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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』ハドソン・ベイ号とハドソン湾のホエールウオッチング(2)**<2005.5. Vol.35>

2006年01月13日 | 川西自然教室

ハドソン・ベイ号とハドソン湾のホエールウオッチング(2)

川西自然教室 森 雄三

 ベルーガホェールは和名をシロイルカと言い銀白色の体をした美しい中型のイルカで、チャーチル川では6月半ばから8月にかけて観察することができる。今日は6月22日でシーズンは始まったばかりであるが、なぜかお昼過ぎから猛烈に暑くなりクーラーはフル回転しているのに全く効かず、とても北の果ての町の実感がない。

 翌朝早く爽快な気分で起床、散歩でもと外へ出たとたんに震え上がった。一晩の間に冬になっている。それでも日が上がるにつれて寒気がゆるんで来たのでツアーの事務所に出向くことにした。庭の片隅から巨大なパラボラアンテナが宇宙の彼方をにらんでいる。大陸国家カナダは通信手段が重要で、ましてここは自動車の入らない僻地となればなおさらであろう。窓からその電子お椀が見える部屋でチケットを貰う。午後の出発と聞いていたのに、夕方4時集合と記されている。随分遅い時間だと思ったが潮の加減がイルカの出没に関係するらしい。

 今チャーチルは花の季節で、春・夏・秋が一度に到来している。予定外の時間のおかげで町外れの野や湖岸べりに咲き乱れる野草をゆっくり堪能する事ができたし、ハドソン湾側の岩だらけの海岸で1932年――私の生まれる3年前――の落書きも見つけた。そろそろ時間と宿の近くまで戻ってきたら、脇道から大通りに出てきた黄色いスクールバスが私達の前でクラクションを鳴らしながら止まった。おや、と思う。中は子供達でなく大人ばかり、ハドソン・ベイ号での顔見知りも見える。

 先ほどの事務所の人が降りてきて乗れと合図したのでツアーバスと了解した。あちこちのホテルで参加者をピックアップしてきたのであった。しかしいささか気になる事がある。車体に表示された[スクールバス]とは、通学専用のバスをツアー用に転用しているのか、それともスクールバスなる名の会社があって商売にしているのか、一体どちらなのだろう?

 ホエールウオッチングのコースは、まず船でチャーチル川の対岸に渡り、18世紀に建造されたプリンスオブウエールズ砦を見学する。万一の場合のポーラーベア、つまり北極熊の出現に備えてライフルを背負ったチーフガイド以下4人の案内係が付き、小さな岬の先端にあるる砦までお花畑の中を歩く。日が少し傾いてきたが暖かくなり気持ちが良い。石造りの砦は空から見ると星形をしていて、最上段の城壁の5メートルおき位に、直径が一抱え長さ3メートル位の青鋼製先込式カノン砲40門が据えつけられている。毛皮などハドソン湾の産物を巡っていさかいがあった時代、対フランス軍用として建造されたものであるがいざ戦端を開いたとなると一発も発射せずに降伏した、との事である。黒光りする大砲の列を眺めて、文字通り無用の長物とはこれなり、とその時思ったわけではない。ガイドの現場説明は例によってチンプンカンプンだから、貰ったパンフレットを後で懸命に読んでこの文章にしているのを白状しなければならない。

 いよいよホエールウオッチングである。観測船シーノースⅡ号は、ボルボ製ディーゼルエンジン駆動の2基のジェットポンプで水を吐出して推進する。スクリューなど船体外部に可動部がないので、近寄ってくるシロイルカにも危険がない。船体中央には高い観測塔があって上からイルカの姿を探す。河口付近をあちらこちらと移動すること30分、風が冷たさを増して来る。突然、エンジンが停止した。右舷の彼方に発見したようだ。客がドッとそちらの方にと寄ったので船が右に傾いてしまう。もう8時前だが陽はまだ西の空に残っていてキラキラと金色に光る波間に、影が2つチラとはねた。エンジンがかかり、今度は静かに前進し再び停止する。見えた!真白な躰をくねらして一瞬波の上に現れたかと思うと次の瞬間には潜水している。1頭、2頭 ……3頭、4頭……。潮を吹き上げるのもいて、どうやら船の周囲を廻りながら段々近付いてくる様子である。甲板上のスーピカーからは水中聴音機が拾ったグェーとかギーとか鳴きかわす彼等の声が聞こえる。至近距離に来たのでズームレンズを望遠側にして写真を撮る。両目を開けたまま一方はファインダー他方はイルカが水面に現れた瞬間を追う。1枚、2枚……5枚、6枚 ……何回写してもボタンとシャッターのタイムラグのため顔が捉えられない。かくてはならじと首を出す位置を予想して何とか2、3枚撮った。が、後でプリントを見たらやはりダメであった。

 観測船が帰途につくと彼等は同じスピードでついてきて、船体の下に潜り込んだり反対側に跳び出したりする。もう少し自分達と遊んで欲しいのだそうである。船が桟橋のそばまで来て、やっと離れ名残惜しげに泳ぎ去った。[ウオッチング]と名のるツアーであったが本当は、我々が彼等のお相手をさせられていただけなのかも知れない。

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『みちるべ』ハドソン・ベイ号とハドソン湾のホエールウオッチング(1)**<2005.3. Vol.34>

2006年01月12日 | 川西自然教室

ハドソン・ベイ号とハドソン湾のホエールウオッチング(1)

川西自然教室 森 雄三

 コインロッカーを開けた妻がつぶやく。「アラ、やっばり無いわ、どうしょう」上着を中に入れたと思い込んでいたようだ。とすれば、市内見物に出る前に一服したこの駅のベンチに置き忘れたことになる。外国では失せ物はまず出てこないから、あきらめて次の町で買えば良いとなだめるのだが、6時間程前にチェックインしたカウンターの方を指して、あそこで訊いてみると言い張る。「ねえ、『ここで洋服の忘れ物した』って英語でどう言うの? 教えて」ウーン、困った。買い物だったらその服の前で「プリーズ」とでも口にすれば解決するのだが。『私は今日のお昼すぎ頃、待合室のあそこの椅子に細かい黒白のチェック模様の婦人物の上着を置き忘れたので、もしかして届けが出て無いか調べて欲しい……云々』 そんな面倒な英語は勘弁してくれ、としばらく考え、「『アイ レフト マイ ジャケット』言うてみ」ダメモトと、係の女性と掛け合っている様子だったが、間もなくニコニコ顔で戻ってきた。終わりまで全部しゃべらない内に分かってくれたそうで、手にちゃんと上着を抱えている。

 ウイニペグはカナダの中央に位置するマニトバ州の州都でカナダ国鉄の大陸横断列車はこの辺りで西行きと東行きがすれ違う。しかし、私達夫婦が今夜乗車するハドソン・ベイ号はここウイニベグ駅から大陸を真北に向かい、ハドソン湾に面した町チャーチルまで35時間の長旅、到着は明後日の朝になる。途中に大きな町は無く、最初の間は農場や湖、北に行くにつれてタイガの針葉樹林が続き、終りの方はツンドラの凍土地帯の中を走る。列車に乗ったままとは言え半分体力勝負的な旅となるので、トイレ・洗面所付きの2人用個室寝台を予約しておいた。食事も全部列車食堂のお世話になるが今はもう夜の10時なので明朝からの利用を楽しみにしつつ枕の下の鉄路の響きを子守歌に夢路をたどる――。

 朝、昼、夕そして又朝、と都合4回の食事は楽しかった。最初の朝食のメニュー《ウエスタン・ブレックファースト》は、ソーセージ・炒り卵にケチャップ・マッシュドポテト・野菜サラダ・厚切りトーストにジャム・バターそれにお代わり自由のコーヒーか紅茶がつく。朝からこれでは昼食を少し控えねば、と思う程の豪華版のお値段は2人分で17ドル80セント(1,498円)、チップを2ドル置いた。

 2日目の午後。快晴で気持ちが良いが、熱波が到来したのか窓の開かない列車内はひどく暑くなってきた。エアコンが故障したらしい。そろそろ夕食の時間、と食堂車に行くと厨房からの熱気もあってまるで蒸風呂の様。とても居られないが、間もなくトンプソンに停車したのでこれ幸いと外へ出たら、客も皆降りてきてホームの無い地上で思い思いに涼をとっている。やがて町の方角から白いヴァンがやって来た。降り立ったサービスエンジニアは炭酸ガスのボンベを取り出す。一体何が始まるのかと皆が興味津々見ていると、ボンベにつないだ銅管の先をやおら車体床下の熱交換ユニットに向けバルブをひねった。途端に辺りー面にもうもうと煙が上がり周囲の見物客が慌てて飛び退く。いや、煙ではなく長年月の間ユニットに積もりに積もった埃を吹き飛ばしたのであった。

 エアコンの修理も終わり、定刻を少し遅れて発車したハドソン・ベイ号の快適な食堂車で夕食とする。お客は全部合わせても百人位なので何回も食事をすると顔見知りができる。沿線の町ザ・パスから来たヨハンソンさんはスエーデン出身のカナダ人、西洋人のお年はよく分からないが80歳位で元気一杯。環境関係の仕事なのか、チャーチルの会議に行くとかで、これを読めと書類袋にぎっしり入った《北極圏自然生態系案内ガイド養成プログラム》なるものを手渡そうとする。お近づきの印にとビールを御馳走したら、お互いにさっばり理解できない?

 英語なのに訳もなく会話が弾み、あげくには野球帽に付けていたハドソン・ベイ号のバッジをプレゼントしてくれた。ファーマーだと自称する私達と同年配のアーチャーさん夫妻を写真に撮ったので、送りたいからと住所を尋ねたらアルバータ州オールズのミスター・アーチャーで手紙は行くと告げられ思わずゲッとなった。アルバータは日本の3倍もある大きな州で、いくら人口希薄といえ、とんでもない大農場に違いない。「オー、ソービッグファーム!」と驚いて見せたら、かたわらから小柄な奥さんが、「ノーノー、スモール」と謙遜したように口を添えた。

 3日目の明け方、船の寝台のような上下動で目が覚めた。外を見ると、列車はツンドラ地帯の薄明かりの中を時速50キロ位でゆっくり走るが、それでも車体はまるで観光バスのように左右に大きく揺れている。地盤が極めて悪く線路が安定しないのである。その関係か、地図で見るとチャーチルヘ通じる道路は無く町へ入るには鉄道又は航空機を利用するか、それとも非結氷期に北側からハドソン湾廻りで船で行くしかない。 じっとしていると車酔いになりそうで遙か彼方の大平原の日の出を眺めて気分がおさまるのを待つ。

 チャーチルに着いたが駅には誰もいない。前方に連結された荷物車まで出向き、一昨日チッキにしたスーツケースを車掌から直接受け取ったがまだ朝の9時、さてどうしたものかと思案にくれる。駅前から眺める町は埃のためか白っぽく平屋の建物ばかり、一方駅舎は堂々たる3階立てだが人気が無く丸で幽霊屋敷のよう。妻が、「向こうの方で誰かが『チャーチル・モーテル……チャーチル・モーテル……』と言ってるわ」チャーチル・モーテルは今日明日の2晩を予約してある宿で、主人が迎えに来てくれたのである。やれやれ、と相客のドイツ人風の大男とヴァンに乗り込むが早いか、砂塵を巻き上げて猛然と走り出す。「これは何々、……あれは何々」と、町の建物を指差して大声で説明してくれるが残念ながら良く理解できない。ラッパのマークが見えたので郵便局はそれと分かったが、ものの5分もドライプすると、「ザッツオール」とのたまわってチャーチル案内は終了となった。降りると目の前がチャーチル・モーテルで駅のすぐ近く、一部舗装された大通りに面している。

 名はモーテルだがキングサイズのツインベッドルーム、エアコン・冷蔵庫それにトイレにバスタブもあり、早速湯を張って2泊2日の列車旅の疲れをほぐす。一服してからフロントで、ヨハンソンさんの資料に入っていた【ベルーガホエールウォッチング】のパンフレットを示してツアーに参加したいと申し出ると女主人があちこちに電話して、「今日はダメで明日の分を予約しておいたから、当日シーノース・ツアー事務所に行って手続きすると良い」と場所を教えてくれた。

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『みちしるべ』韓国ソウル清渓川復元工事を視察して**<2004.11. Vol.32>

2006年01月12日 | 川西自然教室

韓国ソウル清渓川(チョンゲチョン)復元工事を視察して

川西自然教室 井上千栄子

 毎月一回環境学習をしている仲間の呼びかけで韓国ソウル市の清渓川復元事業の視察という貴重な体験をさせていただいた。その感動を少しでもお知らせしたく書いてみました。

 清渓川道路は幅50~80m、長さ約6km、1984年に公式路線に、清渓高架道路は1967~1976年の間に建設された幅16m、長さ5.8km往復4車線の自動車専用道路で、撤去前の2002年度に清渓川道路と清渓高速道路を利用した車は一日平均16万8556台であり、清渓川道路が6万5810台清渓高架道路が10万2746台であった。この大きな二つの道路が2003年7月1日清渓高架道路の撤去を手始めに本格的な清渓川復元事業が始まり、2003年8月に清渓高架道路の撤去が完了し、清渓川道路についても2004年末までに撤去を完了する予定です。その現場を見ることが出来た私は、一瞬目を疑いました。

 日本では公共事業と称して、大切な税金でだいじな自然をこわし不必要な高速道路を建設しています。韓国では道路を撤去して川の復元工事をしているのです! ソウル市の職員の方と話し合う機会にも恵まれ、何故、復元事業にこれほど力をいれておられるか聞いてみると、四つの理由を話してくれました。

その第一の理由  ソウルを人間中心の環境都市へと変貌させる。

第二の理由  ソウル600年の歴史性の回復と文化スペースの創出が必要である。

第三の理由  市民の安全が脅かされていた。清渓川に蓋をした道路と、その上の清渓高架道路は作られてから40年も経ち、一時しのぎ式の、補修工事だけで耐えるには限界がある。

第四の理由  立ち遅れた都心の開発を活性化させ、地域の均衡発展を計るべきである。

という理由でしたが、その実現には様々な対策、話し合いがなされたようで、いただいた資料からも、交通対策や周辺商人に対する対策として、公聴会や事業説明会を着工までに4000回を超える会合を通じて商人側から様々な意見を聞いています。又、撤去工事に伴う公害(騒音、粉塵)についても最新の工法で作業を行っているそうです。そして工事で発生する撤去残渣は約68万トン、その内、鉄類は全部リサイクルで、コンクリート、アスファルトは95%にあたる64万トンがリサイクルされているそうです。環境にもやさしく配慮しているソウル市に、日本の遅れを感じてしまいました。

 もう一つ感心したのは、清渓川の復元によって道路が北と南に断絶しないよう清渓川全体に合計22の橋が架けられることです。そのひとつひとつが周辺の状況と復元された清渓川によく調和できるようにするため、上流は“歴史と過去”のイメージを、中流は“文化と都市的”なイメージを、下流は“自然で未来指向的”イメージを盛り込んで周辺との調和だけでなく、全体的にも連続性や統一性、一体感を持つように計画されているということです。なんと「夢と希望」の街づくりです。ステキな橋の模型や完成図を見るとうっとりしてしまいました。

 職員の方の「車中心の社会ではなく、人を中心にした社会を目指す!」この言葉に韓国の方をぐっと身近に感じました。日本ももっともっと行政、市民が一緒になってやらなければと思いました。

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『みちしるべ』騒がしかった上高地**<2004.9. Vol.31>

2006年01月12日 | 川西自然教室

騒がしかった上高地
――1930年代生まれが知った山の憂鬱――

川西自然教室 畚野 剛

この夏、初めて上高地へ?!

 山好きから自然観察の「業界」入りした私ですが、独身時代、西日本の低山(標高2000m以下)からピーク・ハントをトロトロと進めていました。深田さんの「百名山」で言えば、白山の手前までで止まってしまい、北アルプス連峰については今迄、三俣蓮華岳の頂しか踏んでいないのでした。こんな私が、この夏、小児2人を伴った長男一家と松本で合流し、1日目、乗鞍高原、2日目、上高地に入りました。環境庁保護(?)下の国立公国内のモデル観光地を見て、いろいろと感ずるところが多くありました。

 8月19日朝、快晴、泊地の明神を出て、梓川沿いに上高地バスターミナルまで歩きました。その間、ピストン運転で物資輸送するヘリコプターの音が絶えることがありませんでした。ヘリコプター好きの泰(とおる)には良かったようですが、梓川の瀬音をかき消す響きに少々、抵抗を感じました。もちろん、河童橋への道は都会並みの雑踏で、橋の上は写真を撮る観光客が鈴なりでした。ああ、もっと静かな「昔」に来たかったなあ。

菊地俊朗「北アルプスの百年」文春新書

 松本駅で解散し、特急の待ち時間があったので駅ビルの本屋で時間調整。そこで目に留まったこの本を買ってしまった。

 北アルプスでの営業小屋開設100年に因んで地元信濃毎日の松本氏がまとめられたもの。山小屋や登山道の歴史がいままでの「外来者」の視点と異なる地元からの記述を特徴として打ち出されています。「登山ブーム」を裏から支えてられる人々、とくに遭難救助隊の人々の苦労もきっちりと書き留められている好著でありました。

 この本では、最近主流となった「リソコプターによる救助」についても触れています。それに平行した最近の現象として、携帯電話による救難要請が急増して問題を起こしているようです。

 最近の中高年登山者のなかには、途中で歩けなくなったり、些細なけがでも「携帯」を使って安易に救助を求める姿があると言います。このような救助体制の整備に悪乗りするような、マナーをわきまえない利用者たちの増加がいまの世の実相だと知らされて、私などは、年寄りの憂鬱に浸ってしまうのです。

科学技術の進歩の裏に人々の心の荒廃

 すこし話が飛びますが、私が中学生のころ、日本はアメリカなどを相手に無謀な戦争をしていました。戦争の末期、(なんと音楽の)先生が「落ちた敵の飛行機を調べるとなにに使うのかわからない機械が一杯だった」といわれ技術面での負け戦を(雑談まがいに)暗示されたのが心に残っています。このような、「日本は科学・技術の面で負けた」という認識が、戦後日本を国民一体の科学技術重視の方向に誘い込みました。それにより現在の物質的に豊かな社会が実現されました。しかしその反面、精神的な荒廃がしずかに蔓延してきたのではないでしようか? そのような社会の病理の当然の反映として、登山という場においても、「ヘリコプターや携帯電話というハードの発達」VS「安易な登山者たちの増加」という救いようのない現象を引き起こしているのだと、私は思うのです。

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『みちしるべ』「野草手紙 独房の小さな窓から」を読みませんか?**<2004.7. Vol.30>

2006年01月11日 | 川西自然教室

「野草手紙 独房の小さな窓から」を読みませんか?

川西自然教室 畚野 剛

ちょっと長いまえがき

 川西市は阪神間の典型的なベッドタウンとして、1965年代なかばごろからデベロッパーによる大規模住宅開発が進みました。今では丘の上を削って出来上がった10箇所を数える「新住民の町」があります。私も、1969年に大阪市から「移住」しましたが、今まで、この地の変りようをつぶさに見てきました。残念ながら、現状は、自然が失われた例は掃いて捨てるほど、回復した例は皆無といって間違いありません。

 このあと、「川西自然教室」発足に至る歴史が来なければならないのですが、他の資料(*注1)に譲ることにします。

(*注1)「こげらだよリ――川西の自然とともに――」第1集(1998)川西自然教室。

 市域の人口増加にともない、衛星都市の表玄関としての装いとしての商業圏も、多くの税金を投じて建設がおこなわれて来ました。川西能勢口駅前から広がる都市空間の開発は、「いまだ留るところを知らず」という状態です。ビルが次々と建てられます。そこに、こぎれいな商店(テナントというらしいのです)がはいります。

 私などあまり関係ない多くの「若者むけの」店のなかに一つだけ、「お気に入り」の店としてモザイクボックスビルの「紀伊国屋川西店」があります。このあいだ、そこにふと立ちよったとき、探している本はなかったのですが、なにかしら気になって、買ってしまったのがここに紹介する本(*注2)なのです。

(*注2)ファン・デグォン「野草手紙 独房の小さな窓から」、2004年3月、NHK出版。

まず著者の経歴から

 1955年ソウル生まれ。本のサブタイトルが示すように、でっち上げの国際スパイ事件に問われ、国家反逆罪として無期懲役を言い渡されました。1985年から監獄に13年を過ごしたのち、特赦されて、現在農業兼著述業をされている人です。

 入獄の初期は、拷問の後遺症から体がボ
ロボロ(毛はうすくなり、歯もガタガタ…)になっていました。そんな彼が心身ともに立ち直るきっかけとなったのが、監獄のせまい庭にもたくましく生きる野草たちとの「付き合い」だったのです。彼は野草たちを育て、それを食べて健康を取り戻したのでした。かれが「日本語版によせて」のなかで「刑務所は、一日でも早く脱出すべき呪われた場所ではなく自己実現の場となった」とまで、言い切っているのに先ずショックを受けました。

ちょっと議論が逸れてしまうのですが

 この本を読むと、私たちが、自然教室などで野草を食べる雰囲気などは、なにか浮かれたことをしていたようで、あいすまない気持ちにさえなります。背景に国情の違いなどもありますが、われわれの暮らしは「平和」と「自然」を守ることが前提で成り立っていることを、あらためて、かみ締めなければならないと思います。

 また、カラフルであっても、あまりにもパターン化した植物図鑑ばかりが書店にならぶ現在の日本の出版状況を常々見ている私には、一つの対極を示すような、このシンプルな野草のスケッチがちりばめられた本に出あったことに、何か救いを感じました。

この本は・・・

 著者が監獄生活のなかから妹へ書きつづった手紙をもととして、おもに野草についての部分を選んで編集されたものです。それぞれの手紙で、各章が構成され、それぞれに適切なタイトルが付けられています。

 まだ本はだいたい半分までしか、読み進んでない状態です。それで、前半に出てきたお話のなかからいくつかを拾って紹介して行くことにします。

「ジャングルの法則 カマキリの生態に関するレポート第二弾」

 彼に与えられた獄房は1坪、そこにも生き物が入ってきます。カマキリ's(複数のつもり)とクモ'sをとらえて、ゴミ箱にいれ、ガラスで蓋をしての観察です。まず小さいカマキリが自分の頭より三、四倍はあろうかというクモをとらえて食べる場面からはじまり、さらに彼が大きなメスの背中に飛び乗って振舞う「誘惑のダンス」へと展開します。このちびグモは交尾に失敗しますが、そのあと一人前のオスが登場し、「挿入」の場面が描写されます。そうしてそれが朝10時から夜8時まで続いたので見ていた著者はくたびれてしまったと述べています。

 私の頭には「究極の覗き見」、「じっくり(自然)観察の極意」というような言葉が浮かびました。

「地ナンキン虫草【コニシキソウ】 白い血をポタポタ垂らして泣き叫ぶ」

 彼は、「コケ以外では、これまで観察した草のなかで、いちばん大地にくっついて生長してゆく草だ。どれほど密着しているかというと、足でぎゅうぎゅう踏みつけても打撃を受けないほどだ」と書き出します。

 そのあと地面に適応した全草の姿を的確な言葉でスケッチし、更に不思議な形の花の物語とその花の拡大図を添えた一枚のスケッチ画と続きます。章の終わりは「政府は一日も早く国レベルで、を設立すべきだ」と書きます。それは、利潤追求のため会社の研究所とはちがって、国民の福祉の増進と生態系の保全を目的とするものだ。こういうことに投資をせずに、どこに投資しようというのかという趣旨のことばで結ばれています。

 このような「予算配分の不適切」は日本でも多くを指摘できるでしょう。

すみません、またまた、余談で終わりそう……

 すこし視点がずれますが、最近博物館の状況がなんとなく変に思います。博物館の仕事としての「生涯教育」や「学習支援」強化の動きがあらわです。

 いままでも、博物館の学芸員さんたちは「研究」と「社会教育」などの活動についての時間配分のバランスをとるために努力してこられたと思います。しかし昨今の情勢では「社会教育」のほうに大きくかたむいてしまう危険が感じられるのです。

 その結果、たとえば基礎的な研究活動であるべき自然の調査へ予算や時間が回らなくなりはしませんか?

 「フィールド」を畑に喩えれば、「研究」は肥やしです。肥やしが欠乏した状態では、「社会教育」とか「展示」という収穫も望めなくなって行くでしょう。

 もちろん、研究成果も少なくなる。ということは、唯でさえ貧弱な「生態系」についてのデータの蓄積速度が低下し、日本の生態系を守る為の基礎が崩れてしまうと思います。

 事務系の役人さんたちの理解不足lこよって、博物館の危機が進行するのではないかと、私は心配しているのです。

 最近、関連する話を神奈川県立生命の星・地球博物館館長の青木淳一先生が書かれています。「生命誌」41号(2004夏号)

(了)

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『みちしるべ』北国街道と佐渡への十字路出雲崎**<2004.5. Vol.29>

2006年01月11日 | 川西自然教室

北国街道と佐渡への十字路出雲崎
――良寛と芭蕉の跡をたずねて――

川西自然教室 井上道博

 3月29日、山形県川西町をたずねたあと、米坂線羽前小松駅より雪の小国町を越えると、越後路は春の日差しがいっぱいだった。新潟からの高速バスを北長岡で降り、今夜の宿の若主人の迎えの車で着いた町は、江戸時代に栄えた良寛誕生の地、また芭蕉が奥の細道で「荒海や……」と詠んだ町、出雲崎だ。町は海に沿って細長く北から南へゆっくり歩くと30分かかる。ところどころに「出雲崎よもやま話」が町屋の軒先に掲げてある。高台の良寛剃髪の寺、光照寺に上がると、出雲崎の港、遠く佐渡が霞んで見える。

 芭蕉は、元禄2年(1689)7月4日午後4時前、出雲崎に着き、大崎屋に泊まった。大崎屋の裏はそのころすぐ海で、「荒海や佐渡に横たふ天河」と吟じ、後に名文「銀河の序」を発表している。

 「えちごの駅 出雲崎いふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや 谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまた初秋の薄霧立もあへず 波の音さかすにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ 見わたさるけにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に至りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷(すさま)しき心地せらるゝに 宵の月入かゝる此うみのおもてほのくらく山のかたち雲透にみへて波の音いとゝかなしく聞え侍るに   芭蕉」

 芭蕉園にある「北国街道人物往来史」をたどると、伊能忠敬や木食上人も歩き、古今の旅人の行き交いがしのばれます。

  • 天智7年(668年)燃える土、燃える水を天皇に献上。(出雲崎は日本の石油産業発祥の地)
  • 文永8年(1271年)日蓮上人、佐渡へ配流。当町久田にて休憩。
  • 正中2年(1325年)日野資朝、佐渡へ配流。当町橘屋(良寛の生家)にて船待ちす。
  • 永禄8年(1565年)上杉謙信、佐渡へ出馬。多聞寺を旅館とする。
  • 慶長9年(1604年)佐渡初代奉行、大久保石見守長安、佐渡へ渡る。
  • 元禄年間 中山(堀部)安兵衛、養泉寺門前に仮寓す。
  • 宝暦8年(1758年)良寛、大名主橘屋の長男として生まれる。幼名栄蔵。
  • 安永8年(1779年)良寛、22歳で備中玉島の円通寺に赴く。
  • 享和2年(1802年)伊能忠敬、海岸を測量に来る。
  • 享和4年(1804年)木食五行上人、来杖す。
  • 文政1年(1818年)十返舎一九、来る。

 まさに、此の地は北国街道と佐渡への十字路だったと言えます。夕暮れに、良寛の 生家橘屋に建てられた良寛堂より海を眺めると、佐渡が蜃気楼のように見えます。

「たらちねのはゝがかたみとあさゆふにさどのしまへをうちみつるかも」

 夜は町の端にある江戸時代からの旅館「くるまや」で、安田靫彦の描いた良寛和尚像に向かい合って海の幸を頂きました。この旅館では、良寛の弟由之の書や高浜虚子や河東碧悟桐のサインのある三角堂などを見せて頂きました。30日は、良寛の道を歩いて丘の上にある良寛記念館へ向かう。道端にはキクザキイチゲ、カタクリ、ショウジョウバカマ、ミスミソウが日差しをあぴている。門前の歌碑には

「君看雙眼色 不語似無憂 君看よ 双眼の色 語らざるは憂いなきに似たり」

 記念館の中には、自書の般若心経や円通寺修行時の書などの他に、会津八一の書もあります。またたくさんの良寛に関する本が収められています。ここから又若主人に良寛が晩年に身を寄せた和島村の木村屋の吾提寺隆泉寺へ送ってもらい、良寛と弟由介之墓へ参りました。天保2年(1831年)正月6日、良寛は貞心尼や由介に看取られて74歳で息をひきとったということです。

辞世の句は「散る桜 残る桜 散る桜」

 寺泊の密蔵院をたずねた後、タクシーで国上山の五合庵へ向かう。この地で59歳まで20年近く過ごした所です。6畳一間くらいの板敷きの庵で、越後の山中は寒かった事でしょう。

「堂久保登磐 閑勢閑毛天久留 於知者可難 たくほどは かぜがもてくるおちばかな」

 すぐ上の千眼堂吊り橋を渡り、朝日山展望台からふもとを眺めると、雪の八海山や洪水に悩まされた信濃川の水を日本海ヘ流した大河津分水路が一望です。下がった所に一時住んだ乙子神社があります。崖はキクザキイチゲが花盛りでした。ここから分水町の良寛記念館へはバスも無く、1時間半も風雨の中を歩くことになってしまいました。資料館には三森九木の良寛てまり図や遺愛のてまりが展示されていました。

 良寛の旅はこれでおしまい。本降りの中、分水駅より越後線で吉日で乗り換え、弥彦線で燕三条へ夜11時前の夜行バスおけさ号で大阪へ帰って来ました。

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『みちしるべ』言霊の幸はふ国の末裔たち**<2004.1. Vol.27>

2006年01月10日 | 川西自然教室

言霊の幸はふ国の末裔たち

川西自然教室 畚野 剛

 2003年の歳末も近くなりました。その日暮らしでなんとなく時を過ごしてきた私も、一応、今年は何をしたか反省しなければと思いました。日記は付けていないので、カレンダー式の予定表を点検しました。そのなかで一番目に付いたのは、「流域委」の文字でした。これは、国士交通省近畿地方整備局から委嘱された「淀川水系流域委員会、その下部組織の猪名川部会、治水部会など関係会議」の出席日です。その回数が27回もあったのです。

 なぜ私なんかが国のお役所の一委員に推薦されたのか? すこし遡ります。そもそもの根源は、1997年に河川法が改正され、「住民意見の反映」が明記されたためと、私は理解しています。ところが、私の名札には「地域の特性に詳しい委員」の文字が躍っています。「住民委員」とは言わないのです。あくまで専問分野名を用いるというのが、委員会の設立に関られた「準備員会」の学者さん方のお考えであったようです。このように、一見見過ごしてしまうような言葉の端々にもいろいろな意味が込められていて、かなり慎重に選ばれて用いられているものだと感じました。その結果、専問家のかたと肩を並べて頑張らなければならなくなりました。

 さて、この委員会は全体として2年9ヶ月を費やし、約300回の会合を重ね、2003年12月9日にようやく「意見書」が提出されました。これを尊重しながら、流域の今後20~30年の「整備計画」が近畿整備局により策定されることになるのです。しかし、一般に最も関心が持たれる「ダム」の問題については、お役所側が「利水関係の精査検討がまだ2年ほどかかる」としているため、結論は霧の中にあります。したがって、現メンバーも、任期一杯の.. 2005年2月1日までは、まだいろいろと論議に付き合ってくださいということになってしまいました。

 流域委員会での膨大なやりとりは議事録やニュースなどで公開されていますが、委員の私でも全貌は到底把握し切れていない状態です。ここでは、会議のやりとりのなかで、いろいろな「言葉の端くれ」がどのような意味合いの陰影を持っていたのか、振り返りながら、いくつかの場面を例示して紹介することといたしましょう。

〔第1回合同懇談会 2001年2月1日〕

畚野委員:私の立場としては、地域住民と行政が対峙するのではなく、行政が地域住民の声を本当によく受け止め、聴いて頂ける態勢をとって頂くという、住民運動の新しい流れがこれから大事であるという観点から、部会でいろいろ申し上げたいと思います。

 これが私の第一声。早くも名札の呪縛から飛び出したがっていたようです。道路ネットワークの皆様からのご意見を、またお会いした時にでも、お聞かせくださればと思っています。

〔第3回治水部会 2003年4月10日〕

畚野委員:銀橋狭窄部上流の多田盆地の(浸水)対策につきまして表面上は一庫ダムということしか上がっていません。(中略)しかし、論理的な選択肢というのはかなりたくさんあるはずなのです(以下路)。

近畿地方整備局河川管理官:全くおっしゃる通りで、これはそういう意味では一例を挙げているということに過ぎないかと思います。説明不足であります。

 これでも、河川管理官とのやりとりが何とか成り立った例です。多田盆地の浸水対策について、可能な限り多くの選択肢を挙げての更なる検討が望ましいと指摘したのですが、やや逃げられたかたちでした。

〔第4回治水部会 2003年4月14日〕

畚野委員:(要約)河道対策とダムだけで本当によいのだろうか? 流域の保水ないし貯留機能について現状維持(守り)でいくのか? さらに強化(攻め)の姿勢が必要ではないか? 土地利用誘導も含めて流量配分を、何とか少しでも流域対策ヘゆり戻せないかかんがえて頂きたい。例えば、危険地域の民間の住宅を建てかえる場合の耐水化方策にある程度の補助金対策くらいやらないとなかなか進まない。自治体との調整もやはり努力していただきたい。

近畿地方整備局河川管理官:(要約)土地利用誘導等について、20~30年の時間の枠の中で現実に出来ること、あるいはこの先、自治体に働きかけるなり何なりという、熱度の違いといいますかそういうものは当然あるかと思います。今までのことを何も変えないということの話でもないわけでありますけど、今すぐこういう土地利用誘導ができるかという話でもないということも踏まえて、治水計画を今考えているというところです。

 何か、述語の長い連なりで、真意が分かりにくい答えです。「どれくらい努力してくれるの?」と言いたい所です。

〔第24回委員会 2003年9月5日〕

吉田委員:(要約)整備局の前回の文案では「住民団体や関係機関等」の言葉が使われていた部分が、今回の改定案では「淀川流域委員会、住民、自治体等からの意見を聞き」とまとめられているが、例えば自然保護団体はどこに入るのか。

近畿地方整備局河川調査官:「住民」か「等」か、どちらかに入ります。

吉岡委員:「等」というのはちょっと。

河川調査官:(要約)河川法の解説の「学識経験者」に対応するのが基本的には淀川水系委員会、「公聴会の開催等による住民意見の反映」というのが住民の方で、「地方公共団体の長」のところが自治体という並びで書いているのです。

 日本の代表的な自然保護団体役員の吉田さんでさえ、はじめは「等」に拠り込まれ、さらには法律論の中に封じ込められてしまったようです。

[河川敷の保全、堤防天端・河川敷の利用についての円卓会議 2003年12月7日]

澤山輝彦氏意見書:与謝蕪村の『春風馬堤曲』における川堤の描写は今回のテーマを考えるについてはよい参考になるのではないかと思います。

 「公聴会」にあたるのが円卓会議として具体化されました。澤山さんが意見を出してくださいました。彼の声ははたして正しく届いたでしようか? 以上、「言霊の幸はふ国の末裔たち」の「言葉」の競演でした。

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『みちしるべ』昭和の旅の巨人 宮本常一 **<2003.7. Vol.24>

2006年01月09日 | 川西自然教室

昭和の旅の巨人 宮本常一

川西自然教室 井上道博

 “私は伊予の小松から寺川という所へこえました。(中略)この道がまた大変な道で、あるかなきかの細道を急崖をのぼったり、橋のない川を渡ったりして木深い谷を奥へ奥へと行きました。その原始林の中で私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を、肩から腋に風呂敷包みを欅にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。全くハッとしました。細い道です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。すると相手は、これから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分からないと答えました。そのうち少し気持ちも落ち着いて来たので「婆さんはどこから来た」ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。「こういう業病で人の歩くまともな道は歩けず、人里も通ることが出来ないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ」と聞き取りにくいカスレ声で申します。老婆の自分のような業病の者が四国には多く、そういう者のみ通る山道があるとのことです。私は胸の痛む思いがしました。”

「忘れられた日本人」土佐寺川夜話(岩波文庫)より

 1960年に出版された「忘れられた日本人」に書かれた土佐の山奥の村へ今も尋ね歩く若者がいるといいます。

 古くは歌人西行、江戸時代の芭蕉、菅江真澄、木食明満、伊能忠敬と旅の系譜に欠くことの出来ない人に、昭和の旅の巨人宮本一(1907~1981)がいます。戦前から戦後にかけてズック靴に薄汚れたリュックにコウモリ傘をさげて、辺境の地に生きる日本人の生きざまを記録した宮本常一の歩いた距離は73年の生涯に延べ4千日、地球を4周する16万Kmにのぼり民家千軒以上に泊めてもらい話を聞いたといわれています。昭和15年には1月から3月に、屋久島、種子島、大限半島から椎葉村。4月には伊豆西海岸から山梨へ。5月から7月はトカラ列島から奄美、鬼界ケ島。11月には新潟から北上青森から岩手、福島。昭和10年2月に愛媛、高知、徳島。4月に淡路島。7月に津軽。8月に美濃がら近江。9月に伊予がら大三島、因島。10月越前。12月に土佐と伊予を歩いています。

 また宮本の生涯に深くかかわつた渋沢敬三という人物を抜きに語ることは出来ません。渋沢敬三は、第一勧銀、東京火災、石川島播磨、東洋紡、新日鉄、キリンピールなどを設立し、「日本資本主義の父」とよばれる渋沢栄一の孫で日銀総裁や大蔵大臣も務めた人ですが、自宅にアチックミュージアムをつくりずっと民俗学、民族学のため援助をし続け、その遺志は今の国立民族学博物館に引き継がれています。

 宮本は晩年昭和52年には、山口県光市の周防猿回しの復活に力をかすなど、社会の底辺に生きる人、虐げられた者への愛情をもち続け、昭和56年1月30日、73歳の生涯を閉じました。

 “夏の晴れた暑い日の稲を見ると、ゴクリゴクリと田の水を飲んで、稲の葉が天をさしてのびていくのが分かるような気がするという。秋になって田に入れた水を落としてやると、その水がサラサラとさも自分たちの役目を果たしたようにさっぱりして流れていくのがわかるという。「はあ、みんなの声がきこえるような気がしますね」”

「忘れられた日本人」文字をもつ伝承(二 )
参照 佐野真一「旅する巨人」文藝春秋 

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『みちしるべ』江戸時代後期に活躍した大阪の天文学者たち**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 川西自然教室

江戸時代後期に活躍した大阪の天文学者たち

川西自然教室 畚野 剛

はじめに  昭和20年(1945)日本は無謀な戦いに敗れました。当時13歳であった私は大阪西成区居住で、今宮中学(旧制)2年在籍。ひもじかった記憶が第一でしたが、その一方、祖国復興を目指し、学業にいそしんで胸膨らませる青春前期にさしかかっていました。学校のクラブでは天文部に所属。その活動はそう活発ではなかったが、徹夜で皆既月食の観測をし、赤銅色の月を見たことが一番の思い出になっています。屋上に望遠鏡を備えていて、昼休みに近くの釜崎から阿部野橋にかけての上り坂にあった闇市場を覗くのも一つの楽しみでした。そのころ夢見ていた天文学者にはなれなかったが、それ以後いままで、細々と読み溜めた天文関係の本が少々書棚の一隅を占めています。今回は、そのなかの江戸期の天文学史から拾い読みをして紹介することにしました。

大阪発天丈学の浅田学派が活躍  正しい暦を作ることは国を治めるものの義務であり、一方それは権力の象徴でもありました。そのため江戸時代には、暦つくりに関しては、幕府の暦局が作成し朝廷の許可を受ける慣わしでした。当時、暦つくりの基礎となる天文学は中国から輸入され、日本側の学者により京都の緯度経度を勘案して修正された暦が用いられていました。それは、いまだ「天動説」に基づいていましたから、精度が低かったのです。たとえば、天明6年(1786)1月1日の日食の予測が暦では皆既日食であったのが、実際には皆既金環日食になってしまったりして、幕府の権威を傷つける結果となってしまったのです。

 このように幕府の御用学者が無能であった半面、民間には多くの優秀な人材が居ました。豊後杵築藩出身(注1)で大坂に先事館という塾を構えていた麻田剛立(ごうりゅう)1739~99。と土佐の片岡直次郎(注2)1747~81は先述の日食を8年も前に予報し、「食分は九部九厘八九毛となるか或いは皆既食になる」と同学の人への手紙に書いていました。

 彼らがこのように精度の高い予測をできたのは、一に、当時西洋で勃興しつつあった地動説の動きを取り入れながら自説を組み立てて行つたこと、二に、実地を重んじ、進んだ観測機器を自作する力を持っていたこと、三に、先事館卒業者たちが各地に帰って「天文観測ネットワーク」が出来ていたこと、四に、大坂商人の財力がバックにあったことなどがあげられるでしょう。

(注1)多くの紹介書では麻田剛立は天文学やりたさに藩医の職をすて脱藩したと書かれていましたが、最近の研究で藩主了解の上での大坂移住でした。〔末中「麻田剛立」大分県教委(2000)]

(注2)片岡直次郎の話は岡村啓一郎「土佐の暦学者たち」土佐出版社(1988)に詳しいです。

以上のような状況から、幕府は改暦の担い手として麻田剛立に白羽の矢をたてたのですが、剛立は老齢を理由として、自分の代わりに弟子のなかで最も信頼していた高橋至時(よしとき)1764~1804と間重富1756~1816を推薦しました。かれらの本職は、高橋は大坂定番の同心、間は長堀の質商でした。このようないきさつで、高橋と間は寛政7年(1795)に江戸浅草にあった幕府の暦局に入ったのでした。

伊能忠敬 1745~1818の登場  この人の生まれは上総の小関村ですが、17歳のとき下総の佐原村へ養子入りし、その後、33年間を村の大地主としての公私の役目に励み、数学や測量術を会得していました。五十歳のとき隠居したころ、ちょうど前段のような暦の不備が起こっている状況を見聞きしていたのでした。そこで「老後も後人の参考になるようなしっかりした仕事をしたい」と思っていた彼は、残る人生の目標として「暦学」を選んだのでした。そして寛攻7年(1795)、高橋らが暦局に入った年に、伊能も江戸へ来て、高橋の弟子になったのでした。その後、高橋至時の信頼を得た伊能が日本全国の海岸線と街道測量の成果を挙げたことは世によく知られたことです。

 高橋は最初、江戸より西の測量を間に、東の測量を伊能に任せる計画でした。しかし、間の病気、観測機器の焼失で西の測量は延期。それについで高橋至時の病死により間は高橋家の後見役となり江戸に留まり、伊能に観測機器を供給しました。

 伊能が東に次ぎ西日本も測量し、全国初測量の栄誉を独占したのです。大正6年(1917)、長岡半太郎博士は「もし、剛立、至時、重富の三人がいなかったら、忠敬は巻の『逸民』でおわったかもしれない」と述べています。伊能は良き指導者たちにめぐり合い、支えられた「幸運な男」であったと言えましょう。

寛政改暦と高橋至時のその後  高橋と間が主力となって寛政9年(1797)に新暦案「暦法新書」8巻を完成しました。これが京都の土御門家へ提出され、勅許を得て、翌年、寛政暦として実施の運びとなりました。この暦は天保4年(1814)まで用いられました。高橋至時は先述の伊能の全国測量の発足を強力に支援しました。彼は「経度差1度の長さを実測して、地球の大きさを計算する」という課題の解決を伊能の測量に期待したのでした。高橋自身は日月食の計算法、惑星の運動論の研究などにしたがいましたが、享和3年(1803)にフランス人J.ラランドの「天文書」を若年寄堀田摂津守から貸与され、その翻訳、研究に寝食を忘れて没頭し、それが病弱な彼の命を縮め、翌年に亡くなってしまいました。

間重富と攝州多田  間は寛政改暦の仕事では常に高橋をバックアップする地味な立場で動いていたので、現代の一史家は「影の人」と評されています。しかし高橋至時亡き後、その子景保の「新訂万国全図」の作成にも関与しました。また蘭書翻訳業務を高橋家が担当するようになったのも、間の意見具申によるといいます。それで、「町人であった間が在野の麻田学派の天文学を官学に位置づけるべく政治的努力をした行動は注目に値する」と評価する研
究者もいます。

 間は晩年の文化11年(1814)11月16日、摂州川辺郡多田庄平野村の水晶山に単身で出かけて月入帯食の観測をしたと記録されています。「間重富とその一家」(1941年、山口書店)の著者渡辺敏夫氏は、「なぜ重富が大阪の町から正北六、七里も離れたこのような邉僻の地へ月食をわざわざ観測に出かけたのか? おそらく重富の母中野氏が多田平野村の出であるためかも……」という趣旨の推測をされています。また別の日に水晶山の高さも測っているといいます。その値がわかれば水晶山が舎羅林山のことであったかどうかも推定できるかも知れませんね。この話を読んで私には間重富が急に身近な存在になった気がいたしました。

 なお、母、中野阿富は天明2年(1782)に茶臼山邦福寺に葬られたといいますが、この地も昭和20年3月の大阪大空襲にあった地域ですから、おそらく過去帳は残っていないと思われます。

 間重富の観測記録や観測機器の多くが大阪市立博物館に収蔵されています。

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『みちしるべ』登山ブームと山道について**<2002.9. Vol.19>

2006年01月07日 | 川西自然教室

登山ブームと山道について

川西自然教室 堀切勇児

 皆さんはこれまでに「国際婦人年」とか「国際家族年」などのような国際○〇年という言葉をお聞きになったことがありますでしょうか? これは、年間を通じて世界各国が同じテーマに取り組むことを目的として、国連によって議決制定される国際年というものであります。この10年は毎年テーマが設定されています。ちなみに昨年は「国際ボランティア年」でした。今年(2002年)は、ご存知の方もおられると思いますが、国際山岳年(Year of Mountains)です。国際山岳年がどんなことを目的としてどんな活動をしているのかについては、雑誌「山と渓谷2002年9月号(8月発売)」に詳しく掲載されていますので興味のある方は一度お読みください。その中の言葉をお借りしますと、「国際山岳年は、山岳地域の開発と保全について、地球上のひとりひとりが自らの問題として考え、行動する、スタートの年」ということです。このように今年は国際山岳年ですので、それに因んで最近の登山ブームと登山道の問題について、考えてみたいと思います。

 日本では現在、百名山ブームを中心とした中高年登山者による第二次登山ブームとなっています。このブームは、旅行や交通関係産業、出版業界、一部の山小屋(困惑している山小屋もあると思いますが)にとっては収益の向上となり、それなりの経済効果をもたらしているといえるでしょう。また、多くの人が山やそこにある自然環境に対して興味を持つということは、すばらしいことだと思います。しかし一方で、多くの登山者が限られた山に集中するため、山に対してその環境が受け入れることができる以上の負荷がかかり(いわゆるオーバーユース)、登山道や動植物への悪影響が懸念されています。ただし、登山ブームによる環境負荷の問題は今回のブームから始まったわけではなく、昭和30年代の第一次登山ブームからすでに問題となっています。多数の登山者が歩くことによる道幅の拡大や山頂付近での休憩場所を確保するために裸地の拡大などです。いずれも人が植物の生えている場所に踏み込んだ結果生じたものです。特に、自然環境の厳しい高山あるいは環境の変化に敏感な高層湿原では、植物はぎりぎりの状況で生きているわけですから、人間による植物の踏みつけは即植物の死につながります。有名な事例としては、ご存知の方もあるかと思いますが、鳥取県大山山頂の裸地化、尾瀬至仏山登山道の荒廃などがあります。大山の問題では1985年に発足した大山の頂上を保護する会の「大山一木一石運動」により山頂付近の回復が徐々にではありますが進んでいます(3年前に私もこの目で見てきました。第一次登山ブームで損害を受けた部分が修復しないまま、あるいはさらに浸食を受けて深刻になっている状況で現在の第二次ブームが来ていますので、容易に登山道や山頂の崩壊が起こる危険性は大きいと思います。特に、現在の百名山ブームでは特定の山に登山者が集中し、また山に登れる時期や限られた年齢までの間にできるだけ多くの山を登ろうとする意識があるように見受けられて、急いで登る、悪天候だろうがなんとしても登るような、ゆっくりと山を楽しむような本来と違う登山スタイルが増えてきているように思います(私の思い過ごしならいいのですが)。また、登山装備でも多くの方がステッキを使用されていて、地面にボコボコと穴のあいた登山道を見るようになりました。このような状況は、登山道の環境に良い影響は与えないと思います。だからといって、せっかく多くの方が山に興味を持って登りたいと思っているのを止めろというわけではありません(私も登山者の一人ですから気持ちはよくわかります)。山(登山道)の環境に負荷のかかる登り方をしないように登山者ひとりひとりが考えて注意して登れば、たとえ多くの人が山に登ったとしても登山道の崩壊が急速に起こることはないと思います。このような登山者の意識向上の気運が国際山岳年をきっかけにさらに高まっていくことを期待しています。(以上の環境負荷の部分は、山と渓谷2001年7月号、環境への気配り登山、松本清先生筆、の内容を参考にしています。)

 以上は主に比較的高い山のことを中心に述べてきましたが、登山道の荒廃問題は身近な山でも重要なことと思います。身近な山で多少名が知られた山では、最近は整備が良くなって、勾配の急な部分では階段状の道が付けられるようになりました。私の住んでいる近くの能勢の妙見山、剣尾山、歌垣山など多くの山で階段状の登山道が見られますが、その階段を嫌って階段の横を歩く方がいるようで、階段の横に沿って道ができている部分が見受けられます。階段には雨などで道を流れる土砂をせき止めて道の荒廃を防ぐ作用もあるのですが、横に踏み跡ができるとそこを土砂が流れて道がえぐられ、最終的に階段まで崩壊してしまうことになります。どんな低い山であっても、やはりそこに登るときには登山道を守るという意識を常に持つことが重要だと思います。

 これまで述べてきましたような登山者ひとりひとりが注意する、あるいはボランティア活動で登山道を守ることだけでは当然限界もあります。やはり、環境省や地方自治体の環境担当部門が高速道路や幹線道路の保全だけではなく、山道の保全にも民と協力して積極的に取り組む姿勢が今後必要ではないでしょうか。

 冒頭で述べましたように、今年は国際山岳年です。登山道を中心とした山の環境、特に皆さんがお住まいになっている周りの山の環境に目を向けていただく年になれば幸いと思います。そして、それが山を守り、この先ずっと子や孫さらにその先の世代も山に登ることができるようにと願っています。

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