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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**災害時における公園の重要性について**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月03日 | 川西自然教室

災害時における公園の重要性について

川西自然教室 田中 廉

 3月11日は夜明けまでテレビに釘付けであった。津波のすさまじさには声も出なかった。翌日も津波の被害と原発事故で、一日中TVはつけっぱなしであった。大震災より1ケ月が過ぎようとしているのに、いまだ行方不明者が1万人以上である。亡くなった多くの人たちのご冥福と、肉親、友人を失った人々、傷ついた人たちの苦しみが癒されることを祈ります。いまだ肉親の行方が分からない人たちの心境を思うと胸がつぶれる思いである。原発事故で故郷を離れなければならなくなった人たちの悔しさと不安はいかばかりであろうか。又、災害援助に携わる多くの人たち、原発事故で危険を知りつつ被害軽減のために努力されている現場の人々に深く感謝をしたい。多くの人々がいまだ体育館、公民館、教室などで避難所生活を送っている。避難所はプライバシ-が守られにくいこと、占有面積が少ないこと、同じ空間で生活するので風邪などが蔓延しやすいことなど問題点が多くあり、一刻も早く落ち着いた人間らしい生活ができる住宅に移ることが望まれる。

 町が再建されるまでには何年もかかる。多くの人が住みなれた町の近くの仮設住宅を望んでいると聞く。しかし、早急に、多くの仮設住宅を建設するには難しいようである。問題は三つ有る。第一に仮設住宅の必要数が圧倒的に足らないこと。第二に仮設住宅を建設する場所が非常に少ないこと。第三に膨大な廃材、ごみの捨て場が少ないことである。報道を見ているとまとまった面積の場所を確保するのは非常に難しい。広い面積の私有地を利用するのには何人もの地権者から承諾を得なくてはならず、時間とコストがかかる。まとまった面積の公的な場所があれば、もっと早く仮設住宅は建設され、被災者はより快適な生活を、町の再建はよりスムーズに進むだろう。東北地方の苦境を見るにつけ、公的な公園の大切さをつくづくと思う。

 今、兵庫県では仕分け作業により西武庫公園を尼崎に譲りたいと提案したそうだ。数年間は経費の半分は県が負担するという条件付であるが、尼崎は経費がかかるからと断ったという。これで県が譲渡を諦めて公園が存続すれば言うことは無いが、一番心配なのは民間に売却されることである。私有地になれば、特に建物が建てばこの場所を県、又は市が災害時に自由に使用することはできない。私は公園は市民の憩いの場であるだけでなく、災害時の避難場所、仮設住宅用地として、県民に貢献する非常に大切な場所だと思うので県が管理することを強く願う。面積7.2haはいざという時に非常に多くの仮設住宅が建設できる、不幸にして災害にあったとしても、かなり多くの人が仮設住宅に住むことができる。住んだ人の通勤に便利な場所にこれほど広い面積を持つ公園は、他の都市では中々見つからない私たちの大切な宝だと思う。維持経費が問題になるのであれば、管理棟は閉鎖し、緊急時の仮設住宅部材や、救命道具類の保管場所とするのはどうだろうか? 今回のような災害時に少しでも役に立つであろう。その場合、部屋は締め切っておくと、収納物が傷むので窓は蛇腹にして風通しを良くするなどの工夫が必要であろう。 また、樹木も面積が7.2Haと広い公園であれば多くの木はそのまま自然の樹形で育てればよく、芝生は管理が大変なので草地にして年数回の草刈だけで済ませる。極力管理に人手をかけないようにして人件費を減らすなどのスリム化を測りなんとしても公園を維持して欲しい。被災地の人々の苦労を思いながら、以上のようなことを考えた。

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『みちしるべ』**川西自然教室NO2測定再開**<2010.11. Vol.66>

2010年11月02日 | 川西自然教室

川西自然教室NO2測定再開

田中 廉

 川西自然教室で7月よりNO2測定の担当となりました。初めてのことで、良く分らないことだらけですが宜しくお願いいたします。前任者の中本さんの時は大体45地点で測定されていましたが、新体制ではマンパワ-の関係もあり、調査地点を絞り以下の目的で調査することになりました。

  1. 新名神高速道路(建設再開)の影響を調べる
  2. 今まで調査していた場所で引き続き調査し、大気汚染の年次変動を観察する
  3. 随時、マンションの上と下、上り坂と下り坂、幹線道路からの距離と汚染の違いなど、素朴な疑問に答える調査を行う
  4. 少しおこがましいですが、行政へのアピ-ルというかプレッシャ-
  5. 環境問題に関心を持ってもらうための啓蒙活動
  6. 測定方法の改善

上記の項目について少し補足説明をします。

  1. 川西市北部では新名神高速道路の工事が再開されました。政権交代により、また緊迫する国の財政事情より工事はこのまま中止になるのではとの希望的観測もありましたが、工事は再開されました。幹線道路が周囲に与える影響を調査したいと思います。NO2値は、天候、時期ほかにより大きな影響を受けるので、できるだけ沢山のデ-タ-を積み重ね、新名神高速道路完成後のデータ-と比較したいと思います。問題は観測地点が少ないことで、常時協力者を募っています。
  2. 今まで自然教室が取り組んできた豊富なデ-タ-がありますので、経年変化を見るにはこれは重要なデ-タ-だと思います。
  3. すでに各地で調査され答えが出ているとおもいますが、自分たちで色々な疑問について調査したいと考えています。たとえば、マンションの1階と10階では普通は上位階の方が空気は綺麗と思われがちですが本当なのか? マンションの立地条件により異なることも考えられるのでいくつかのマンションで調査を行っています。これも複数回実施し、傾向を見たいと考えています。
  4. 財源不足の名の下に公的な大気測定室に係る予算も削られ、行政の環境問題、大気汚染への取り組みが後退しています。民間で測定を続けることにより、其れだけ一般市民の関心が高いのだとアピ-ルを行い、行政の環境への取り組みを後押しできればと考えています。
  5. 自分の住んでいる場所の大気汚染の目安が得られることにより、環境汚染に対する関心が高まることを期待しています。その意味で、できるだけ多くの人に、短期であっても参加してもらえばと思います。毎月測定を行うのは結構、面倒で、特定の日にNO2測定キットを吊るし24時間後に回収するなどプレッシャ-もあります。これからはもっと気楽に、自分の住んでいる場所の大気汚染を一度調べたいという人の参加を図りたいと思います。
  6. 初めてで経験不足なので、キットを配布してから吊るすまでの時間、また、回収してから吸光計で測定するまでの時間(日数)はどの程度までが許容範囲かなど、自分で確かめたいと考えています。

以上、色々な抱負を語りましたが、いかんせんマンパワ-不足なので、上記を理想として無理のない範囲で、細く長く続けてゆきたいと思います。

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『みちしるべ』まったなしの気候変動**<2008.9. Vol.54>

2008年09月04日 | 川西自然教室

まったなしの気候変動

川西自然教室 井上千栄子

 京都議定書での日本のC02削減業務は、1990年比6%減が2008年時点で逆に6.4%増加しています。

 今や、地球温暖化は気候変動と共に、私達の暮らしを大幅に変えつつあります。世界に目を向けると大型ハリケーンが続出していますし、日本でも名古屋、豊橋の大洪水、各地にゲリラ豪雨、スコールで人命を奪われる被害が出てひます。

 この夏の異常な暑さに悲鴫を上げた人は多かったと思いますが、これが毎年繰り返されれば、加速度的に間違いなく生態系は崩れ、食料の危機に発展し、感染症などの病気が蔓延する危険すらあります。北極の白クマも絶滅の危機が叫ばれています。

 C02の6%削減を確実に達成するために、①国内排出量取引 ②環境税 ③自然エネルギー(風力、太陽光、地熱、水力、バイオマス等)の加速度的導入と、併せて電力の買い取り保証制度等、抜本的強化が必要です。

 私達の身近な暮らしの中でも、三種の家電製品、テレビ、クーラー、冷蔵庫は省工ネタイプにするだけで、二年未満で元がとれるし、C02削減なので買い替える方がよいとの話も聞きました。

 車の利用はできるだけ公共交通を利用するようにする、地産地消でゴミの発生を抑制する・・・・これはすぐに実行できますよ。

 最後に、平和憲法9条を守る立場からしても、今や戦争をやっている場合ではありません。戦争などやめて人間の生存をおびやかす、地球環境問題に皆が一丸になって取り組み、選暖化をストップさせないと私達の未来はないのです。

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『みちしるべ』北極の化石探し《北欧旅行記 その2》**<2008.3. Vol.51>

2008年03月04日 | 川西自然教室

北極の化石探し 北欧旅行記 その2

川西自然教室 森 雄三

 しばらく行くと下へ降りて河原のウォーキングとなるが、大石小石がゴロゴロしていて柔らかい靴底の足首に負担がかかる。といってゴム長でなければ、浅瀬を渡るのにひどい事になるのだが。先を行く一行が立ち止まって私達を待ってくれていた――「大文夫か?」口々に聞いてくれる様子。「日本人はコンパスが短くて、一生懸命歩くのだが追い付けなくて済みません」とスースーハーハー喘ぎながら皆に感謝する――だがすぐ出発してしまうので、彼等には小休止になっても私達には休みにならない。その内に流れが深くなり、これを避けるために再び丘陵を越えねばならなかったりする。やっとの思いで到着した目的地は2本の氷河跡が合流する地点に出来た広い河原で大小の礫が堆積していた。

 ノルウェー人ガイドのブッツアさんは見上げるような大男、髯ぼうぼうの顔だが優しそうな碧い目でこの辺りが化石の宝庫?だと言う。それも良いけれどとりあえずは腹ごしらえである。北欧のホテルはどこもいわゆるバイキング式なので、今朝の食事の際にちゃっかりランチ分を確保しておいた。手作りのハンバーガーもどきを頬張りながら、岩石ばかりで草木の一本も無い荒涼たる自然を眺めていると、ここが我が地球のトップでそこに現に自分が居るのだ、との感慨が湧き上がってくる。谷底から屹立する、幾つもの千メートル級のピークは、山肌に万年雪を抱き清冽な空気の中にくっきりと稜線を描く。氷河そのものを見る事は出来ないまでも、目前の渓谷の奥深く進めばそれがあると想像するのも心躍る思いであった。

 さて肝心の化石探し。私達は観光気分であまり真剣ではないが、他の人達は遠くからわざわざこのツアーに参加する位だから知識も経験も豊富で、リュックサックから取り出した用意の鉱山用ハンマーを振り回しながら早くも何か面白いものを見つけた様子。つられてこちらも目をこらして探すうちにコツが分かってきた。石の風化した面より新しい破断面が良いようで、石の大小はあまり関係ない。巨大なアスナロの葉に似た植物化石が見付かったので、ノルウェー人のスタフスネスさんに聞くと、
「ΨηνρφψδЖЭЮ……About sixty million years ago」
約六千万年前のものだと教えてくれた。ケヤキかクヌギの先祖のような葉が2枚、レリーフされたように明瞭な植物化石が見付かったが一抱えもある大きな岩でとても持ち帰るのは不可能、写真に撮っておくだけにした。

 帰りは気分的にいくらか楽で、皆で記念写真を撮ったりトナカイの糞を観察したりしながら、それでも私達には強行軍で先頭から30分も遅れてブッツアさんのベースキャンプにたどりついた。キャンプといっても山小屋風建物で、半分が装備類を収納する倉庫、残りは土間から1段上った木の床面の居住区となっている。一行は暖房の効いたその居間に上がり込んでお茶をご馳走になった。先に述べたように、スピッツベルゲンでは家に入る時に靴を脱ぐ習慣だから「上がり込む」という言葉がぴったりである。日本人は、脱いだり履いたりはお手のもの。自慢ではないがこればかりは他の誰よりも早かったのである。

 戻ったホテルのバスルームで、石鹸入れのケースにノルウェー語、ドイツ語、英語の3カ国語で記されたアピール

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

お客様方ヘ

ノルウェー中のホテルで、その必要もないのに何トンものタオルが洗濯されているのを想像して下さい。膨大な量の洗剤が我々の環境を汚染していることが分かる
でしよう。

決めて下さい。

浴槽・シャワー室内に置いたタオルは
「交換する」
タオル掛けのタオルは
「再使用する」

の意思表示であると。
我々の環境のためのお願いです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 極北の地スバールバル諸島の自然については、例えば或る文献では、
[異常なまでに破壊され易い、換言すれば自己修復能力の殆ど無い自然である]
と表現されている。実際この地において、何百年か前の狩猟者が動物を大量虐殺した跡が今もそのまま残されているという。もしかすると、私が水苔の上に踏みつけた足跡は何世紀にも渉って消えないのかも知れない。それを思うと、終わって見れば思い出深く、そしてチョッピリ厳粛な気分になった旅であった。

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『みちしるべ』北極の化石探し《北欧旅行記 その1》**<2008.1. Vol.50>

2008年01月09日 | 川西自然教室

北極の化石探し 北欧旅行記その1

川西自然教室 森 雄三

 「地球の天辺(トップ)」という言葉から、人は何を想像するであろうか。平凡だが、私は北極のことを思う。北へ北へと進んで北極に到達したら、目印はなくても「天辺」の実感が湧くのだろうか。地球儀を手にとって見る。回転軸が貫通している所が北極で、軸を支える金具に半ば隠れてスバールバル諸島(ノルウェー領)がある。ここはすでに北極と呼んでもおかしくない場所なのだ。ひっくり返して南極側を見ると、意外なことにかの昭和基地は金具から外れている。スバールバル諸島、中でも最大の島スピッツベルゲンは、昭和基地よりもまだ1000キロメートルも極点に近い、文字通り「地球の天辺」という場所なのである。これは、その地球の天辺での化石探し体験談。

 最初に、そんな妙な経験をする事になったいきさつから話したい。会社を辞めて時間が自由になったので夫婦で念願の海外旅行、約4週間の北欧めぐりを計画した。日本からの往復は勿論、現地で移動するにもSASスカンジナビア航空が便利である。で、大阪にあるSASの支店まで出向いて旅行代理店用の資料――スカンジナビアン・パスの利用規制の詳細――を手に入れた。このパスを使うと北欧諸国内の空港はどこでもワンフライト約70米ドルで飛べる特典があり、うまくスケジュールに組み込むと非常に安くつく。例外があってノルウェーのオスロからアルタとキルケネス、それにLongyearbyenへの便に限り130米ドルである。前二者はいずれもオスロからかなり遠い都市なので値段が高いのは分かるがはて、Longyearbyenとは一体どこにあるのか?第一、何と発音するのか?ロングヤーバイン?はた、と気付いてスカンジナビア航空の時刻表のルートマップを見るとノルウェー本土から海を越えはるか北へ離れた島の空港である。ああそうかこれは有名な石炭産地スピッツベルゲン島なのだと理解した。その時の気持ちを一言で言えば「これはチャンス、今なら行けるがこの機会を逃したら二度と無理、たとえ炭鉱しか無くて他に何もなくても、氷と雪しか無くてただ眺めているだけでも良いから」と。人が常時居住する、おそらくは世界最北のこの町をロングヤービンと勝手に呼ぶ事にした。正確ではないかも知れないが現地ではチャンと通じたのであまり間違っていないと思う。

 北極点まで僅か1300キロメートルの極地にもかかわらず、メキシコ湾流の間接的な影響か、夏期には摂氏20度を記録した事もあると言う。地図上はノルウェー領だが、歴史的には1920年のスバールバル条約により、各国が経済目的又は研究目的のために諸島を利用できると言う条件で、ノルウェーの主権行使が認められた。主な産業は石炭鉱山で、その中心地ロングヤービンは同時に諸島の首都でもあり、近年はその地理的・気候的条件を生かして観光客も受け入れている。

 スピッツベルゲン島に関する観光資料は国内には極めて乏しく、北欧専門と称する旅行社に依頼して入手した資料はコピーしたものしかなかった。しかも現地発のツアーたるや「北極圏の大橇トレッキング12日間」とか、「北極熊の生息域探検8日間」とか、本格的探検風で日程的にも肉体的にも普通の人間にはとても付き合いきれないアクティビティーばかり。結局、ロングヤービン滞在中の丸2日間は何もしないでただ極北の雰囲気さえ味わえればそれで良し、ということにした。

 忘年7月6日、ノルウェー北部の町トロムソからバレンツ海を飛び越えて1時間35分、ロングヤービン空港着。風が冷たい。一切の装飾を排したと言えば聞こえは良いが、何となくうらぶれた感じの倉庫風の建物が空港ビルである。満席のDC9から降り立った乗客はあっという間に散って、バス停も無いし、様子の分からない私達夫婦は取り残されてしまった。案内所で聞くと、タクシーは出払っていて1時間から1時間半待たねばならぬという。町まで数キロメートルあるらしいがさてどしたものかと戸惑ってしまう。表に、団体客用?の小型バスが止っているので、駄目元と聞いてみる。「フンケンホテル、OK?」……運賃30クローナを払えば連れていってくれるらしいので、やれ助かった。バスは、フィヨルドを見ながら海岸沿いに走る。暗い色の海水一面に浮かぶパックアイス、彼方にそそり立つ万年雪を頂いた山々。樹木どころか草の緑さえ僅かな荒々しい地形。やがて町に入り建造中の家屋の横を通り過ぎる。基礎打ちは無く、地面に直接材木を組んでその上に床板を張っている全て木造である。永久凍土地帯では夏期、地面が持ち上がるので建物全体を浮かす構造にするのだという。

 今回の旅行で最も宿泊予約の難しかったのがスピッツベルゲンで、フンケンホテルは旅行社が根気よくキャンセル待ちをして取って〈れた。ここも内外装全木造、温かみの感じられるシックな肌合いの宿で、中へ入るとホッとする。西欧では珍しい事に、スピッツベルゲンでは屋内には履物を脱いで上がる習慣である。それは兎も角、チェックインする。宿泊客が入り口の辺りに脱ぎ散らかした靴やらブーツやらが見苦しい。日本旅館のように上がり框がはっきりせず、屋外の玄関口から廊下まで一続きの床面なのでそうなってしまう。

 部屋で一服してからロビーに降り、パンフレットを漁ると意外な事に日帰りツアーがいくつもある。明日の日曜日のプログラムは「浮氷のフィヨルド船旅」「ロングヤー氷河遡及とトレッキング」「ロングヤー高原トレッキング」「フィヨルド海のカヌー漕ぎ」「ボルターダーレン渓谷の化石探し」……が、船旅は人気が高くすでに満員、他のツアーは登山装備が必要、などとても無理で最後の「化石探し」ならただ歩くだけで身体も楽らしい、と参加する事にした。ところがこれがとんでもないハードなピクニックだったとはこの時は知る由もなかったのである。

 パンフレッHこよると、朝10時に集合し渓谷の底をたどって氷河末端の氷堆石堆積地まで行き、五~六千万年前の化石を探すもので、途中の行程12キロメートルの間は全く道が無く所要時間は約8時間となっている。雪解けの流れを渡渉するのでゴム長が必要であるが、これは貸してもらえるのでOK、がしかし英文によく分からない個所があるので尋ねてみる事にした。「Pack-dock」とは?ホテルのフロントが一生懸命説明してくれたが、英会話能力が限りなくゼロに近い者にとって何度聞き返してもはかが行かない。どうやら荷物運びのエスキモー犬を連れて行くらしかった。

 当日、日本で言うなら冬装束に身を固めノルウェー人用のブカブカの長靴を履いて、渓谷の入り口に建つガイドのベースキャンプを出発。一行はガイドの他ノルウェー人が4人、イタリー人2人、スウェーデン人1人、そして日本人の私達夫婦2人の合計10人のパーティーとなった。エスキモー犬はというと、先になり後になりして大喜びで皆にまとわりつくだけの事で、ガイドの説明では、どうやら北極熊が近付いてくる場合などのための危険予知の役割を果たすらしい。

 最初の間は、高台にあるベースキャンプから谷に並行するコースをとる穏かな丘陵越えで、谷底の河原へ向かって少しずつ下ってゆく。足下は、道路工事の砕石のような一面の砂礫で、やがて片側から山が追ってくると突然、敷き詰めたように一面に水苔が生えている地帯に差しかかり、それが何百メートルも続く。山麓から湧出する大量の雪解水が地面を伝わって河原に流れ落ちる地形で、注意して見るとそこにもここにも極く小さい黄色のチングルマのような花や、濃紫色のワスレナグサのような花がびっしりと咲いていて、よくまあこのような自然条件の厳しい所でと、感嘆してしまう。水苔の上は、一歩踏み出すたびに靴がめりこんで歩き難い事おびただしく、その上あちこちに点在する水たまりを避けるのでなかなかはかどらない、あっという間に私達は一行から遅れてしまった。

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『みちしるべ』コンクリートの畦道**<2007.3. Vol.45>

2007年03月04日 | 川西自然教室

コンクリートの畦道

川西自然教室 萩原 敏

 猪名川町で20年前から棚田のお守りをしている。金銭のやりとりはせず、「自由に使ってよろしい」というわけでお守りをさせてもらっている。平均すると100坪ほどの長細い田んぼが7枚、7段の可愛らしい段々畑である。田んぼと畦道の見分けがつかない田んぼもある。大野山(標高753m)の麓の急斜面に関墾された集落と棚田の農村景観は正に日本の原風景で今もその玄郷が残っている。しかし、この集落もご多聞にもれず高齢化が進み、放棄された田んぼが増えている。比較的平地の緩やかな棚田は圃場整備が終わり機械化が始まっているが、中腹の田んぼは昔の狭い田んぼのままで大型機械が使えないために次々と放地されている。僕にとっては、大型化され画一的な四角い田んぼより緩やかなカープを描いた棚田を残してほしいと願っているが、圃場整備されずに残された田んぼにはススキが広がり、孟宗竹がにょきにょきと勢力を広げている 。野鳥が運んできた実生の木も旺盛で2~3年もすると山になる。村の人は「山が降りてくる」と呼んでいる。最近は山仕事をする人がいなくなって山の中は真っ暗で、20年前あれほど採れたマッタケも最近はほとんどお目にかからなくなってしまった。私たちに美しい農村風景を楽しませてくれた茅?の家も3軒だけになってしまった。一車線だった道路はバスが走行できるように2車線に拡幅され、白いガードレールが長閑な風景を断ち切っている。

 3月になって暖冬だった冬も終わりかけたところで、春の訪れを告げるオオイヌノフグリが我らの畦に咲き始めた。貴重種になってきた日本タンポポもちらほら咲いている。毎年フキノトウだらけの畦道が今年はどうも寂しく、季節感が足りない。暖冬と関係あるのかなと、お隣のおばあさんに聞くと「鹿が食べた」らしい。近くの畑でウサギの2倍も3倍もある大量のうんこが転がっていた。昼間農家の裏山で鹿が目撃されており、犯人は鹿に間違いない。犯人などと決め付けてはいけない。容疑者らしい。それにしても昨年はアライグマが出没してトウモロコシやイモ類が食い荒らされ、電柵では防ぎようがないと思っていたら今度は鹿である。黒豆を鹿が食べている現場を見た農家がいて、いずれはやって来るとは予想していたがやっばりお出でなすった。今年はどうやら猪ではなく鹿の当たり年になりそうだ。以前この村でも狩猟免許をもった農家が鉄砲の音をさせて追っ払ったこともあったが、今や高齢化で銃声が響くこともなく村人たちは獣たちの飽食を空しく傍観している。

 先日、畑仕事の帰り道車窓から道路下の田んぼで異様な風景を見てしまった。そこは所謂棚田ではなくて平地にある何の変哲もない小さな田んぼだが、その畦道がコンクリートで固められていたのだ。僕はまだ近づいて見るのが怖くってその「コンクリート製畦道」に立っていない。が、あれは確かにコンクリートで鋪装された畦道だ。圃場整備が進み機械化農業の普及とともに農道の拡幅、コンクリート化は時代の流れとして想像はしていたが、まさか僕の「キャンバス」の中に「コンクリートの畦道」が出現するとはタダならぬ事態である。じゃがいもの種芋を準備し春の畑仕事を楽しみにしていた僕の気分は暗く重い。間もなく顔を出すであろう土筆や秋の彼岸花も、もう咲くことはない。

 「米づくりの基本は畦づくり」といわれるほど、水田の畦づくりは大切で難しい。田んぼに水を入れ代かきを終えてから、鍬を使って、セメントで壁を塗るようにドロ土で周囲を固めるのである。畦道から水が漏れないように隙聞や穴を埋めながら丁寧に塗り込まれる。これだけはまだ機械化できないている。最近は塩ビで作られたアゼシートを畦の内側に埋め込んで水漏れを防ぐ工夫がされるようになり畦塗り作業は大分楽になったそうだ。が、若い人はあんなしんどい仕事はしないだろうな。今、農水省は分散した農地を集約して大規模農業を育てようと「農政改革」に取り組んでいる。もう効率の悪い中山間地農業はいらない。とは言っていないが何だか雲行きが怪しくなってきた。棚田100選の農業観光も必要だけど、都市住民の憩いの場でもある近郊農家の育成と、地産地消のスタイルを確立してほしいものだ。「美しい国ニッポン」のシンポルとしての中山間地農業は守ってほしいと僕は願っている。それよりも何よりも私たちの身近にある美しい棚田の風景が「コンクリートの畦道」で塗りつぶされてしまうのではないかと心配でならない。

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『みちしるべ』上司小剣を知っていますか**<2007.1. Vol.44>

2007年01月05日 | 川西自然教室

上司小剣を知っていますか

川西自然教室教室 恵須川 満延

 明治、大正、昭和の文壇で結躍した作家、上司小剣(かみつかさ しょうけん1874~1947)をご存知でしょうか? 小剣は現在の川西市多田神社、その神主の子として生まれ、幼少から青年期を多田の地で過ごします。12才で母を、20才で父を亡くした小剣は出身校であった多田小学校の代用教員等をしながら、荒れ果てた大きな屋敷の中でただ一人、悶々とした日々を過ごします。やがて1897年(明治30年)24才の時多田の地を逃げ出すようにして上京し、読売新聞社に入社、文学新聞色が強かった当時の社の中で、徐々に作品を発表して行きます。後には編集局長にまで登りつめ、1920年(大正9年)同社を退社しています。

 1914年(大正3年)1月ホトトギスに発表した「鱧の皮」は当時の文壇で称賛され、既に重鎮であった田山花袋は「・・・・及び難い」とまで最大級の評価を与えています。

 大阪道頓堀で鰻屋を切り盛りする主人公のお文は女盛りの36才、婿養子福造は一獲千金を夢見ては失敗ばかりの繰り返しをしている興業師まがいの人物。今、家出をし東京にいる。その夫からお文の元に二通の手紙が届く。そんなところから物語りは始まります。手紙には金の無心ともとの鞘へ納まるための条件、最後に好物の「鱧の皮」を送ってほしいと書いてある。夫の好物であった「鱧の皮」わずか6~7時間の主人公お文の乱れる心の描写や振る舞いは、文字通り鱧の皮のように読めば読むほど味わいがあります。

 1963年1(昭和38年)夫婦善哉の続編として、同じく豊田四郎監督作品で、森繁久弥、淡島千景、浪速千栄子、淡路恵子、山茶花究、三木のり平・・・等々そうそうたる出演者で映画化され、東宝より配給されています。また晩年には厳しかった父母の事や、多田の地で過ごした時代の地域の人々との触れ合いを題材に多くの作品を書いています。また機会があれば、そんな作品も紹介したいと思います。

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『みちしるべ』「徳政大塩味方」能勢山田屋大助の乱**<2006.9&11 Vol.43>

2006年11月04日 | 川西自然教室

「徳政大塩味方」能勢山田屋大助の乱

川西自然教室 井上道博

 天保7年(1836)は、春から秋までことのほか雨が多く続いて稲、綿とも大凶作になった。秋の収穫がほとんどなかったため、年を越して天保8年春から夏にかけての村方、町方の困窮は激しかった。在郷町池田の天保8年3月の調べでは、町の人口5239人のうち「夫食(ふじき)才覚之候者」つまり自分で食料が調達できる者はわずかに821人にすぎず、残る町人口の実に84%にものぼる4418人が「飢人」に数えられていた。この飢饉のひどさは前後にみない米価の高騰となって反映している。川西の下屋敷に残る資料では、天保8年4、5月に銭140文。6月朔より280文。9日よりあがり300文になり、11日には308文になり、14日には340文になり、又麦も1升につき220文、又そらまめも1升190文、そのはか青物、ごまめ値高く候ゆえ、人々難犠致し乞食に落ちる人数知れず。又飢えて死ぬる人数燿れず。

 この年天保8年2月19日に、この危急を見かねて大坂市中で元天満の与力大塩平八郎らが乱を越した。乱は半日で鎮圧され、大塩父子は乱より1ヵ月後靫本町の隠れ家を突き止められ自殺した。大坂市内では次のような歌がうたわれていた。

大塩が所持の書物を売り払い 是ぞむほんの初めなりけり
どっと出てそっと引きたる大塩が 又出よふかと跡部おそるる
              (跡部は老中水野忠邦の弟大坂東町奉行)
大塩が我が身の為か他が為か 切支丹やらなにしたんやら
一つ米よせて二つに分けて見よ 家中心もとけて安臣(心)


 さらに大塩の乱に誘発された一揆が摂津で起きている。その一つが能勢における山田屋大助の乱である。7月1日夜、能勢郡今西村にある杵の宮(岐尼神社)の境内に人々が集まった。2日の朝には「徳政大塩味方」「徳政訴訟人」などと書いたのぼりを立て早鐘、太鼓を打ち鴫らして気勢をあげた。主だった者は5人で山田村の山田屋大助、書家 今井藤蔵、剣客 佐藤四郎左衛門らという。その日の内に今西村か稲地・平野・神山・垂水。長谷あたりの村々をまわって強制的に人足を集め、その差し出しを拒んだ稲地村の庄屋の家では番人が殺害された。その勢いに恐れて村々もおいおい助勢することになった。また酒屋や村役人など大きな家に押し入っては米や金銭を強要した。一方この日、能勢郡川辺郡村々に各家から1人ずつ今晩中に杵の宮への集合と「強(おそれながら)奉願上候口上覚」という関白殿下宛の徳政令の請願書が廻された。

 一揆は7月3日には西走し中山峠を越え鎌倉村・杉生村(猪名川町)を経たか、阿古谷村から木津村(いずれも猪名川町)へ入ったかで左曽利村(宝塚市)の万勝寺に宿泊した。そして4日には麻田藩木器村(三田市)に至り光福寺で昼食をとったが、ここで追っ手に囲まれ大助は八つ時(午後1時半ころ)腰に銃弾を受けて3人は切腹し乱は鎮圧されたという。

 この一揆に参加した村人は33ヵ村712人にのぼった。(一説には2千人とも)いずれにしても近在を揺るがした出来事だった。

 大塩の乱やそれに続く一揆の広がりに恐れをなした時の施政者は、緊急に幕政改革を痛感するようになった。天保12年(1841)徳川家斎が死去し、12代将軍家慶の信任のもと、老中水野忠邦が天保の改革を実施した。中心は奢侈品や日常生活全般の倹約、統制で、その厳しさに多くの人には不評で改革は思うようには進まなかった。

 天保14年水野忠邦が失脚し、以後異国船の来航など外圧もあり幕府の倒壊、明治維新へと歴史は動いて行ったのである。

参考文献 川西市史第二巻「幕末維新の大阪」大阪文庫 他

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『みちしるべ』能勢の寒天つくり**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 川西自然教室

宮本常一を読む(2)
能勢の寒天つくり

川西自然教室 畚野 剛

今回は北摂のお話  前回、宮本常一さん(以下宮本と略記します)が大阪南部にお住まいのころに、冬の岩湧山に出掛けて、昭和初め頃の高野豆腐つくりを実地調査されたお話をしました。おなじ本(注1)のレポートに続くページで、厳冬期に野外で作業するもうひとつの厳しい作業、寒天つくりについても書かれているのを見つけたので、紹介いたします。

 調査の時期は昭和10年2月、場所は大阪府北部のチベットとも言われたいまの豊能町から能勢町の辺りでした。当時の行政区では右の地図(注2)に見られるように吉川、東谷(黒川)、東郷、歌垣の各村を南から北へ貫くコースでした。

 宮本は文のはじめに能勢妙見宮について説明しており、その紋が十字になっていることに注目されています。

 今でも、妙見宮に参詣すれば、頭を朱色の十字で染めたお供え餅が売られているのを見ることが出来ます。また、すこし前まで、能勢電車の車体に付けられていた社章は、下の図(注3)のように、この矢筈十字紋を4つの稲妻(電気鉄道のエレクトリックを意味)で囲んだものでした。

兎皮の老人  宮本は吉川(正しく妙見駅)で下車し、亀岡まで歩いたのです。まず一人の老人と出会いました。その人が兎の皮の袖なし(注4)を着ていたことが宮本さんの心をひきました。

 宮本は「この山中には毛皮を用いる風が近頃まで盛んであって、フンゴミ(注5)も鹿皮のものを多く用い、手甲の類にも鹿皮を多く見かけた。(中略)元来この山中は猪や鹿の多いところで、そういうものの皮が古くから使用されていた。」などと老人から立ち話に聞きました。寒い路上での立ち話でもこれだけ聞き取り出来るのは宮本の才能でした。

  • (注1)宮本常一著作集25「村里を行く」、p76~83、寒天小屋にて 未来社(1977)。
  • (注2)原図は20万分の1 帝国図(大正8年製版)。紙の『みちしるべ』での印刷状態が良くなくて、ここでは省略させて頂きました。
  • (注3)図は豊能町史(写9-9)から引用。省略しました。
  • (注4)袖のない仕事着(半纏)、襦袢(普段着)、羽織(外出着)の類の総称。(日本民俗大事典)
  • (注5)もんぺの一種。冬期間上体に綿入れの長着を着るため、すそ部が入るように太めに作る。(日本民俗大事典)

歩き通す老人  宮本は大土峠への坂道で2人目の老人に会いました。「摂津の尼崎へはどういくか。何里ほどあろうか。」と聞かれた。「その旅姿は藩政のころからなにほども変わっていない」と宮本も感心。「但馬から歩いて来た。」「汽車や電車があるのに何故?」「どうも乗り物は性にあわぬ。尼崎の工場にいる子(孫?)に会いに行くのだ。」と会話を交わしたが、「路上の行き違いではおちついて話もできなかった。」と、宮本は口借しげ。その夜は東郷泊まり。峠の上で逢った炭焼きの家を訪ねるのは、夜道おっくうで止めた。

寒天製造小屋で  翌朝、宿をでてすぐの道のほとりを少し下って、小屋の仕事の合間にしばらく話を聞いた。「寒天仕事を始めるのは12月初旬で、2月初旬までざっと70日間仕事をする。職人は丹波の氷上郡から来る。……」と、しばらくの間き取りといいながら、B5にして4ページ半の分量を記録している! 宮本は、とくに製造の工程について詳しく述べているが、私は「丹波では冬は始終曇っていて乾燥が効かぬので寒天は作れない。また(消費地の)京都への道は能勢から亀岡の道が便利というのも能勢の利点であり、丹波の方は出稼ぎになってしまう。」というくだりに興味をもった。

そのあと宮本は……  酒造場も見ながら進んだ。「この地の人たちは、京都への地の利(注6)を利用しながら、寒天や酒の工場を経営する資本と覇気をもち、ゆたかに暮らしている。」と述べ、「文化の光をうけた古風」という印象を得たのであった。

 「摂丹の国境には、大きい杉の木がある。それ以外にこれという特徴もない国境である。だが丹波に入ると、能勢で多く見かけた皮のフンゴミをつけた人はそこには見られなかった。」という文でレポートを締めくくっている。

北摂の寒天産業の今  たとえば、平成13年12月14日の暮らしの新聞には猪名川町下阿子谷で糸寒天を干している写真が載っています。ただし、凍結の工程は野外ではなく冷凍庫によっているとのことです。

 また、川西市内長尾でも福井寒天製造所畦野分工場がありました。昭和63年まで営業されていました。働き手はやはり丹波の氷上から来ていたと家の方から聞きました。このページの写真(省略しました)はその工場と千し場のあとの現状です(写:2005年12月18日雪の日に)。

  • (注6)宮本の歩いた摂丹を結ぶ吉川~亀岡コースは、摂丹鉄道と言う名で大正の初め頃に鉄道免許を得ていたが、地元資本の力では、実現は叶わぬ夢に終わったのであった。
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『みちしるべ』和泉山脈の高野豆腐つくり**<2005.11. Vol.38>

2006年01月14日 | 川西自然教室

宮本常一を読む(1)
和泉山脈の高野豆腐つくり

川西自然教室 畚野 剛

若き日の清遊  私は昭和29(1954)年4月、大阪の某薬品会社に就職し、一週間の新入社員教育の後、山口県の工場へ配属を申し渡されました。現地で抗生物質生産のための最新鋭工場の稼動が始まる6月上旬までの間は、大阪のペニシリンエ場にいました。この時期の5月28日、家の近くで仲良くしていたT君と和泉山脈の岩湧山に登りました。2人だけの送別会みたいな気分で行きました。

岩湧頂上にて  幸いに、この日は快晴で、岩湧山頂上の草原は5月の風が気持ちよく吹き抜けていました。私は、岩湧山の南側にはすぐ紀ノ川の流れる和歌山平野があって、頂上から見下ろせるものとばかり思い込んでいました。しかし実際に行って見ると、南側の目の前に大きな山が横たわっていたので驚きました。地図をよく見るとその方向の山は、和泉山脈主脈の主峰、南葛城山とわかりました。

向うの山に小屋が?  当時、双眼鏡など高値の花で、代わりに海賊式?の三段伸縮の単限望遠鏡をもてあそんで、喜んでいました。それで南の山をスキャンしていますと、尾根筋よりすこし下がったあたりに、点々と小さな建物のようなものが見えます! 「紀見峠から尾根を辿って来て、もし、あちらの尾根に迷い込んでも、あの小屋に避難できるね。しかし多分無人だろうね。」と、T君と語り合いました。いったい誰が何のために、こんな山の中に小屋を建てたのでしょうか? その謎が解けたのは、ずっと後のことでした。

*******************************

宮本さんの本と出合う  この後少々話が飛びます。私は、故郷を離れ、山口県で暮らし、大阪へは昭和36(1961)年6月に帰ってきました。大阪近辺の山の情報を貪欲に集めた時期です。その年の9月、本屋で宮本常一「村里を行く」(注1)を立ち読みしていました。「いそしむ人々」という章の、第一節は「高野豆腐小屋」と題されており、書き出しは「和泉山脈はまた葛城山とよばれた。……」で始まっていました。これで、この本を買うことを決めました。

(注1)宮本常一「村里を行く」の初版は三国書房、1943年です。私が入手したのは再刊の未来社、1961年ですが、もう私の手元にはありません。この文を書くにあたり、宮本常一全集第25巻「村里を行く」未来社(1977)を大阪市立中央図書館で探し出して、再読しました。これは今でも入手できますが、ちょっと高価(3,800円)ですので、興味を持たれた方は図書館で読まれる方がよいでしょう。

山口県から大阪へ  さてこの本を読むことで、7年間暖めていた疑問をはらすことが出来たのですが、そのまえに宮本さんがこの本を書かれるまでのことをお話ししましょう。宮本さんの出身地は山口県周防大島です。15才、大正12(1923)年に大阪へ出てこられて、はじめは電報配達のしごと(注2)をされていましたが、そこでは多くの同僚が激務の末、結核になり吐血して倒れて行ったそうです。氏は転進をはかって、天王寺師範の2部に入学、昭和2(1927)年卒業。それから12年に及ぶ教職員時代が始まりました。

(注2)電報配達時代の経験から、宮本さんは「路地裏にはどんな人が住んでいるのだろう」と思いを持たれました。それが後に日本各地の実地を歩き廻って、民俗学的データを収集されるときに役立ったのかもしれません。佐渡や対馬での現地調査で、まず行き先の郵便局を訪ねて地域住民の情報を聞き込まれたそうです。 インターネットのない時代の情報収集の生きた知恵といいましょうか……。『みちしるべ』第24号での井上道博さんの紹介と重なりますが、宮本さんは後年、民俗調査などのため、日本の村という村、島という島を歩き続けた方です。その行程は16万キロ(地球4周分)、旅に暮らした日は4000日、泊まった民家は千軒を越えたといわれています。自動車のはびこる現在、こんな学者はもう出ることはないのでは……。

泉南時代の宮本常一  昭和4(1929)年、当時、宮本さんは泉南郡の田尻小学校に勤務していました。フィールドワークとして、学校ちかくにたくさんあった溜池を見て歩きました。「池の中には寺や神社が水の権利を持っているものがある。農民は渇水期には寺社から水を買って自分の田ヘひくことがある。池一つにもいろんな権利(注3)が絡み合っている。その絡み方を見ていくことによって池の築造年代もほぼわかってくるようである。」と、鋭い観察・考察をされています。また、日曜日には、子供たちといっしょに、村を中心に10kmくらいの範囲を歩き回り、「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。」と説かれていました。子どもたちに慕われる良い先生だっただろうと思います。

(注3)最近、私が泉州のほうの博物館のかたから聞いた話ですが、「この辺の池は定期的に干し上げて、手入れをする。村中の人が集まり、魚たちを分け合う。その分け前の仕方にはちゃんとルールがあった。それを知らずに、ルール破りした者は厳しく責められたことが、文書に残っているとのことです。」

宮本の冬の岩湧山  さて先を急ぎましょう。宮本さんは昭和7(1932)年、岸和田市北池田小学校に赴任、放課後を利用して、3年あまりで泉南郡の集落をほとんど踏破しました。この間の一つの成果が、「高野豆腐小屋」と題する冬の岩湧についてのレポートでした。

 彼の宿所から望むと岩湧山が良く見えます。冬になるとその山頂ちかくにかすかな灯火が二つ三つともることに気づき、はじめは岩湧寺の僧が山に捧げる灯であるまいかと思われたそうです。しかし近隣の少年団の報告「雪中の岩湧登挙」で、高野豆腐を製造する小屋の灯火であることを知りました。

 そこで、彼は昭和9(1934)年2月に実地の探索にでかけたのでした。コースは次頁の地図の→のあたりから東へ入ってゆく谷に沿って登り、葛城山系とその支脈の岩湧山との分岐点である中ノ谷の峠に達したようです。ここには、点々と小屋がありました。その多くは無人でしたが、ようやく1軒の小屋で作業者たちを見つけることが出来たのです。ここへは山脈の南側の急斜面から和歌山県橋本市山田の人々が高野豆腐製造のために来るのです。宮本さんが来た時期は冬の作業期間が終わってから10日ほど経っており、後始末の人たちが残っていたのです。こうして、幸いにも、宮本さんはこの地の高野豆腐製造について詳しい聞き取りが出来たのでした。


岩湧山周辺図(1/5万地形図旧版による)
尾根近くの北斜面に不規則に点在する中塗り小矩形が高野豆腐製造の小屋と思われます。

雪の但馬から出稼ぎ  その話のなかで、わたしが驚いたのは、ここへ出稼ぎに来ていた人たちのことです。冬の灘の酒倉に働きに来る丹波杜氏たちは有名です。しかし、この小屋には但馬(浜坂、湯村)の人たちが2人来ていたのでした。その一人は70歳の老人でした。理屈としては、但馬でも寒いから高野豆腐は作れます。しかし、当時、大都市までの出荷が大変なため産業としては成り立たなかったのです。それゆえ、和歌山県まで出稼ぎにこなければならなかった。また和歌山の人よりも寒さに強いから頼りにされたようです。彼らが稼ぎを終えて国許へ帰る、はやる心情を宮本さんは描いています。

終わりに  この文は昭和初期の厳冬期に働く人々の貴重な記録と思います。私は、宮本さんの文脈中に、働く庶民たちへの暖かい思いやりの心を読み取ることができ、真冬のレポートであるにもかかわらず、心温められる気持ちになりました。

 宮本さんが行かれた時、ここの高野豆腐製造はすでに衰退の徴が見られました。それから20年後、私が岩湧山頂から遠望した小屋は多分、使われていなかったのでしょう。今訪れれば、何が残っているのでしょうか……。

おことわり;文中の地名や校名は現在のものといたしました。

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