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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』歴史探訪 木喰上人の残したもの**<2002.7. Vol.18>

2006年01月07日 | 川西自然教室

歴史探訪
木喰上人の残したもの
――文化4年3月31日――

川西自然教室 井上道博

 伊能忠敬が川西を歩いたのが文化8年3月31日(1811年)。それより4年前の文化4年3月31日から6月22日まで、木喰明満上人が90歳で猪名川町に足跡をのこしています。

 「木喰」とは、5穀や肉を断ち火食せず、木の実や山菜。そば粉を常食とする真言宗のことで、この修行を成し遂げた高僧を木喰上人といいます。

 木喰明満上人は、山梨県丸畑に生まれ22歳で仏門に入り、60歳を過ぎてから93歳で没するまで、北は北海道から鹿児島まで全国を廻国しながら各地に1千体以上の仏像を奉納しました。その仏像は見る人をほほえませるユーモラスな風貌で、円空仏とはちがった味わいをかもしだしています。

 猪名川町上阿古谷の毘沙門堂に自刻像や七仏薬師の計7体が残されています。特にこの自刻像はなんともやさしいお姿です。北田原の東光寺には立ち木に彫った子安観音や十王像、葬頭河婆、白鬼など13体が残っています。さらに万膳の天乳寺にも自刻像と得大至菩薩、聖観音菩薩の3体が残っています。

 さて明満上人はどのような人だったのでしょうか。猪名川町の前に訪れた京都府人木町の清源寺の残されている文書には「容貌を視るに、顔色憔悴して鬚髪雪の如く白し、乱毛螺の如く垂れ、躬の長六尺なり。壌色の衣を着、錫を持って来り立つ。異形の物色謂ひつ可らず。実に僧に似て僧に非ず。変化の人がと思い、狂者の惑うかと疑う。」とあり、江戸時代の人の中では飛びぬけて大きく、かなりあやしい身なりをしていたものと思われます。

 猪名川町には6月22日まで滞在し、その後どこへ行ったのか没地は不明ですが、3年後行き倒れのような形でなくなられたようです。背負っていた宿帳等が故郷の丸畑に残され、足跡を知ることができました。残された歌「まるまるとまるのまるめよわが心まん丸丸く丸くまん丸」のように、現在の我々に人生をゆったり歩くよう語りかけているようです。

参考文献 猪名川町教育委員会発行「猪名川の木喰仏」

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『みちしるべ』この道は誰の道?**<2002.3. Vol.16>

2006年01月06日 | 川西自然教室

この道は誰の道?

川西自然教室 畚野 剛

ヒトが造ったマクロの道

紙に印刷した『みちしるべ』の地図をスキャンしたモノは、大変見ずらかったので、同じ部分の地質図を参考までにアップしました。(ブログ管理者)

 第1図は国道163号線が生駒山脈を西側(大阪府四條畷市)から越えてゆく部分の地図(注1)です。途中で道が分かれています。清滝第一トンネルヘ真っ直ぐ入ってゆくのが最新の道でしょうか? トンネルに入らないでヘアピンカープを繰り返しながら上って行くほうは多分旧道のようです。もっと昔はどうなっていたのでしょうか? 旧い地図のある方は見ていただいたらと思います。ひょっとすると、のんびり歩けたハイキングコースだったのかも・・・

(注1) 1/25000 「生駒山」 国土地理院 (部分図)

 国道は二本の平行線(中はアミかけ)で示されています。そして神社記号(鳥居)の南側から、しばらく、直線的になっている部分の道路の南斜面をよく見ていただくと短い線(ダッシュ)が道から直角の方向に等間隔で描かれているのが見えるでしょう。これは国道の南側の法面が急斜面になっていることを意味しています。奈良県側から来て、此処を走り下れば、しばらくの間、西側に大阪平野が見える場所と想像されます。

誰が作った道? ミクロの道

同じミクロの道を、別の写真からお示しします。

 つぎに第2図を見ていただきましょう。

Ql 大きさはどのくらい?
Q2 誰が作ったの?
Q3 道の片側のギザギザは何なの?
Q4 どちらの方向へ進んでいるの?

一旦停止! 答えを見ないでしばらく考えてみませんか・・・

A1 画面の実寸は約2.5cmX4cmでした。場所は裏庭のスチールケースです。上面に緑色の緑藻?が生えていました。それを誰かが食べた「食みあと」と考えられます。以下、豊中市にお住まいの高妻勲氏の明答を紹介します。

A2 カタツムリです。

A3 カタツムリは前半身を伸ばし、首を左から右、右から左に動かしながら、「歯舌」という卸金のような歯で藻を削り取りながら前進するのです。

A4 手前から向こう側へ、削り上げるように食べるので、ギザの凸の方向が進行方向です。画面左では上から下、画面右では下から上のほうへ進んでいったようです。

 見掛け上、ミクロの「道」と書きましたが、本態は「食みあと」でした。「羊頭狗肉」は世の常です。あしからず。

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『みちしるべ』伊能忠敬の歩いた道**<2002.1. Vol.15>

2006年01月05日 | 川西自然教室

伊能忠敬の歩いた道
――文化8年3月31日――

川西自然教室 井上道博

 平成の伊能ウォークが、1999年1月1日に始まって、2001年1月1日に完歩しました。1103kmを574日で歩いたことになります。私も1999年10月10日、快晴のもと福井県三方町から上中町の24kmのデイリー隊に参加させて頂き、伊能隊の雰囲気をちょっぴり味わいました。隊員には韓国文化政策開発院の金哲秀氏のように外国から2年間仕事を休んでこられた方もおられ、日本再発見の旅になったようです。

 伊能忠敬は、佐原の名主で50歳で隠居し、好きな天文暦学を学ぶため19歳年下の、大阪の定番同心から抜擢され幕末天文方になった高橋至時に弟子入りし、1800年(寛永12年)55歳から、1816年(文化13年)まで日本全国の測量に歩き、精密な日本地図を作りあげました。

 ところで、その忠敬が晩年の1811年(文化8年)3月13日に川西を歩いています。

 前日有馬から中山寺宝蔵院に泊まった一行17名と手伝いの人夫は、朝6時半に出発。巡礼街道を歩測や間棹を使いながら測量、天満宮や行基の拠石を見ながら、平井の木接太夫の碑を過ぎ、ここから満願時に出て早い昼食をとり、湯山台に抜けて多田院に参拝、三ツ矢旗兵衛宅で遅い昼食をとり、午後池田の大和屋に入り、夜は星の観察をしています。一方先手隊の坂部貞兵衛の隊は、平野から東多田、横山峠を越えて古江から池田に入り瀬川の本陣に泊まっています。「御用測量方」の旗を立て、象限儀・方位盤・杖先羅針盤・垂揺球儀・間棒・間縄などを持ち、梵天を立てた物々しい測量だったと思われます。

 多田院によったのは、忠敬の地元佐原には昔奥州征伐に源満仲が滞在した縁によるものと思われ、今でも香取神宮の先の多田の地の光明院に満仲供養塔があり、多田姓の人がたくさん住んでいます。

 「人間五十年 天下のうちをくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり」。昔は人生50年といわれた時代に、50歳からの再出発で一大事業を成し遂げた男に、今の逼塞した中高年のわれわれは、何か学ぶものがあるのではないでしょうか。

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参考文献
 
「川西の人と歴史」      菅原 巌   創元社
「伊能忠敬を歩いた」     佐藤嘉尚   新潮文庫
「伊能忠敬の地図を読む」  渡辺一郎   河出書房新社

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『みちしるべ』渡し船**<2001.11. Vol.14>

2006年01月05日 | 川西自然教室

渡し船

川西自然教室 恵須川満延

 先日、夕刊に大阪市の「渡し船」のことが載っていた。法的には道路の一部とされ、無料。大阪には今でも全国最多の8路線が残っており、一時は利用客の減少で存亡の危機であったのが96年に増加に転じ、現在では年間200万人を越す勢いだそうでウォーキングやサイクリングなど健康志向の人々の新しいコースとして道と道をつなぐこの「渡し船」が今都会の人々に人気との事である。

 私は5歳位の頃より小学校5年生まで大阪市大正区に住んでおり、祖父母の家が尻無川を挟んだ港区にあったため休日を利用してはよくこの渡し船(甚兵衛の渡し)に乗って出かけたものだ。渡し乗り場の横に小さな売店があり、いつも1本5円の“みかん水”を飲むのが楽しみだった。ラムネ10円、バヤリースオレンジや三ツ矢サイダーが25円位で子供の小遣いではとても手の出なかった時代である。

 渡し料は無料だったと思うが船出の時間があったのか、なかったのか、手こぎ舟は一定の乗客があると出発した。どれ位の時間だっただろうか。たぶん10分位だったと思うが、対岸の港区に着くと、目の前には見渡す限りの原野が広がり、その中を1本の地道がずっと真っすぐ続いている。い<ら子供でも迷うなんて事はない。

 色々寄り道をしながら祖父母の家に着くといつも「よう来た、よう来た、えらい、えらい」と祖父母が迎えてくれたものだ。

 道路と電車が好きで当時大学に通っていた叔父は市電のレール間は何メートル何センチ、国鉄(現JR)のレール間は何メートル何センチ等と私に聞かせては、これからの時代は道路と鉄道だとの夢をよく話してくれた。自転車の後に乗せてもらっては色々の所に連れて行ってもらったのは覚えているが、それがどこだったのか。

 人々の交通手段はまだまだ市電と自転車。子供は歩くしか仕方ない。港区朝潮橋の祖父母の家の裏からは赤々と海に沈んで行<夕陽が見られたものだが、もうそんな風景はなくなり市電は地下鉄に替り当然祖父母もいない。叔父は道路公団のある建設局の局長をずっと前に定年。道路作りという面では良き時代であったのかも知れない。

 そしてこの私は、車が走りまわる国道173号線沿いの事務所でこの原稿を書いている。

 大阪市はまだこの航路は廃止しない方針。渡船場までの道をカラー舗装したり、安全さくを設けたり、整備を進め今後は障害者の人々にも利用しやすいようにバリアフリーエ事や点字板を作って行くとの事である。新間で見なかったらもうすっかり忘れ去っていたあの「甚兵衛の渡し」近い内に乗って来るか。

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『みちしるべ』石敢頭 ――道の習俗―― **<2001.9. Vol.13>

2006年01月05日 | 川西自然教室

石敢頭 ――道の習俗――

川西自然教室 畚野 剛

 ちょっと身の上話めいたことですが……かなり旧い話でご辛抱願います。私は1954年から1961年まで山口県光市にある製薬会社の工場に勤務していました。まだ「自然観察」という言葉は世に広まっていませんでした。また「週五日制勤務」もまだありませんでした。しかし親元を離れ、会社の独身寮住まいです。自由でした! 青春のエネルギーの吐口として、チャンスを見ては休暇を取り、もっぱら中国・四国・九州方面の高山(といってもせいぜい1700~1900mクラスにすぎません。)に登り、自然を満喫していました。

 あるとき僚友Mくんの妹さんが北海道の十勝から見えました。その人は大雪山系2000mクラスに登っていたので、高さ比べでは歯が立たず悔しかったことを覚えています。ご存知と思いますが、九州本土の最高峰は久住山1787mです。1958年にこの山頂に立ったとき、たまたま隣に居合わせた若い女性たちの「次は屋久島にゆきたいね~」という叫びが耳に入りました。それでわたしの方も心の中でさけびました。「来年の5月連体はそれで決まり!」。

 憧れの屋久島へ向けて出発したが……鹿児島から南の海上、約150kmに屋久島があります。屋久島は「海上アルプス」の別名があり、島の最高峰宮浦岳は1935mあり、九州本土をしのぐ高さを誇っています。今は「観光化」の波が激しく打ち寄せていますが、1959年当時はまだ秘境の名にふさわしかった所でした。私と僚友Hが乗った九州商船の船は、鹿児島港を出発し、まず種子島をめざしました。鹿児島湾から(大隈海峡)へ出ると600トンしかない船は北西風を受けて激しく揺れました。その日の午後、ようやくの思いで着いたところは種子島の主邑西之表の港でした。しかし船は夕方になっても出航しませんでした。理由は「風が強いから」ということでした。

 心ならずも種子島で足止めの日々。船長はこの島の人だそうで、なかなか船を出そうとはしませんでした。このあと結局、この町で2泊3日を過ごす羽目に陥りました。夜は船に寝泊まりできました。なにしろ小さい町ですから、もともと「山屋」というより「遊び人」のほうだったHくんに「夜出かけたが、小さなバーが一軒しかなかった」とぼやかれたのを、今でも思い出します。わたしも山でなく里での滞在に少々戸惑いを覚えました。しかし、記憶に残ることも少なぐまありませんでした。なにしろ暇に聞かせて、小さな町を2日以上も行ったり来りしていたのですから。そのなかから「道」にまつわるお話をひとつ……

石敢當(いしがんとう)に出会う

 町の中の、とある丁字路にきたとき、その突き当たりに当たる石垣に不思議な石が埋め込まれていました。上細の卵形の平たい石の表面に三文字、「石敢富」と刻まれていました。当時のカメラはフィルム巻き上げ、絞り、シヤッター・スピード、距離などを手動で決めねばなりませんでしたから、それだけに、撮ろうとする対象に慎重でありました。自分が面白い興味があると思ったものに絞られていましたが、この石には何か心が引かれて写すことにしたのです。当時のアルバムを紐解いてみましたが、残念なことに、その写真ははずされていて、それと思しい場所に、コーナーだけが残っていました。そのかわり、ここにそのイメージをかかげておきます。

その石の意味は

 旅の後、その石について調べた参考書は、宮本常一「風土記日本 九州編」平凡社であったと記憶していますが、今は手元に残っていません。それで宮本常一の師であった柳田国男の「海南小記」をもとに紹介いたしましょう。その「24はかり石」の章に、石敢當のことが議論されています。このての石は主に三又路、丁字路の突き当たりにあり、道を行き来している「魔物」の災いを避けるために設けられたと考えられます。もともとは、上の方が少し細い、2、3尺の大きさの頃合いの自然石で、文字を刻まないものが、古い形であり、「突き当たり石」といわれていたと柳田さんは考えておられます。その後中国の似たような習俗が混入して来て、「石将軍」とか「石敢當」という文字が刻まれるように変わった。したがって、他の研究者たちが、「石敢當というのは中国の古い伝説に出てくる将軍の名だ」と言って、何者か詮索したがるが、それはなぜ日本でこの種の石を立て始めたかの説明にはちょっとも役立たぬことと柳田は論じています。

石敢當の今

 石敢當は、現在は主として長崎、鹿児島、沖縄方面に分布しています。新しいものは、四角いものが多いようです。観光用に新しく設置されたものもあるといいます。最近見たテレビでも沖縄を表現するのに首里城と石敢當を代表させていました。今ではこんなに有名になってしまったのですが、40年もまえ、まだ一般に知られていないころ、種子島でのさすらいの時に、それに目を止めることが出来たのは、幸運であったと思います。しかも、石敢當の文字は入っていますが、形としては古風なものに属していた貴重なものだったと考えられます。思えば、今の大きな道は夜通し大きなトラックが走りまくり、むかしの「魔物」など出てくる余地はありません。と言うよりは「魔物」がトラックに化けているのかも知れません。小さな石ひとつに「魔物除けの祈り」をこめると言うような素朴な信仰は滅び去ったのです。話は屋久島までたどり着けませんが、これで終わります。

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『みちしるべ』自然を守る**<2001.7. Vol.12>

2006年01月04日 | 川西自然教室

自然を守る

川西自然教室 森山康浩

 わたしたちヒトが住む地球は、水が蒸発するほど暑すぎず、凍るほど寒すぎない、この広い宇宙でもたいへん珍しい「ぬれた星」である。地球が誕生してから46億年という、気の遠くなるような長い時間が過ぎていく途中に、生き物は水の中から生まれた。そして、地球は焼けつくような暑さのときも、氷で覆われた厳しい寒さのときも、生命は一度も途切れることなく今日まで生き続けている。しかもその間にどの生き物も自分の住む場所に最も適した生き方を身につけ、体を変化させてきた。もちろんこれからも変化していく。

 だからヒトのひとりの命は、お母さんのおなかから生まれてから今日までの命ではなく、お母さんのおばあさんの、そのまたおばあさんの……'というように、ずっと続いてきた命であり、これからも、子へ、子から孫へとつないでいくたいせつな命である。

 この絶えることなく続いてきた生命の始まりは植物である。植物は、水と太陽の光をもとにして自分の力で生きることのできる生き物である。動物はすべて、植物の養分を取り入れて生きてきた。だから、地球上に水が豊かで植物がたくさん茂っていたときは、動物にとってそこは楽園であつた。しかし、地面が乾いたり、雪や氷に覆われたりして植物が少なくなったときは、動物にとって生存の危機であった。こうしたことは地球上で何度も繰り返されてきたが、多くの生き物は周りのようすが変化する度に、みごとに生き方や体の形を合わせて生き延びてきた。しかし、その変化についてゆけず、食べ物もなくなり、ついに死に絶えてしまった生き物も少なくなかった。

 ヒトは、周りの自然を注意深く観察して食べ物を手に入れる方法や場所を知り、さらにより多くの食べ物を取ったり作りだしたりする技術と知恵を身につけてきた。例えば、山や川や海でとる獲物は必要なだけにして、決してむやみに生き物を捕らえたり、殺したりしなかった。また、作物をとったあとの田や畑には肥料をたっぷりやり、土を休ませてやった。

 こうして自然を大切にして自然と上手に付き合いながら、自然を豊かに守ってきた。そうすると、すこしぐらいのときも日照りや大雨や大雪が続いて自然が荒れても、自然はすぐに元にもどる力を持ち、また十分な食べ物をヒトに与えてくれることをヒトは知っていた。こうして、ヒトはただ食べ物をさがして歩き回るのではなく自分たちが見つけだした自然の法則をもとにして、自然にはたらきかけ、生産を高め、文化を高めてきたすばらしい生き物なのである。

 ところが、ヒトの文明が発達し、ヒトの多くが自然のなかで生活することもなく、自然を知らなくても生活出来るようになってきた。そうするとヒトは、とれるだけとってしまおうとか、ただ便利な物をたくさんつくろうとか、もうけるためになんでもつくろうとか……、自然全体のことを考えなくなってきた。そのうえ、開発のためにといって切らなくてもよい木まで切り倒し、汚れた水やごみを平気で川や海に流したり、排気ガスや毒物を空気中にまきちらしたりしている。しかもそれは、ヒトの文明がなまじ進歩したために大きな自然破壊となり、気が付いたときには取り返しのつかない被害が出ていることが多い。さらに、破壊された自然を元に戻す方法さえ考えていないことも多いのである。

 今、ヒトは、生命のもとである水や空気さえよごし、すべての生き物が生き物らしく住めない星へ地球を一歩一歩追い込んでいる。

 この地球はヒトだけの星ではない。

 地球46億年の長い長い時間に、姿をみせたすべての生き物の「ふるさと地球」なのである。その生き物たちは、たがいに深いつながりを持ちながら、それぞれの生活をし、さまざまに発展してきた。この生き物たちとともに自然の中から生まれ自然の中で育てられたヒトが、この自然をよごし、破壊して、どうして生き残れるというのだろうか。これまで地球上に何度もやってきた生き物の危機をのりこえてきたヒトが、ヒトのせいで招いた、この危機はヒトの責任でのりこえなくてはならない。考える力と集団の力をもつヒトなら、必ずできるはずである。

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『みちしるべ』水の21世紀**<2001.5. Vol.11>

2006年01月04日 | 川西自然教室

水の21世紀

川西自然教室 中本二郎

 昔、我が国では「きれいな空気と水はただ」という考えが当たり前でした。きれいな水と空気がごく普通にあったからです。しかし、今、水も空気も汚染され、大きな環境問題になっています。そして、地震などの災害で「水」のありがたさを知る報道を耳にします。文明の利便性を享受し、日々の営みから大切な事を忘れているのです。環境問題への負荷にも繋がっていると思います。

 「水の惑星」といわれる地球ですが、その水の96.5%は海水で、淡水は約2.5%にすぎません。そのうち70%は万年雪や氷河の状態であり、地球上の生き物が利用できる水はわずか全体の0.8%程度にすぎません。今、地球人口は60億人と言われています。21世紀は「水」が国際協力の基本になると考えられます。世界の農業用水を見ても、現代地球上で雨水の不足している分、地下水を利用しているアメリカ・中国・インドなどの農耕地は塩害による被害が農業を不可能にし、深刻な問題がおきています。これは、食料自給率が低下し、輸入に依存している我が国にとって大きな問題です。

 「世界水の日」にイギリスの開発問題の非政府組織ティアファンドが2025年には世界の人口の66%が飲料水不足に苦しみ、水を求める難民が大地をさまようという、水資源の将来に関する報告書を発表しました。(水不足は、人口増、貧弱な水管理、地下水の過度の使用、それに地球温暖化が組み合わされて作り出されるもので、これによって貧しい人々が貧困から抜け出せない事態が生じるだけでなく、「水難民」という新現象が出現するとある。)

 我が国の降水量は1,714mm位で、世界平均の約2倍ですが、狭い国土に人口が多く一人当たりの降水量は世界平均の四分の一程度になります。しかも雨は梅雨、台風、降雪期に集中、気象に大きく左右されるほか、地形が急峻で短い河川が多いため降った雨が短期間の内に海に流出してしまうなど、不利な条件があり水はけっして豊かとはいえません。水の循環は太古からかわりなく繰り返されている自然の営みであり、無限の恩恵です。しかし無限ではあっても、無尽蔵ではありません。地球上の淡水量は変わらないが人口は増えています。水環境を知るのは人間だけであり、他の動植物はその影響を知らず自然界から消滅していくものがあるのが現実です。

 人類が「水」の環境を知り、水環境の保全と水文化を守るための英知を結集しないと、21世紀は水戦争の勃発になりかねません。地球上の環境問題が「水」とか「空気」などを身近に意識して芽生えることを願う一人です。

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『みちしるべ』あるランナーのつぶやき**<2001.3. Vol.10>

2006年01月04日 | 川西自然教室

あるランナーのつぶやき

川西自然教室 市原敏彦

 軽い気持ちで始めた″走る″ことに、だんだんのめり込んで10年近くが経ちます。走っている時の充実感・走り終わった後の爽快感などは、何とも言えず、「生きているんだ!」と実感します。今では週2~3回、月間50~150Km走るほど、生活の一部になっています。

 ふだん走るのは、猪名川の河川敷コース。草花・昆虫・水鳥など四季おりおりの生き物を見ながら、また、自然を感じながら走るのは、気持ちがいいものです。しかも土や草の上を走るのは、硬い舗装道を走るより膝にとっていいのです。(走る時は膝に体重の3倍の負荷がかるので、それを少しでも和らげるためには、体重を落とすか軟らかい所を走る必要がある)でも、最近は河川敷でも公園化されたところが多く、「舗装なんかしないで!できるだけ自然のままがいいよ!」と言いたいですね。

 ときどき走るのが、一般道・バイパスコース。足元に凹凸が少なく一見走りやすいのですが、交通事故の危険性があったり、排気ガスの影響で息苦しかったり、歩道橋や信号が多く走りにくかったりして、けっこう苦労します。今の時代は一番強い自動車がおおいばりで走り、人はすみで小さくなって歩いています。車は確かに便利な乗り物です。でも、それと引き替えにわたしたちは、たくさんの犠牲を払わねばなりません。人にとってやさしい道をどうしたら取り戻すことができるのでしようか。

 最近になって、やっと公共事業が、住民運動の成果もあって見直しされつつあります。道も、経済効率優先ではなく、人にとってやさしい環境、人が最優先される道を見直していかなければ、日本は本当に貧しい国になってしまいます。

 何とかしなければ……! ときどきこんなことを考えながら…今日も走っています。

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『みちしるべ』猪名川昔語り 川の道**<2001.1. Vol.9>

2006年01月04日 | 川西自然教室

猪名川昔語り 川の道

川西自然教室 畚野 剛

 新年明けましておめでとうございます。今年も皆様の運の開けますことを願いまして、猪名川の船運の開設までの歴史について述べたいと思います。

 川西市の地図はシッポの切れたタツノオトシゴが振り袖姿で踊っているように見えます。顔は東を向いていて、鼻の先がちょうど妙見山の頂上にあたっています。このように南北に細長い地形の市域を猪名川が北から南へと貫いて流れています。したがいまして、この地域|こ住む人達の暮らしは古くからこの川と深く関わってきました。地域の昔を知るためには、「川西市史」、「能勢町史」を紐解けばよいと考えて、調べに取りかかりました。しかし、権力者による銀山の開発とか、戦国の武将達の争いなどはいやに詳しく書かれていましたが、名もない民百姓の暮らしについての古文書は、村々の間の「水争い」や「山論」(境界紛争)を除けば、残っているものが少ないようです。そのなかから、「近世の猪名川に交通手段として舟が通っていたのか?」言い換えると「川の道としての猪名川」ということに絞って拾い上げてみました。

 交通と申しましても、街道に相当する沢山の人の往来に対応した船運は、淀川のような大川でないと行われていなかったようです。猪名川流域の場合、生産物の輸送の目的に限って目論まれてきました。上流地域の主な産物といえば米や薪炭でした。米の多くは年貢米だったのでしょう。これらは全て人や牛の背に頼って、山道を、いくつかの峠越しに池田まで運ばれていました。たとえば能勢町宿野の「きねの宮」あたりを松明を灯して夜明け前に出発し、1日丹波街道沿いに進み、峠道の登りに差し掛かりますと、牛どもが一斉にフンを垂れるので、後詰めの連中は滑ってかなわなかったと言います。猪名川を「文殊の渡し」(今の文殊橋付近)で歩いて渡りました。池田の商人の一部は古江あたりまで「出買い」し、やすく買いたたいたという話です。荷渡しのあと百姓たちは呉羽橋付近の饂飩屋で一服するのがわずかな楽しみだったようです。まだそれから、その日の内に歩いて帰らねばなりません。今から思えば大変なことだったのです。そう言う事情から、舟の通れる中流域について池田までの船運が望まれていました。また下流域については集められた年貢米や酒を河口まで大量輸送する需要がありました。

 さて江戸期の1635年から1780年まで、通船願いはいろいろな人達から通算四十回ほど出されましたが、ある事情があって実現しませんでした。その事情とは、そのつど池田村の強力な反対があったのです。反対の理由はいつの時期も同じ様なものでしたが、例えば元禄9年の文書では

  1. 舟が通れば、田に水を引くための井関や堤を保護している枠が壊れ、川底の水垢が取れると堤から水漏れするので百姓が困る。
  2. 池田の牛馬人足が動かしている荷が船運に奪われ稼ぎが少なくなる。
  3. 多田銀山関係の荷の稼ぎがなくなると、馬貸しが減り、公用の荷はこびに差し支える。

と主張しています。要するに、当時の池田の繁栄を底から支えていた「陸運業界」の自己防衛だったようです。

 多田家御家人らが1723年|こ願い出た本流起点猪名川町上野、支流起点一庫、終点神崎浜という計画がありましたが、川幅を広げる普請が困難であったり、年貢米や百姓諸荷物は池田止まりと言う制限を付けられたことで余り効用が期待できなくなって頓挫してしまいました。また1784年に下流部に限って許可がおりたのは、伊丹・池田の酒を高瀬舟で庄本村まではこび、そこで大きな舟に積み替えて大阪や西宮へ運ごという航路でした。しかし、その時も池田側は池田から27丁も下流にしか船付き場をもうけなかったので、現実には荷が集まらなかったといいます。

 ようやく明治5年3月になって高瀬舟が池田村までさかのぼるようになりました。この裏には、維新の制度改革により、陸運も伝馬制から陸運会社へと切り替わり、馬持ちたちもそれに組み込まれて行き、反対しなくなったという事情の変化がありました。また右岸川西側でも同年4月小花村から尼崎までの船運が許可され、上流部からの租税米や薪炭が運べることとなりました。

 そしていよいよ同年9月、上阿古谷村仁部輝三と多田院三矢旗兵衛が池田村より上流の船運開設を兵庫県庁に出願することになりました。支流(当時能勢川と呼称)の東畦野村から多田神社前を経て池田村にいたる2里の間に難所を切り開いて舟路を開き、能勢郡、奥川辺郡119ヶ村からの荷を運送しようという計画です。総工費は1167円、償却に10年間の通行料をあてる予定でした。そのあと会社を設立、さらに起点に本流の上野村(猪名川町)を追加、明治7年1月にあらためて出願しました。計画は「農業用水時の通船は差し止め、9月から5月に限って営業。出資者15名。舟は30そう。奥在村からの荷の総量は年間7万5干駄(米穀相当で7万5千石)とみて、その半量を舟によると予想。運賃は陸路の半額。1駄あたり戸の内(陸路5里相当)までの運賃25銭。うち「刎ね銭」として1銭を徴収し、償却費にあてる。また材木運搬の筏からも「刎ね銭」を徴収する。」というものでした。同年6月|こ県より認可。12月20日、営業を開始しました。明治10年10月の時点では多田院より上流は未開業。開業していたと考えられる多田院村・池田村間の営業|こつしいても資料は見いだされていないと「川西市史」はかたっています。しかし、私は「多田神社近くの左岸の石段は船着き場であった」と地元の方達が言い伝えられていると聞いています。さらなる現地調査が必要でしょう。

 川と暮らしについて、このような昔の苦労話があったのを知る。そうして、川への思いを今の世にどう紡ぎあげて行けばよいのか? 考えていただければ幸いなのです。

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『みちしるべ』日本の有料道路の先駆け“銭取岩”と西行ゆかりの“鼓が滝”**<2000.10. Vol.7>

2006年01月03日 | 川西自然教室

日本の有料道路の先駆け“銭取岩”と西行ゆかりの“鼓が滝”

川西自然教室 井上道博

 能勢電川西能勢口より三つめの鶯の森で降りて、平行に走る県道篠山線を少し歩き、冬にコーヒーを飲みながら水鳥観察の出来る喫茶『ピノキオ』の先、右側にこんもりと木の茂った大岩が見えます。ここが日本で初めてお金を取って人を通したという『銭取岩』です。

 弘化3年(1846)滝山村の庄屋、大木田半左衛門が難所の猪名川右岸を削岩して新道をつくり、矢問と出在家を結んだ道で、明治の中頃まで通行料を徴収していたといいます。それまでは萩原から多田神社へ阿古坂越えが一般ルートでした。今大岩には地蔵尊座像が刻まれ「新道開起人 大木田半左衛門 世話人 平いと」と掘られてあり、かたわらには「白玉竜王」が祀らねています。

 そこからさらに渋滞した道を車にヒヤヒヤしながら歩くと、猪名川は岩のゴロゴロした渓流となります。ここが昔世に知られた『鼓が滝』です。山側から30mもの滝が注いでいたという説もありますが、今では確かめるすべもありません。

 鎌倉時代、鼓が滝へやって来た歌人西行法師は「伝へ聞く鼓が滝へ来て見れば、沢辺に咲きしたんぼぽの花」と詠んで、我ながらよく出来たわい、とうつらうつら眠ってしまった。夢の中で夜になり、一軒家に泊めてもらったところ、その家のお爺さん、お婆さん、孫娘に、散々歌をなおされたところで目を覚ましました。西行は自分の慢心を恥じたということです。残された歌は『音にきく鼓が滝をうちみれば、川辺に咲くや白百合の花』です。今、この地、銀橋の向かい下滝公園に地元有志で碑が建てられ、『愛する会』が清掃や交流をはかっています。

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