りる希望者が多い時には、多分追加して図書館でも購入しているのであろう。そうでなければ、1年近く待たねば、希望する本を読めないのだがと、私が危惧することもなかろう。

 苦言を呈することのみに終始せず、私が以前より変化したと思う点をあげておく。

 今、殆どの人が知っているが、当該の図書館ではおいてないが他市(阪神間と神戸)にある本の場合、貸し出しの斡旋の労をとってくれる。但し、手元に届くには日数がかかるのが難点である。

 次に受付の人の対応がよくなった。特に言葉使いが丁寧になっただけでなく、こちらから色々と質問しても嫌な顔をしないで答えてくれる。又、相談にのってくれる。既に尼崎市、芦屋市では図書館運営が委託管理事業になって久しいが「事業」としては改善されたと言えよう。

 しかし、そこで働く人の人件費はあきらかに下がっていると言えよう(そのために「委託事業」に移行したのだから)。又、図書購入費は各市とも多分減額されているのではなかろうか。以上図書館について雑駁な私の感想である。

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『みちしるべ』街を往く(其の九)**清潔さはともかく公衆トイレの多い日本**<2012.3. Vol.72>

2012年03月04日 | 街を往く

街を往く(其の九) 清潔さはともかく公衆トイレの多い日本

藤井新造

 阪急芦屋川駅の公衆トイレが改修された。昨年の9月より今年の2月まで、およそ半年間工事を行い、やっと増改築された。このトイレは六甲山を芦屋川より高座の滝を通って登るハイカーにとっては、非常に貴重な存在である。改修中は、駅構内のB3位の大きさの掲示板に、北へ30分歩くと高座の滝に、もしくは南へ5分歩くと、公園に公衆トイレがある旨を貼ってあり、そこを利用するよう書かれていた。

 春から秋にかけての登山季節には、多くのハイカーがこの駅を起点として六甲山へ登る。その数は中途半端ではない。高座の滝より屏風岩を通過し頂上へ着き、有馬街道(俗に言う魚の道)を下り温泉を行くのが一般的なコースである。それ以外にもいくつかのコースがある。

 屏風岩から本庄橋を通り住吉川の方へ降りる短いコースもある。お多福山から奥池、そしてゴロゴロ岳、苦楽園へと降りるコースも変化にとんだコースである。バスでお多福山バス停まで行き、帰りはその人の脚力に合わせて、道を選べることができる。逆のコースで帰りはバスを利用することもできる。

 私も何回か、いくつかのコースを選んで友達と登った。仕事をしていた時は、休日に少し時間があれば、1人でお多福山まで昼から出かけることもあった。

 ずい分昔の話になるが、夏のある日、昼から1人で馬の背のコースを登り、お多福山へ行ったが、下ってくるグループの年配の女性かより、「今からどこまで行くの?大丈夫なの」と心配して声をかけられたことがあった。その親切心へのお礼ではないが、暗くなる前に山を降りますからと、言葉を返したのを今でも思い出しては苦笑することがあった。

 山では、見ず知らずの人間がすれちがう時、自然と「今日は」と挨拶をする。儀礼的と言えばそうだが、やはりそれだけではない。「今日は」のなかには、お互い怪我をしないで気をつけて歩きましょうと、双方の気づかいが、込められている言葉ではなかろうかと、思っている。

 それはさておき、上記のトイレの件であるが、改修前でも登山者(特に女性)は、男性、女性と二つしかないのでハイキングシーズンの時は、行列をして待っている人がいた。私は、その場に遭遇するたびに、もう少し何とかならないものか(便器を増やすこと)と思っていたが、他人ごとのようにみていて、その場を通り過ぎると忘れてしまっていた。

 そして今、芦屋市は休日に六甲山へ上る人が群れを作る程いるのに、何故トイレの改築をせず放置していたのだろうと考えてみた。一つには、そこへ投資する財政的余裕がないと行政側の答弁がある。次には、登山者は殆ど他からと考え、整備を怠ってきたのではないかと邪推したくなった。

 芦屋市の最近のスローガンは、市の広報をみる限り、ここでも書いたが『国際文化都市』の看板をおろし、『庭園都市』(ガーデンシティ)の名称をいつのまにか標榜するようになった。その名前の詳しい由来を聞いていないが、先の名前を語るのにはふさわしくないと、当局は熟慮したにちがいない。

 まあ、そのことを議論するより、この場所にトイレを増改築することは、海岸にヨットを係留する設備に金を投入するよりは、多くの人に喜ばれることは間違いないと思うが、どうであろう。

 たまたま、2月6日のラジオの深夜放送で、脚本家の小山内美恵子さんの話(再放送)――カンボジアの農村に学校を建てるボランティア――活動を聞いたら、あの地では学校を建てる前に、先ずトイレ設備を解決せねばならないと語っていた。17年間も長期にわたるボランティア活動を通じ、先ず一番大きい問題として、衛生状態の改善に手をつけていると言うのだ。

 このことは昨年の末に短期間のカンボジアへのパック旅行に私も参加して、実感したことである。私の短い、それこそこの国のほんの一部分しか見ていないことを承知の上での発言であるが、トイレの設備の悪さには辟易した。宿泊したホテルの豪華で清潔さに比し、屋外はあまりにもひどい状態である。あの広大な面積に横たわる遺跡群、アンコールワット内にトイレは一箇所もない。場外にあるトイレは水も流れず、大の方を放置されたままである。

 たしかキューバでもそうであったが、手洗いの水、大の方での流し水はゆっくりちょろちょろと流れていたので、少しましの方であった。ついでに言えば、キューバ観光の目玉商品の一つであるゲバラ記念館にトイレが無かった。場内をゆっくり見学するのを楽しみにしていたのに、トイレ休憩がゆっくりとることができなかった残念さは今も心の中にまだある。

 勿論、ヨーロッパのどの国へ行っても、公衆トイレは少ないし、有料である。御存知のように、花の都パリがよい例であろう。それにしても、カンボジアではもう少し何とかならないものかと愚痴を言いたくなった。

 カンボジアのトイレの使用で想い出したのは、阪神大震災の後、公衆トイレの「大」の方はどれもこれも便器の中が山盛りになり、外に溢れだしていた。さすが家の中ではそうできず、私は仕事が終わり帰宅次第、車で芦屋川まで行き、水を汲み持ち帰り、風呂に貯水し使用する度に流したものだった。1ヶ月間、そのような水汲み作業をした。大震災後、私と同じような苦労を体験した人は多いことだろう。その時のことを振りかえると、東日本大震災に遇った人の辛さが痛い程わかってくる。

 またまた、話をもとに戻せば、六甲山へ芦屋川から登るハイカーにとって、半年間もトイレが使用できなかったので、ずい分困った人がいたであろう。考えてみたら、狭い場所であることがわかりながらも、簡易トイレを置くこと位はできたのでないか、それ位の配慮をしてよかたのではないかが、私の言い分である。そうすれば、芦屋市もずい分いきなことをする小都市として感謝してくれた人がいたであろう。

 小さいことのようだが、大事なことであった。そうすれば「庭園都市」の名前も輝いていたであろう。桜の季節にいくつもの簡易トイレを用意しているのだから、できないとは考えにくいのだが……。

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『みちしるべ』街を往く(其の八)**とりとめもないこといろいろ**<2011.7. Vol.69>

2011年07月03日 | 街を往く

街を往く(其の八) とりとめもないこといろいろ

怠惰に過す日々を嘆くことしきり

藤井新造

 この文章は今年の3月3日に書いたのである。半年遅れのもので申し訳ないの一言である。

 今日は3月3日ひな祭りである。凍てつくように寒かった2月の日々を想い出すと、季節は確実に冬から春へと移る気配である。関西では、奈良のお水取りが終わってから本格的な春が訪れるというから、まだ寒い日々もあろうが、とりあえず今日は暖かい。気温は最高14℃である。

 老体にとって、これほど嬉しいことはない。2月に寒かった日々があったといっても、北陸、東北、北海道地方の冬の気候ではない。短期間であるが、冬のそれらの地方への旅行の経験とか、冬の富山市での1ヶ月近い生活をしたことがあり、関西のそれとは比較にならない冷たさが、そこにあった。

 富山市は、母の妹・3番目の叔母が嫁いだ土地で、もう既に20年近く住んでいた。叔母の1人息子に高校3年生がおり、彼の大学受験の勉強の面倒をみてくれと、叔母に言われ、1人のこのこと出かけて行った。55年前のことである。

 私は大学を1年留年し、父親より授業料は負担するので、生活費は自分で稼げと言われていたので、3食さえまかなえれば、どこへでも行ってもよかった。

 そして一応人並みの「卆論」を書くため、多忙な実家では落着かず富山市に行った訳である。当時の富山市では市電が走っており、地方都市として落着きのある街であった。城跡の一画に図書館があり、従弟の勉強の手伝いを午前中に行い、午後からは図書館でもっぱら卆論に関係のない小説ばかりを読んでいた。この当時から、本の雑読する習慣がはじまっていた。

 富山市へ行った(その夏も行ったが)のは、実家のみかん畑と家は弟が継ぎ、私が家を出ることで、父親と暗黙の了解が成り立っていたからである。その理由の主要因は、私が多少とも学生運動に参加し、「左」の人間と我家一族からみなされ、不必要な存在として扱われていたからである。

 そして、私は私で古い人間関係を強いていた、田舎の古いしきたりに辟易していたからである。ある意味で両者の思惑が、結果として一致していた。まあ、そういう富山市行きであった。

 この若い時からすると、ずい分、寒さに弱くなった私であるが、昨年11月末より12月にかけて南ドイツ方面とパリにいった。私のあい方(妻)が、ドイツとフランスのクリスマスマーケットを見学したいとの強い希望があり、私は私で冬のパリ、特にシャンゼリゼ通りを歩いてみたいとの、ちょっと贅沢な望みを実現させたかったからである。と言っても、パックツアーの安物の旅行であった。

 この年の春にはフランス旅行の目的が、ゴーギャン、ピカソなど若き画家たちが寄宿していたモンマルトルの丘を散策すること、そしてマロニエの咲くシャンゼリゼ通りを、フランスがエジプトから略奪してきたオベリスクから凱旋門まで歩き、そこから西にあたるノートルダム寺院、セーヌ河を歩くコースであった。(このことは次回にまわします)

 私たち二人は、海外旅行するには、これから金銭的にも肉体的にもあまり期待できないので、この年はじめて3回の短い海外旅行をした。

 特にそれが可能な時間は、あまり残されていないと思う年頃になったと、つくづく思うからである。昨年4月末に上行結腸癌の手術をして、入院期間こそ2週間余りと短く、早く回復したが余命を強く意識せざるをえなかった。入院だけでも、大腸ポリープ切除で2回、前後3回の内視鏡挿入等の肉体的苦痛だけでなく、精神的ダメージを受けたことはまちがいない。

 これがもう少し重症の患者になったら、気の小さい私など生きる気力を喪失するのでないかと危惧される。「病気」に対し弱すぎると、痛切に感じた。

 それ故、昨年の後半から殆んど無為に過ごした。但し、この間「大逆事件」に関する本は次のものを読んだ。『大逆事件』(佐々隆三 著)、『古河力作の生涯』(水上勉 著)、『遠い声』(瀬戸内晴美 著)と、各々本棚に積んでいたものである。そして『大逆事件100年の道ゆき』(‘09年1月号~‘10年3月号 田中伸尚 著)までである。

今から35年前 偶然にも幸徳秋水の墓参り

 丁度、今から35年前に幸徳秋水の墓参りしたことが、上記の本を読みながら、その記憶がよみがえってきた。

 秋水の墓を訪れた直接の契機は、職員旅行で高知へ行った時、誰が言いだしたか忘れたが、ここまで(足摺岬)きたのだから中村市まで足をのばして行こうと、有志で意見が一致した。私は多分、雑誌類を読んだのみで、彼について深い知識があった訳ではなかった。

 秋水の墓は、さして広くない墓地だったので、探すのに時間はかからなかった。墓石は他のものと同じくらいの大きさであったが、墓石の裾(四方とも)は欠けており、終戦まで何回ともなく誰かによって倒されたと聞いていたが、何程、そのような扱いを受けていたのかと内心驚いた。

 秋水には、たしか親類縁者が一人もいないと知っていたので、この墓は地域の人か、それとも中村地区労働組合協議会の人が建立したのであろう。墓地内に建立についての説明書きがあったが、その文言についての記憶はない。

 大逆事件については、最近、その概要をうまくまとめた文章があるので(『パンとペン』―社会主義者・堺利彦と「賣文社」の闘い―黒岩比佐子 著)、少し長くなるが引用する。

 「『大逆事件』とは大逆罪による事件一般を示す言葉で、ある特定の事件をさしているわけではない。だが、一般に『大逆事件』と呼ばれているのは、1910年(明治43年)に社会主義者たちが一斉に検挙され、翌年24人の死刑判決を受け、12人が処刑されて12人が特赦で無期懲役になった事件のことである。……12人が極刑に処せられたこの事件の内幕は戦前は闇に包まれていたが、戦後になってようやく研究が進められるようになった。絲屋寿雄、神崎清、塩田庄兵衛、森長英三郎、山泉進、その他の人々の努力で新資料が発掘され、この事件の多くの部分が政府によるフレームアップ(でっちあげ)だったことが明らかにされている。」

 それ故か、今では秋水の顕彰碑が建てられていると言う。「幸徳秋水はこの九十余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、この世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を図るべきである。よって中村市議会は、郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。」(2000年12月にあげられた中村市議会決議文)

 それにもかかわらず大逆事件の時代背景「明治国家が帝国主義化して行く過程で、外には植民地支配へと向かい、内には思想弾圧へと向かっていき、それに抗した無政府主義者や社会主義者、またそれらにシンパシーを抱いた、いわば抵抗者たちの肉体と思想が虐殺されたという事件の本質が、社会的にあまり知られてないのです。これはショックでした。」(田中仲尚氏の発言。「世界」‘11年3月号)

 私は、100年前に起った大逆事件が冤罪事件として、世に知られていると思っていたが、人々の脳裡にある記憶がうすれつつあるのを聞き、心底背筋が寒くなるのを感じた。

 それ故、私が読んだ前記の本の紹介をしようと思っていた時に、三橋雅子さんの文に接した。

(‘11年3月3日記 以下次号へ続く)

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『みちしるべ』街を往く(其の七)**県立美術館でショパンの演奏を聞いて**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月04日 | 街を往く

街を往く(其の七) 県立美術館でショパンの演奏を聞いて

犬も歩けば棒にあたる

藤井新造

 映画が好きな私は、県立美術館(ミュージアムホール)へ年何回かは足を運ぶ。この会館でNPO神戸100年映画祭主催の映画作品が上映されるからである。

 古い話になるが、昨年9月に井上麻紀トークとコンサートがあった。昨年はショパン生誕200年で、彼の曲目の演奏会ポスターを街のなかでよくみかけた。私はたまたま映画を見に行った時、同館のアトリエ室で井上さんのコンサートがあるのを知り、時間があったもので出かけて行った。

 彼女の2時間にわたるショパンの何曲かの演奏とトークに、無料とはいえ会場に人が入りきれず廊下にまで人があふれ盛況であった。ピアノ演奏は、ショパンの有名な短い曲で「革命」「ポロネーズ」「マズルカ」など久しぶりに聞いた。彼女はワルシャワの音楽学校に入学し、その期間を入れて約7年間滞在し、勉強していた日々の想い出を、ワルシャワの中央公園のスライド映像をバックにして語っていた。特にワルシャワの中央公園は、ポーランド滞在中、この公園の魅力にとりつかれよく散歩したとつけ加えていた。

 私もいくつかの国を訪れ、有名な公園を散歩した経験があるが、ワルシャワの公園についてはどうしてか印象が強く残っており、今でも記憶として鮮明に浮かんでくる部分がある。私が訪れたのは、04年6月であった。約7年前である。井上さんがスライドで号していた公園が、ショパンの銅像があった「ワジェンスキ公園」か、もう一つの有名な無名戦士の墓がある「サヌキ公園」か、定かに想い出せず家に帰ってアルバムをとりだして見たが、やはり特定することができなかった。

 私が歩いた公園は、ポプラの樹のような大木が空に向かって真直ぐにのびていて、高さは20~30mにも見えた。とにかく、高くそびえている感じであった。それが適当な間隔に整然と植わっている。西欧の公園はどこでもそうであるが、若いカップルが仲むつまじくベンチに座ってじゃれあっているかと思えば、一方では年配のカップルがゆっくりした歩調で散策していた。そこには静ひつな空気をかもしだす雰囲気が漂い、歩いていても気持ちがよかった。

 話が飛ぶが、私のポーランド旅行は映画の『灰とダイヤモンド』『地下水道』(ともにアイジェ・ワイダ監督)を見て、その時から何時か、彼の地へ行きたいとの思いが、50年以上たってやっと実現したものであった。

 1944年8月1日、ドイツに制圧されていたワルシャワを自力で解放しようと市民が一斉に蜂起し、約20万人が亡くなった。その人たちを弔って建てられたワルシャワ蜂起記念碑を見ておきたかった。それと、アウシュヴッツ強制収容所跡に行って自分の眼で確かめたいものがあった。そして死者に対し、ささやかな私なりの祈りをしておきたかった。ワルシャワ蜂起記念碑もアウシュヴッツ収容所棟も、今は外国からこの国を旅行する人が訪れる定番の観光名所になっているようだ。

 話をもとに戻すと、井上さんが弾いたショパンの曲目のなかで想い出したのが『灰とダイヤモンド』の映画の最終場面に近いシーンである。ドイツ占領から解放された新生ポーランドを祝福する宴が、ワルシャワ市長のもとに開催される。この祝賀会は、軍、党の幹部によってくりひろげられるが、宴会後も何十人かは翌朝薄陽が射すまで踊り続ける。この場面のダンスのため演奏された曲目が、この日彼女が弾いた「ポロネーズ」であった。

 50年前かの我青春のフラッシュバックである。学生時代、教室へ足を運ばず、日夜アルバイトにあけくれ、新劇、映画、コンサートばかりの行事を追いかけていた。今は、当時勉強しなかったことに悔いが残るが、私の青春がそれらであった。それはそれとして、ポーランド旅行のなかでショパンの生家を訪れた。ショパンが若くしてポーランドを離れパリーへ行き一度も祖国に帰らなかったのは有名な話であるが、まさか私が彼の生家を訪れる機会があろうとは、それも又予想だにしたことがなかったものである。

 彼が死に際し、自分の心臓はポーランドに埋めて欲しいとの願いにより、今ではワルシャワの聖十字架教会内にある所へ、訪れられたこともそうである。

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『みちしるべ』街を往く(其の六)**せますぎる病室の大部屋**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月03日 | 街を往く

街を歩く(其の六)せますぎる病室の大部屋

藤井新造

 今年の4月下旬より5月中旬まで、上向結腸癌の手術のため西宮の県立病院に入院するはめになった。

 7年前に右肩複雑骨折修復のため、2週間余り芦屋市民病院に入院したが、その時以来のうれしくない体験である。その時入院していて、看護師をはじめ職員の言葉使いの丁寧さに感心したものだ。そこまで丁寧に言わないでよいと感じたことがある。

 例えば「今から血圧をはからせていただきます」の場合、「今から血圧をはかりますから」でいいのでないかである。そこまで敬語に近い言葉使いをされると、何となくこちらの気持ちの落ちつき具合が悪い。

 それにしても、ずい分この間医療従事者の言葉の使い方がよくなったとつくづく思う。

 私自身、30年余小さい医療機関に勤務していて、患者に対し、自分では無自覚で、不用意な言葉を発したあと、反省することが多にあった。私だけでなく、患者に対する職員の言葉使いの「悪さ」について、仕事上問題があると疑問を感じることがあった。

 普通はそのことを職員にストレートに注意すればいいのだが、注意するのが難しかった。又、難しい場合もある。

 職員に対し、私の注意の仕方が悪かったせいか、言葉使いを注意すると大抵の看護師は辞めてゆく。彼女ら(彼らも)は、次の職場を探すのにさして苦労しない。私が辞めた10年前、まだ売手市場であった。固い言葉で言えば、横断的労働市場があり、さして労働条件が変らないで再就職ができた。

 だから、言葉使いを注意して辞められると新聞広告をだし、職員を募集しなければならない。これに字数にもよるが1回(3日間連載)につき40~50万円の経費がいる。そのことを考えると小さい医療機関では、なかなかふんぎりがつかず、ぎりぎりの選択のすえ注意するかどうかの決断をする。

 話をもとに戻すと今回の入院は16日間要した。入院していて1番困ったことは、夜なかなか寝つかれないことである。4人部屋なので誰かが鼾をかく人がいれば困る。それも隣りのベッドにいる人の頭と私の頭の距離は、カーテンごしにわずか30~40cmである。お互いの鼾のみならず、呼吸する音がまじかに聞こえるわけである。

 特に、私は数年前から小さい地下室の1隅にベッドを置き寝起きしている静かな環境にいるので一層困る。

 理由は、私のあい方が私の鼾で眠られず睡眠不足により体調を悪くしたので、地下室に引っ越した。幸いガレージが広かったので、そのことが可能になった訳であるが……。

 鼾をかく人がいれば他の人は我慢するしかない。そういうことで、誰しも入院生活で経験する睡眠不足を味わう。もう一つ困ることはプライバシーの保護がないことである。

 個室に入りたいが、金銭のことを考えると4人部屋でこれも我慢するより仕方ない。次に困るのは、7年前も同じであったが、急患が夜間に入室してくることがある。例えば4人部屋で1人空室になっている場合、必ずと言ってよく入室する。他の部屋がガラガラで空室である場合にもある。色んな事情があり入室することは、それなりに理解できるが、こちらはやっと寝ついた所でまた起こされるのはちょっとつらい。

 こちらも病人であることを考えて欲しい。一方的な私の言い分であるが、何とかならないものか(改善の余地が)と、今回も感じた。

 その次に、私だけかもしれないが、私の場合血管が細く点滴の注射針が入りにくい。5日間点滴を持続して打っている時、夜間に漏れる時がある。看護師が交互にきて針を入れてくれるが、なかなかうまく入らない。あとで考えてみると、こちらも緊張していて、相手(看護師)も緊張し、一つの悪循環におちいり、ことはうまく運ばないことに、結果としてなった。

《かばんのなかにいつも1冊の本を》

 さて、退院してわが街芦屋に帰ってくると、駅前(JR芦屋駅・阪急芦屋川駅)に《かばんのなかにいつも1冊の本を》(芦屋市・芦屋市教育委員会)と書いた大きい横断幕がかかっている。

 読書週間の標語らしいことが、その場では理解できず、後になってわかる。

 43年前、この市に転居した時、市のスローガンは《国際文化都市》なる輝かしい文字が見受けられた。それがいつのまにか《庭園都市》に変わり、この頃、市の広報には《景観都市》なる文言がチラホラみられる。

 それでつまり私は今度は《かばんのなかにいつも1冊の本を》が、市のスローガンになったのかとはやとちりしたのだった。《国際文化都市》なる呼称とは裏腹に、この街は、海を埋めて造成した土地が売却できず、いつのまにか財政事情が悪い都市として全国の中でワースト(4)に入ったことがあった。

 そのツケが市民への福祉後退となり、老人パス券の無料もなくなり(3年まえより、半額支給として復活する)、《国際文化都市》なる呼称を使うのはさすがに気がひけ恥ずかしくなり、《庭園都市》(Garden City Ashiya)と呼ぶようになったと推察できる。

 そうであれば、「公園」をもっと整地し、ベンチを増やし、市民が利用しやすい《庭園》を目指して頑張って欲しいものである。

 退院し、静養(?)しながら、そのようなことをつらつらと考え、日頃より市政にもっと関心を持つべきは、私にも言えることだと思った。

《街を歩く》の今回は室内版です。

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『みちしるべ』街を往く(其の五)**私の桜の花見 断片記**<2010.5. Vol.64>

2010年05月02日 | 街を往く

街をあるく(其の五) 私の桜の花見 断片記

さまざまの事をおもい出す桜かな 芭蕉

藤井新造

 今年も桜の花見の季節が終わり、これまでの私の記憶に残る「花見」をつれづれに綴ってみた。私が育ったのは、坂出市のはずれで北東にあたる小さな村(旧松山村)である。

 その村には4つのがあり、そのなかでも新しいであろうと想像される大藪(現大屋冨町)が生れた所である。

 このから東の方向へ徒歩で1時間も山道を経て登ると、青海町に88ヶ所巡りで有名な81番の札所・白峯寺がある。この寺から2~3分も歩くと崇徳上皇の御陵があるので、このの歴史は古いものがあろうか。

 それに比し、私が育ったは海と小高い山、五色台連山に挟まれ、田畑の少ない百姓の家が多かった。北の海岸線は、塩田が網の目のようにへばりつき座っていて、そこでこの土地は行きどまりになっていた。

 旧地名で<大藪>とあるのは、きっと籔林を切り開いて譲成された土地であろう。余分の話だが、開墾者の発起人の氏名に祖父の名も小さく刻まれている。

 この新しいにも神社があり、境内とそこまでの参拝道の両脇に桜の木が植っていて、花が咲く頃ちょっとした「花道」に見えた。

 但し、桜の花見に興いる村民はいなかった。戦中、戦後の何年間は花見をするような落着いた世相ではなく、ましてこの土地の人はよく働き「花見」など眼中になく、毎日の労働を最優先していた。そして国全体でも、誰しも働かねば食っていけないような貧困状態であった。

 戦後10年もすると少し社会が豊かになり、私が20才頃この神社に夜桜を見に行った。母方の伯父の誘いによるものであった。その夜は全体で花見をするのを決めていたように大勢の人が集って、酒を飲んで賑っていた。かなりの広さの境内があり、いくつかのグループが、酒のせいか会話がはずみ大きい声が飛びかっていた。なかには、レコードに合わせてダンスをしていた男女もいた。

 しかし、提灯など明かりのない薄暗い夜だったので、誰か知っている人がおるだろうと、彼らの容貌をたしかめようとしたが見きわめることもできなかった。

 多分、遠方からの花見客が大勢いたのであろう。何が理由であったか今だに想い出せないが、私の気持ちはそのような雰囲気の中に卆直に入れず、2人だけの茶碗酒の時間も間が持たず、早々に短時間でその場を引揚げたことがあった。田舎の村での花見は後にも先にも、この1回のみである。

嵐山での花見、あわや乱闘騒ぎに(?)

 それ以降は上阪してからの花見である。勤務した職場は人数も少なく、ここでの仲間との花見の経験はない。が、仕事上10年間零細小企業の労働組合活動にかかわっていたので、それらの組合より時に花見の誘いの声がかかりノコノコと出かけて行ったことがある。

 なかでも印象深く、今でも忘れられない花見があった。当時、旧国鉄の軌道上の枕木をコンクリートで作っていた職場からお声がかかった。参加者は50人前後である。場所は京都の嵐山の長州である。ここで車座になって花見をしていたが、突然周囲が騒がしくなったので、よく見ると若者がビール瓶を持って殴り合いがはじまっている。あとでわかったことであるが、どうも他の見知らぬグループと身体が触ったとか触らなかったとのことから、口論になり喧嘩がはじまったらしい。こちらの年配者が、間に入りビール瓶を取り上げようとするがなかなかおさまらない。そこへ突然中年の女性が立ちあがり、「あんたら花見に来たんやったらおとなしく酒を飲んで楽しめ、そうでないとさっさと帰れ!」と声を発し怒鳴った。すると屈強な若者どもは度肝を抜かれたごとく、途端におとなしくなり、ことはおさまった。

 私は、側にいて事態のなりゆきを心配し、心中ハラハラドキドキするばかりであったが、世の中たいした度胸の持主の女性がいるものと感心するばかりだった。

 次は鉄鋼の下請会社の組合員で在日の人、数人より誘われて、夙川公園の満池谷への花見である。孫請、下請労働者のなかでは何人か寄り集まって組として、元請会社に入って仕事をしていた。今でいう請負労働者である。

 尼崎では私の知るかぎり、出身地ごとに、沖縄の宮古島、鹿児島の奄美大島、徳之島出身の人、又は在日の人同志の仲間が寄り集まり、現場の1番きつい肉体労働についていた。

 そして、共通したことは彼らの年功序列型の身のこなし方は、身分関係にある種の秩序(年配者に敬語を使う、上下関係がきつい)があることを知った。

 それは別にして、在日のメンバーよりお声がかかり、初めて満池谷での花見の経験をした。周知のように満池谷が、野坂昭如の小説(「火垂の墓」)の舞台になっていることはよく知られているが、行ったことはなかった。

 ここの桜の花は、たしかにきらびやかさと華やかさを併せもち、人の噂にたがわぬものであった。華麗なる桜の花とはこのことと納得した。そして彼らの持参してくれた食べ物の御馳走にあづかった。

 私は、親しくなった現場労働者より自宅へ遊びにくるように言われ、時に出かけて行ったものである。そのせいか「花見」にも誘いの声をかけられたのであろう。

 今から45年前の頃の出来事である。

芦屋川での桜の花見も遠ざかる

 その後、夙川公園への花見は亡くなった義母を伴って1度行ったきりである。

 そして、2~3年後芦屋市に移住し、義母と一緒に芦屋川、岩園公園へ桜の季節に花を愛でるため何回か出かけている。

 それも義母の高齢が加速するにつれ、やがて近くの芦屋川での花見もできなくなった。

 昨年久し振りに、熟年者ユニオンの仲間の花見に明石城まで出かけて行ったが、生憎く雨の中、立見のコップ酒になったが、それでもちょっぴり楽しさをもらった。

 話も芦屋川の花祭りに戻すと、最近は芦屋市の商工会を中心に、地域の諸団体も出店をだし、色んなイベント、なかでも生バンドの演奏もあり賑やかな催しとなっているらしい。

 この「宴」に私は1度だけ、見物がてらにのぞいてみたが、何処かしら私にはそぐわない雰囲気があり、私の気持ちに野球場の外野席にいるような疎外感をもたらした。

 それで残念ながら「見学」もあきらめ今日まできている。

咲きあふれ こぼるるときに容赦なく
                    花はおのれを崩し終わりぬ  斉藤 史

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『みちしるべ』街を往く(其の四)**<2010.3. Vol.63>

2010年03月03日 | 街を往く

街を歩く(其の四)

藤井新造

 今回は、短期間のポルトガル旅行の印象記です。今年の2月中旬1年を通じ、最も格安のポルトガルツアーに参加した。ツアーの料金が安かったせいか、総勢41名という多数者である。

 今までの海外旅行は何ヶ国も廻るツアーを避け、1国のみにしていた。それが一昨年はクロアチア・スロベニア、昨年はオランダ・ベルギー・ルクセンブルグと3国めぐりの2回を経験し、今回から、又1国のみにすることにした。理由は簡単で、2度とその国には経済的理由もあり行けそうもないからである。

 従って1国だけでその国の表面だけでも充分に見たいという気持ちがあるからである。それにしては短いポルトガルの断片記になったが、以下は私の感じた印象記である。

 その前に、利用する交通手段として多い飛行機であるが、ドイツ航空機の機内食が今回は大変おいしかった。全日空との共同便で、日本人の乗客が多いせいか、日本人が食べやすい味つけをしていたのと温かいものが出たせいによるものであったろう。

 それとポルトガルはユーラシア大陸の西の果のため、飛行時間を長く要し、フランクフルトで燃料補給し、ミュンヘンでも乗換えたので、合計17時間の長時間の飛行であった。当然機内食が多く出てくる。それ故、航空会社が機内食には気を遣っていたのかもしれない。今回の飛行時間は、キューバの旅行の時、23時間を要したのについでのものであった。

 ユーラシア大陸は、東の中国より延々とはじまり、ポルトガルのシントラにあるロカ岬にて終わり、ここより大西洋に向うとの有名な文言を、ずばり実感できる遠い国であった。

 この遠い国より1549年、フランシスコ・ザビエルが伝道のため鹿児島へやってきたのはあまりにも有名である。そのことは、16世紀の中頃の大航海時代に、ポルトガルの国が多くの富を有し、いかに航海術にたけていたかの証であろう。

 前置きはそれ位にして、私はどこの国に行ってもスーパーに足を運ぶことにしている。それもできるだけ大きいスーパーを探して行く。そこでは色々な商品がみられる楽しみがあるからである。果物など日本と違った味と色と形をしている。それらの一つを買って帰えりホテルで食べるのが楽しみだ。(内証で日本に持って帰える時もある。)又、値段がどの位するか、日本と比較して計算して知ることもできる。

 ヨーロッパのユーロ圏内で、ポルトガルはギリシャに次いで経済が悪いと新聞の記事をみているのに、そのあたりも少しわかればいいと思っていた。

 だが、その国の表層だけをわずか1週間位滞在してそんなに簡単にわかる筈がない。でも、そうとは言えない。

 ポーランドなどで、市バス、車の窓が破損し、それをダンボールとか板をはりつけ応急処置をして走っているのを見ると、経済的豊かさは感じない。勿論、そのことからポーランドの人々の生活の貧しさには直結しないことがわかっているが………。

 話題をスーパーに戻すと、どの品物も安い。通貨がユーロなので計算しやすい。品物の値段を日本円に概算してみればすぐわかるからである。だから、多くの色々な品物を物色する。自由市場(広場)の果物も豊富である。ポルトガルは比較的暖かく気候が果物を生産するのに向いているせいであろう。緯度は日本の仙台市位といっており、日本を出発する時仙台地方は雪が降っていた。滞在中、午前中は霧がたちこめ、天候の変化も激しい。小雨が降ってはすぐやみ、又降るという具合である。それでもそんなに寒く感じないのは、大西洋の暖流のせいによるものであろうか

 このように朝夕の温度差が大きく、適当な降雨により、良質のブドウが採れ、おいしいワインが醸成され、完成品になる。ワインも安くておいしい。

地下鉄(メトロ)、バスの安い料金にびっくり

 次に、最終日の自由時間に夕食をとるため、元万博のあとがある駅ビルのオリエンテ駅まで地下鉄に乗って足をのばす。ホテルより5駅あるだけである。そこに丁度西宮北口駅の西宮ガーデンズのようなショッピングセンターがあった。

 ここでいくつかの店をのぞいてみたが、どこも値段が高かそうなので、夕食を簡単にすますことにした。マクドを少し大きくした30人~40人収容の店に入る。

 珍しかったのは、野菜もパンも果物も肉類も一緒くたにして重さで値段が決る売り方をしている。計り売りである。だから適当に品物を撰びトレイに乗せレジに持って行けばすぐ料金が表示される。但し、ビール、コカコーラなどは別料金になっている。

 私は他の国では経験したことがなかったので珍しかった。

 次に、地下鉄の運賃である。英語を話せずましてポルトガル語はボンディア(おはようございます)と朝の挨拶しか知らない。それでもつれあいと2人で地下鉄に乗車する。

 今回は、1回のみの乗車で、しかも乗換えをしない路線を選んで夕食にでかけた。ホテルへの帰りをまちがわないように簡単なルートにした。今まで、ウィーン、ブタペスト、台湾、ニュージーランド、サンクトペテルブルグでの地下鉄、トラムに乗ったことがある。ウィーンのトラムは1周しても1時間もかからず、又もとの所に帰ってくる。大阪の環状線みたいなものである。外国人でも乗りやすい。しかし、ブタペストでは乗換えるホームがわからず、うろうろしていたら老婦人が地下2階まで(50段程ある)一緒に降りて案内してもらったうれしい経験もある。

 それで今回もあまり時間がなくて簡単なわかりやすい路線にした。欧州では、日本と違い券売機が少ない。定期か往復券を買い利用しているせいであろうか。そのあたりはわからない。ポルトガルでは1回券が1.3ユーロである。往復で2.1ユーロで安い。私が行った国では日本のように距離が長くなれば運賃が高くなるのを経験したことがない。同一の路線であればどこまでも行ける。ちなみに、オランダで1番長い路線は長距離で16駅もあり同じ料金である。

 そして、トラム、地下鉄、バス、ケーブルカー、一日中乗れる共通券が4.2ユーロ(日本円で約550円)である。それも専用カードを利用すれば2回目は割引がある。人が利用し、乗りやすい料金にしている。

 日本の交通政策は、その意味では全然遅れていると思う。都市での綜合的な交通政策の視点が欠けているせいであろう。

 京都など、地下鉄、バスの安い共通券を発行したら観光客はずい分利用しやすい乗り物になると思うがどうであろう。

 次に、小鳥を売っている自由市場に行く。丁度日曜日なので開店しているという。小公園らしい広場に大きいテント小屋を設営し、各々が店をカーテンで仕切りおよそ50店以上が並んでいる。

 勿論どの鳥もかごに入っているが、なかにはうさぎ、マウスなど小動物もいる。大きい鳥では尾長鳥もおり、小鳥でもこんなに沢山の種類がいるのかと珍しくなり見て廻わる。

 気に入った鳥を買い、かごに入れているのをそばで見ているだけで、こちらまで喜びが伝わってくる。多分かごの値段も安いのでなかろうか。ここが日本であればもって帰りたいような可愛い鳥が沢山いた。

 大人がこのように喜々とした顔を全面に見せ、鳥を買っているのを見たのは初めてである。私も、幼い時、にわとりだけでなくチャボなど美しい鳥を飼った経験がある。そのことを想い出した。

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『みちしるべ』街を往く(其の三)**“クボタ・ショック”から4年**<2009.9. Vol.60>

2009年09月04日 | 街を往く

街を歩く(其の三) “クボタ・ショック”から4年

藤井新造

アスベスト曝露による健康破壊に抗議する集会より

 芦屋市にとってこの1年間、市民病院をどのような形で存続させるのか。当局の独立行政法人化案について多くの議論があり、各議員から配布された市政報告により多様な意見があることを知った。立地条件、建物の老朽化、医療スタッフの充実、交通手段についての各々の立場よりの提案であった。単年度赤字6億7千万円の数字の解消のみの議論だけでなく、何よりも「市民の健康」をどう守ってゆくのかが議題として討論されたのがよかった。

 結果として公営企業法の適用という内容に落ちついた。残念なことは「赤字」になって何故悪いのかという、開き直った意見が少なかったことである。このことが「公的な場所の会議」で充分討論が深まらなかったことである。

 私は医療というものは、本来営利事業になじまないものとして考えていたが、ここではこれ以上はふれない。ただ私が、検査・手術(家族を含めて)の際、比較的この病院を利用している。感想として、私自身が小さい医療機関で働いていた経験からしても、さして不満はない。と言うよりこの病院の医療にほぼ満足していることだけ、つけ加えておく。

 市民病院が民営化され運営上失敗したとしても、再度自治体病院として再発足することは不可能であろう。その意味で上述の結論に不満をもちながらも、現時点で賛成である。

 同様に山幹道路の開通のための芦屋川の下にトンネルを掘っているが、通過する車両が増えれば周辺住民が騒音・振動の被害を受け、景観は台なしである。もう以前の状態に回復さすことは困難である。そんなこともあり、何時のまにか芦屋市は国際文化都市の呼称を庭園都市に変えている。

 この山幹道路の北側、約100mたらずの船戸町の一角に、セキスイハウスが5階建のマンションを建てる手前の状態にある。周辺の家では大きい横幕で『許すなセキスイ、誠意ある対応を!!』『近隣軽視のセキスイ、誠意ある対応を!!』を塀に着け、ビニール板の小さいステッカーには『積水ハウスは船戸町の景観を壊さないで!!』『問題あり、地下7mの機械式駐車場、騒音の安全』『近隣の太陽をとらないで!!』等を生垣、塀にぶらさげている。

 念のため、私は「アスベスト肺4周年の集い」に参加する途中、歩いてみた。反対するステッカーを貼ったりぶらさげているのは10軒余である。「住環境を守る会」の人に結集する家庭は少ないのかと、残念な気持ちだ。周辺の人はセキスイの建築するマンション(土地は約300坪)に納得せず反対しているのであろう。日照、騒音などの被害が明らかに予想されるからである。

 それを見て何とか少しでも支援できないものかと思って通り過ぎた。と言うのは、この場所から西北にある、竹園旅館別館の前の土地、旧伊藤病院の跡地に葬儀会館が建つ予定の時、反対署名運動が起こり、私も署名している。署名以上のことはしていない。それ故、「セキスイ」の場合も何らかの関与をしたいと一瞬「感情移入」があれど、自分の内で持続できない。

 そしてこの人たちは「山幹」の道路拡幅の時どういう反応を、示したのであろうかと推測してみた。私の勝手な推測であるが、この船戸町の住民は多分「山幹」問題に関心を持ったであろうが、100mの距離があるために、それだけで終わったのであるまいかと………。

 かくいう私も「消極的反応」に終始していたのだから、50歩100歩の違いもないということか。そんなことを考えながら、6月27日「アスベスト被害の救済と根絶をめざす尼崎集会―“クボタ・ショック”から4年」に参加した。

世界では早くから予知されていた工場周辺住民の健康被害

 会場前のロビーでは、アスベスト被害で亡くなった人、遺族の方、闘病中の方の写真が展示されていた。写真のなかには45年前に、尼崎地方評議会の事務所で私と一緒に働いていたTさんの写真もあった。彼は失業中、短期間であるが日雇いで働いていた時、アスベストを運搬し、それにより被災し、一昨年京大病院で片肺を切除し、現在闘病中と添え書きがあった。顔の表情を明るくして見せようとしているが、酸素吸入の管をつけているその顔が何とも痛ましく映っている。

 集会の主催者挨拶は遺族を代表して「クボタ旧神崎工場周辺の石綿被害者は、私たちの確認しているだけでも、すでに200人を超え、またクボタ工場内の被害者も151人を数えています」と述べた。351人が亡くなったことが判明した。集会で、次から次へと4人の被害者と遺族の話を聞きながら、私は車谷典男教授の次の言葉を想い出した。

 氏は「………今回の『慟哭』という二文字が正にピッタリと当てはまるような話を、面接調査で幾度となくお聞きすることになりました。人生観が変わるほどの衝撃を受けました。病名を告知された時の驚き、妻に対する夫の慈しみや、夫を失った妻の悲しみ、母を突然亡くした娘のむなしさ、息子に先立たれた母親の嘆きも、繰り返し聞くことになりました。」(『アスベストショック―クボタショックから2年』アットワークス社)と悲痛な言葉を綴っている。

 同じ本のなかで氏は、クボタで働いている者のなかで中皮腫患者が発生したのは1986年、所謂、職業性曝露による中皮腫である。氏らの調査で工場周辺の住民の中皮腫の多発がわかったのが2005年である、とすれば約20年の時間差の経過をみたことになる。『企業内で発生した職業病の原因物質が周辺環境にもれた場合に、同じ病気を住民に起こす可能性があれば、企業内の発生を迅速に地域行政に通報しなければならないといったような法的規制があれば、状況はずい分変わっていた可能性があります』と、いかにも悔しそうに語っている。

 そして、当日発行・発売された『アスベスト禍はなぜ広がったか―日本石綿産業の歴史と国の関与』(日本評論社)を読むと、よくその言葉も理解できる。

 1970年、朝日新聞がアスベストによる肺がん患者の発症を報じた。瀬良好澄氏(国立療養所近畿中央病院長)による、大阪泉南地方のアスベスト工場で働いたことのある石綿患者を診察した結果「石綿じん肺ガン患者8人発症、6人死亡」との内容のものであった。そして各国で「問題は一般の住民まで広がってきた」と報じたが、日本の社会ではそれを深刻に受けとめず見逃していた。

 1971年2月、国会では野党議員より瀬良研究に触れ、アスベスト肺患者の発生対策を当時の労働大臣に質問し、大臣の答弁として「発がん物質にかかわりのある工場等につきましては特別の対策を講じてまいりたい」とし、これを受けて労働省は各都道府県の基準局長宛に「最近石綿粉じんを多量に吸入するときは、石綿肺をおこすほか肺がんを発生することが判明し、また特殊な石綿によって胸膜などの中皮腫という悪性腫瘍が発生するとの説が生まれてきた」、従って「石綿によるこの種の疾病を予防するため監督指導を行なわれたい」と通達を出している。

 この2年前、1969年の国際労働衛生会議で南アフリカの参加者により、環境曝露による中皮腫が発生する可能性のデーターの発表があった。そのこともあり、日本代表の佐野辰雄氏(労働科学研究所)が「肺がん、なかでも中皮腫によるじん肺の複雑化は大気汚染問題の主要な課題になっており、わずかな量のアスベストでさえ吸入を避けるべき時代になって来た」と認識していたと言う。

 この間、クボタは危険性が高い青石綿(クロンドライト)の使用は1951年~1975年で、合計88,671トンの使用量があり、工場内で石綿肺患者(死亡者)が発生している。それなのに、クボタ・ショップはテレビで「環境にやさしいクリーンな機械」のコマーシャルを流し続けていた。残念ながら、事態は車谷教授の指摘する通り進行した。

この国のあり方と社会の仕組みを変えるとき

 余談になるが私は1971年頃より、尼崎労働者安全衛生対策会議を結成し、≪労働災害・職業病をなくする運動≫に取り組んできた。今の尼崎労働者安全衛生センターへの再編までの15年間である。

 その期間「じん肺」について学習会の講師として佐野先生に何回か来てもらった。先生は「じん肺」で亡くなった労働者の胸部X-Pの写真を持参し、管理区分ごとのフィルムを指で示しながらわかりやすく説明してくれた。大柄な身体で、ユーモアたっぷりの口調での講演は評判がよかった。

 来阪の用件は瀬良先生との打ち合わせであったと思うが、その機会に便乗して尼崎まで足を運んでもらった。講師料、交通費の出費できない貧弱な財政状況の会なので、集会後、先生を囲んで何時もささやかな飲食を共にし、我慢してもらった。

 その時先生は、「じん肺」防止のため精度の高い防塵マスクの着用、ふんじん曝露による作業環境の調査等の重要性を口酸っぱく強調していたのが、今でも強い印象として残っている。

 さて文章が長くなるので、これ以上書けないが、私も編集の一人として発行した『労災職業病闘争小史』(アット・ワークス社)で、車谷教授が書いている次の文章が非常に重く私の胸のなかに突き刺さっている。

 「………それにしても、クボタの中皮腫問題は重い。重すぎる話である。企業、行政、医療機関、専門家に多くの問題を投げかけている。国の不作為と決めつけるのはたやすい。でも、これほどアスベストを社会に氾濫させてきたのは私たち自身でもある。今一度、社会医学に立ち返り、社会の仕組みの不合理さに取り組みたいと思う」。このように氏自身の決意を語っている。

 まさしく問われているのは、この国のあり方であり、その仕組みを変えることであろう。今回も水俣病と同じく、車谷典男、熊谷信二氏らの専門家による献身的な努力と、尼崎労働者安全センターの日頃の活動の積みかさねにより“クボタ・ショック”が表面化し、アスベストによる環境曝露の恐ろしさを知った。

(7月13日)

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『みちしるべ』街を往く(其の二)**この街に来たことのいわれ**<2009.7. Vol.59>

2009年07月05日 | 街を往く

街を歩く(其の二) この街に来たことのいわれ

藤井新造

 前回書き忘れたが、この街に住みつくまでの経過を簡単に書いておきたい。

 若い時、私は西宮市で3年間下宿していたが隣の芦屋市に足を踏みいれた記憶はない。 芦屋市についてあまり感心を持っていず、どちらかと言えば車谷長吉の『赤見四十八瀧心中未遂』の本に書いている文言に近いものを抱いていた。少し長くなるが引用する。

 「駅は芦屋川の川の上にあった。川の両岸は閑静な、見知らぬ高級住宅街である。川沿いの道を歩いて行った。………毛のふさふさした白い犬を連れた、様子のいい奥さんとすれちがった。だしぬけにこんなところに住んでいる人の生活は最低の生活だと、思うた。しかし、会社の同僚たちはみな『中流の生活』を目指していた。あんな生活のどこがよくて。ピアノの上のシクラメンの花が飾ってあって、毛のふさふさした犬がいる贋物西洋生活。ゴルフ。テニス。洋食。音楽。自家用車。虫酸が走る。あんな最低の生活。私の中の『中流生活』への嫌悪感」。

 この車谷の書いている芦屋市民に対する嫌悪感は一面的でしかもあまりにも独断に偏する気持ちが現れている。しかし、この街の人に対し他の市民より時には羨望と怨嗟の標的になる。このことについては後日書くことにし、私がこの街にきた(転居)のは事情が違う。

 42年前に共同住宅を建て、そこに保育所を作るためであった。場所は、岩園小学校の手前(正門)から左折して市民プールの方向へ、そしてその道は芦有道路へと通じるのだが、左折してすぐ左側に宮川へ流れる小さな河川と河川の間に挟まれた土地であった。周辺は在日朝鮮人の人が多く住んでいた。

 まだ、朝日ヶ丘幼稚園、小学校もできていなく、近辺の家屋も少なく、コーポの前の道路は舗装されておらず、雨の降る日など道はぬかるみ、長靴を履いて通勤したものだ。まだ朝日ヶ丘町は開発途上の町であった。芦屋でもこんなに昔のままの道路が残っているのかと驚いたものである。コーポの建築中にここへ何回か足を運んでいたが、雨の降る日に来たことがなかったので、そんなことがわからなかった。

 そして、コーポ(朝日ヶ丘コーポと名づける)に住んでみたものの、仕事が忙しく家と駅の間の15分間往復するのみで、この街についてのことは何一つ知らなかった。何年か経ち、近くに朝日ヶ丘ゴルフ練習場ができる案が地主の中田さんより周辺へ知らせるチラシが入った。この時、騒音がひどくなるので、近隣の人約50人と設営反対運動を起こし、半年余の交渉の末、テニスコート場へと転換させた。このテニスコートが、阪神大震災の直後、学生の仮設住宅として提供されることになろうとは想像だにしなかった。

 また話が飛ぶが、芦屋に転居する前に吹田市で5年余そこで生活をしていた。この街は大阪駅に比較的近く、共稼ぎの両者の勤務地への通勤時間が同じ位であった。それより何より3ヶ月の子供を保育してくれる仏教系の保育園がみつかったからである。この保育園探しは半年近く時間を要した。当初3ヶ月の子供を預かったことはないので入園を断られた。でも6ヶ月の子供を預かった経験があると、園長の姉さんが、私たちの窮状をみかねて、入園をサポートしてくれた。0才児保育園を探して、大阪府内を歩く。

 当時1960年頃、大阪府内でも0才児を保育している保育園は少なかった。私は大阪市の福祉課の人と相談し協力方をお願いした。幸いにも協力的で、いくつかの保育園を丁寧に教えてくれた。数は少なくて一つ一つ訪ねて行った。

 最初は中津の済生会に行き、次に十三のミード教会、あと一つ東野田にあった施設であった。済生会では、「あなたのように子供を育てることが困難な親のためかわりに子供を養育します。但し、子供との面会は月1回にして下さい。」と言われた。同じようにミード教会では週1回の面会にして下さいである。また東野田の民間施設の保育所では、0才児は入園しておらずそれらしい設備もなかった。

 そこで上述したように、吹田市の仏教系の私立保育園の園長の姉(保母さん)に泣きつき入園許可を得ることができた。だから入園できる保育園が見つかったと言うより、強引に頼みこんだと言うのが正しいかも知れない。入園許可を得てさっそく吹田市に転居した。

 またまた話はもとに戻るが、吹田市に移転する前には門真市に住んでいた。結婚してすぐに住んだ街である。ここを撰んだのは、大阪駅を中心にコンパスで円を描き等距離で家賃が1番安い土地であることがわかったからである。その理由の真偽はわからないが、松下電器(現パナソニック)の大きい工場があり、市民税が安いとの噂のあったのを信じた。私が転居した当時の門真市は、蓮根畑が次から次へと宅地として造成され、文化住宅がいくつも建ちかけていた時代である。

 この街で忘れられない経験をした。台風襲来である。長男が誕生したのが1961年6月末で、台風が9月に襲来、直撃である。この時、門真市では建築中の家が倒れ、たまたまその様子を見にきていた大工さんが亡くなったと、翌日の新聞で知った。それほど大型台風なのであった。安普請のせいか文化住宅の屋根瓦は飛び住宅全体がぐらぐらと大揺れし、天上から雨がもり出し、私はこれは危険と思い一家4人が毛布を身体に巻いて外に出ようと様子をみたが、出られる状況ではなかった。台風はますます激しくなり風雨は増し、畳の上に土砂まじりの雨が降ってくる。そして文化住宅の揺れはとまらない。その時、日頃全然会話も交わしたこともない、顔をろくに会わしたこともない、隣人たちが協力し合った。廊下の壁が吹き飛ばされそうになったので、各々が部屋の畳をはがし廊下に立て、防ぐことができた。そんな忘れられない怖い想い出をこの市で経験した。

 台風と言えば、私が幼い時、小さい河といっても河口なので河幅50mはあったと思うが、氾濫しそうになった。この時、村中の者が総出で堤防の上に土のうを積み上げる作業を一生懸命にやっていたのを側でみていて、早く家に帰るように言われた。この時は土のうのすきまより水が吹き出し、今にも堤防が決壊しそうな時、男達が遑しく働き田畑に水が入るのを防いでいたのを想い出した

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