goo blog サービス終了のお知らせ 

『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**佐渡金山に働く人 ―川路聖謨(としあきら)の日記より―**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 川西自然教室

佐渡金山に働く人
――川路聖謨(としあきら)の日記より――

川西自然教室 井上道博

 春の四天王寺での古本市で、1992年刊「佐渡金山」磯部欣三を求めてきた。著者は佐渡博物館館長で、内容は「地底の水替のこと」「大工と掘り子」「心中と盆踊り」「金銀山の遊女」「流人巡礼」など興味深いことが書かれている。その一部を取り上げる。

 天保の頃の佐渡奉行川路聖謨の日記「島根のすさみ」が残っている。彼は天保11年(1840)6月に相川に来て、翌年5月に江戸へ戻ったが、その約1年間にわたる道中及び佐渡での見聞を留守宅に送った。これがその日記である。

 彼は奉行として初めて坑内へ入った人といわれ、鉱山で働く人の風俗が綴られている。

 「坑内を見学するつもりである。たとえ奉行の見回りであってもコヨリで作った笠をかぶって、裂織という木の皮で織った半纏のようなものを着て丸腰で入らねばならないという。」コヨリで作った笠をテヘンといい、これは役人がかぶる。坑夫は素顔で、みんな坑内に入ると短い着物で草履ばきという。また「用心に縄の帯をしたる由、是は右の通り切所故、おりおり崩ることあれば道なしに也。其時人のよりて石を除き道を作るに3日も4日もかかる。其内の食は、藁の縄を咬みいるという。心細きことなり。」と書かれ、坑内に入るとき藁帯を締めて入坑したことを書き残している。

 大工については、「佐渡は日雇い銭が安いところだ。銀山への弁当持ちで通って28文くらい。その中でも坑内で金銀を掘る大工は、1日に4百文も5百文もとる。いたって苦しい仕事であるという。大工になって7年の寿命を保つものはない。みな病に倒れ、咳を出し、煤のようなものを吐いてついには死んでしまう。これは石州やその他の金銀山も同じというが、油煙が自然に鼻や口の中に入り腹の中・脳髄も腐ってしまうというが本当だろうか。」「大工になるほどのものは、朝夕を酒と色で身を沈めて身体を弱らせ、それがために山の毒気を多く受けて死にやすい。だからどちらかといえば金抗へ入って死ぬより、酒色に溺れたがために病をえて死ぬものが多いと。そうもあろうかと思う。」

 他にも坑内で口笛を吹くこと・歌を口ずさむことは「山の神が踊り出す」と嫌った。また坑内で頬かむりをするのは、「耳をふさぐと崩れを予知できない」と禁じた。またけが人や死者があると顔をかくして運び出すなどの風習があったという。

 ふりかえって多田銀銅山ではどのような状況だったのだろうか。

 川路聖謨は嘉永7年(1854)、プチャーチンひきいるロシア軍艦が大坂湾に来航した時、海防掛・勘定奉行として砲台築造を上申し、日露和親条約締結時には幕府の全権として活躍した。ロシアの特使プチャーチンを相手に堂々と渡り合い条約を締結、「ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物」と言わしめた。

 「島根のすさみ」佐渡奉行在勤日記では、天保9年(1838)佐渡に島内一円を渦中に巻き込む百姓一揆がおこった。長年打ち続く不作・凶作で疲弊した農民が租税免税などの嘆願を佐渡奉行に嘆願したが顧みられず、幕府の巡見使に直訴したのが発端で、佐渡奉行はこれを弾圧した。百姓たちはこれに対し問屋や豪農への打ちこわしで対抗した。幕府はこの一揆が「大塩平八郎の乱」に続いて起こったため神経をとがらせ、またこの頃の奉行所内の腐敗も目に余ったため、川路聖謨を派遣した。

 川路聖謨はこの時40歳、天保11年(1840)7月11日、江戸板橋をたち熊谷から三国峠を越え小千谷・寺泊から佐渡へ渡り、7月24日相川の奉行屋敷に到着した。そして帰任は翌天保12年(1841)5月9日にたち小木から出雲崎へ船で渡り、信州上田から碓氷峠を越え5月26日に江戸へ帰着した。

 川路聖謨は豊後日田の生まれで、江戸へ出て養子にはいり、わずか九十俵三人扶持の小普請組から身を起こし、老中水野忠邦・脇坂安(やす)菫(ただ)・大久保忠真に認められ勘定吟味役に抜擢された。

 のちの安政の大獄に逢い隠居を命じられたが、大政奉還・江戸城明け渡しの際に腹を掻っ捌き、ピストルで自殺した人物で、先祖は川西市小童寺に廟がある嵯峨源氏・渡辺綱といい、まさに波乱万丈の人生だった。

 他に「長崎日記・下田日記」を残しており、剣は柳生新陰流免許皆伝、宝蔵院槍術の名手だったそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**キュ-バに行ってきました**<2016.7.&9. Vol.94>

2016年09月02日 | 川西自然教室

キュ-バに行ってきました

田中 廉

 今年7月、友人と旅行社のパック旅行でキュ-バを5日間旅行しました。目的は米国による50年以上もの経済制裁を耐え抜いた、カストロ、ゲバラの国の様子を観たかったからです。以下、5日間の間に垣間見た町の様子です。

1. 自動車事情

 経済制裁の結果、今でも1950年代のアメ車が普通に走っています。なんと50年以上走り続けていることになります。が、添乗員の話ではエンジンなどの部品は、輸入が可能だったソ連の車の物を使用している場合が多いそうです。私が自動車免許を取得した50年近く前にはカーエアコンが無く、三角形の小窓を外に開いて風を入れていました。そのような古い型の車が首都ハバナでは50%ほど、地方都市では70%程走っています。また、地方では馬車が農作業用、乗客用に使用されています。現地ガイドに聞くと馬車乗車の料金は20円程とか。今回の訪問で驚いたのは、韓国車が多いことです。新車(エアコンのついた車)のかなりの割合が韓国車です。5~6年前にパレスチナに行った時も韓国車が多かったですが、多分、コストパフォーマンスに優れているのでしょう。

 アメリカの経済制裁では、キュ-バに投資した企業はアメリカでは商売できないという、いやらしいもの。毎年のように国連総会で「アメリカはキュ-バ経済制裁を解除せよ」の決議が圧倒的多数で可決されています。アメリカ追随の日本政府も1997年からは賛成に投票していますが、アメリカには、カエルの面に小便状態です。その為、アメリカで商売をしている日本の主要企業とその関連会社は、キュ-バでビジネスができません。

 日本車は古いトヨタを1台、ホンダを1台見ました。ダットサン(?)のマ-クの入ったハンドルも見ましたが、車体は別の車でした。車が古い分、問題もあるようで、道路わきで故障している車も一日に数台見かけました。また、排ガス規制がゆるいのか黒い排ガスを出している車もありました。ツアーの人でロストバゲッジ(※注)にあった人が居て、到着次の日に空港まで取りに行くことになりましたが、フロントで車の手配を頼むと、フロント係の友人を紹介されました (たぶん闇タク?) 。その車がまた時代物で、映画で自動車泥棒がやるように、回線をショートさせてエンジンをかけていたそうです。警察の取り締まりを避けるためか、高速ではなく下道を走るので、人々の暮らしの様子が良く見えて面白かったとのこと。車は貴重品であるためか、古く塗装が厚くぼろく見えるけれど、傷がついたりへこんでいる車は少なく大切に使っているようです。観光用のクラシックカー(ピンク色のオープンカー)にも乗りましたが、座席が固く乗り心地は今一つでした。三輪車を改造した豆粒のようなココタクシ-にも乗りましたが、スピ-ドをだしスリル満点でした。車の量は日本とそれほど変わらないように思いました。なお、私たちのバスは冷房のよく効いた中国製でした。

2. 銅像・肖像

 ゲバラの像はゲバラ霊廟と革命広場で見た2回だけでした。ただ、土産物屋にはTシャツ、栞(しおり)、写真他沢山ゲバラが並んでいます。たぶんゲバラファンの観光客が多いのでしょう。カストロの像や、肖像はみませんでした。聞くところによるとカストロは偶像化されることを嫌っているとか。自分の像を駅前(強引に誘致した)に作らせたり、大学正面に生前から自分の像を作らせる日本のエライ人に比べれば、なかなか立派なものです。

3. 夕涼み

 キュ-バの庶民の家はエアコンが無いようで、夕方には玄関の外の椅子に腰かけ、涼をとっています。また、近所の人と雑談したり、飲み物を飲んだりしています。昔の日本の夏の風景を思い出しました。

4. カナダ国旗

 住居の玄関のドアにカナダ国旗が描かれていたり、また、カナダの国旗を飾っている家(どれも立派でない庶民の住宅)を数軒見かけました。現地ガイドに聞くと、カナダからはニッケル鉱山の開発や、油田、天然ガスの開発で関係が深いとか。また、小麦粉などの食料もカナダから輸入しているそうです。庶民の間にもカナダに対する親近感が強いのでしょう(なお、日本に対する親近感も良いそうです。ゲバラは革命後、日本を訪問し、広島にも出かけ、それ以降、キューバの教科書に、広島・長崎の原爆の記述が載ったそうです。)

5. 病院

 ム-ア監督の映画「シッコ」で、ム-アがアメリカの医療制度から見放された患者を連れて、キュ-バにわたり無料で治療を受けるシーンがありましたが、キューバの医療は充実しているようです。ハバナで広い駐車場のついた大きな比較的新しい建物がありました。ガイドの説明では中央病院とのこと。中央官庁・防衛省・共産党本部・国会図書館などは、ところどころ修理が必要に思えるような古い建物でしたが、それに比べると立派な建物です。医療にかける情熱は半端ではないようです。人口当たりの医師数は日本の3倍で、しかも無料です。人口が1130万人ですが医科大学は24校(日本は医学部が80)、2015年の平均寿命は79歳(日本は84歳、アメリカは79歳) 。立派と思ったのは、南米諸国や、発展途上国から医学留学生を無料で受け入れ、また、大勢の医師を必要とされる国々に派遣しています。それらの留学生は故国に帰り、キューバと草の根の部分で友好的な関係が築かれているそうです。

※注 lost Baggage = 飛行機に乗る際に、預託荷物(貨物室に入れる荷物)として、航空会社に預けた荷物が目的地で受け取れなくなること。途中の空港で乗り換えがある場合、荷物も当然載せ替えなければならないが、この時に間違った便に積まれたというのが原因であることが多く、大抵は1日待てば手元に送られて来る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**伊太利亜旅行より**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月03日 | 川西自然教室

伊太利亜旅行より

田中 廉

 10月27日より、4泊6日でバチカン国際音楽祭鑑賞の為にロ-マに滞在ということに。急に決まったので24日の「道路ネット」の例会に出られない旨、藤井さんにメ-ルしたところ、「イタリアの自動車事情など書いてください」との依頼。遅まきながら思い出しつつ書いています。

 アリタリア航空で成田からロ-マまで直行する予定でしたが、なんと8時間遅れとのことで、航空会社の手配で5時間ほど近くのホテルの部屋で休憩となりました。美味しい昼食も付き少し仮眠もでき、私としては面白い体験でした。ロ-マ着は27日夕方が28日の朝となり、結局3泊6日の旅となりました。

 ロ-マ市内は石畳の道が多く、私の様に年を取ってすり足気味の者は、気を付けないと足をひっかけそうになります。町中ではマンション・事務所に専用の駐車場は少なく、多くは路上駐車です。そのため小型車が多く、日本の軽自動車より小さい二人乗りのSmartという車が目につきました。この小ささを武器に路上駐車も、縦列でなく頭から駐車しているのをよく見かけました。一人乗りの車も2台見ました。これは更に小さく、何か人間魚雷の操舵室のような感じで、圧迫感があり乗りたいと思うような代物ではありませんでした。

 バスの中からわかる範囲で調べると、駐車中、走行中の日本車のシェアは10%弱で、韓国車は7~8%ほどでした(インターネットで調べると2014年の新車登録では日本車は9.0%、韓国車は5.0%)。海外に行くと、日本車と韓国車の普及率を知らず知らずのうちに数えています。概していうと、田舎では両国の車のシェアは低く、都会で多くなります。これは都会の方がコストパホ-マンス重視で、外国車に対する抵抗感が少ないのでしょう。また、発展途上国では韓国車の比率は高い傾向でした。これは単純に経済性でしょうか。

 何故、アジア車にこだわるかというと、西洋社会でどれ程「アジア」が受け入れられているのかに関心があるからです。私は米国資本の会社で長く働いていました。一つか二つ上ぐらいまでの上司は日本人ですが、その上はアメリカ人です。アメリカ人は概して明るく友好的です。個人的には好意の持てる人たちです。しかし、人種差別というか、白人の方が政治経済、文化面で優れているという意識は根強いものがあると思います。いわゆる『文明国』のほとんどは欧米諸国で、圧倒的な富と力を持っています。

 ノーベル賞受賞者も、最近日本人、中国人が多くなったとはいえ、80~90%は欧米人です。近代は欧米人が圧倒的に世界を支配してきました。国連でも常任理事国が強大な権利を持ち国際政治を支配しています。私たちが接する世界のニュ-スの発信源のほとんどは欧米です。このような現実に接していると、自然と欧米人=白人は、自分たちは有色人種より優れているのだと、意識下に刷り込まれてしまうのではないかと思います。

 1986年、中曽根首相が黒人、プエルトリコ、メキシカンに対する差別発言をし、米国の下院で非難決議が出される寸前まで行くという、大問題になったことがありました。その時、私は米国に滞在中でしたが、なんと馬鹿な発言をしたのかと思いました。白人、特にエリ-ト層にとって、人種差別発言は社会的地位を失うほどの失態です。米国では人種差別を克服するため、多大な努力をしています。ヘイトスピーチは論外で、人種差別には社会的に大きな制裁が加えられています。米国ではコマーシャル、パーティーなどでは、その中に何人か黒人、時にはアジア人が入っています。

 しかし、共和党の大統領候補であるトランプ氏が、人種差別発言を繰り返しているにもかかわらず、25%ほどの支持率があるということは、その差別意識が白人保守中間層に支持されてからだと分析されています。それほどに人種差別の根は深いのです。それほど強くなくても、「現実社会を見れば自分たち(欧米人)の方がうまくやっている」という意識は有るのだと思います。それを打破するにはどうするか。

 私たちの親の世代は、中国人や朝鮮人に対する差別意識、日本人の方が優れているのだという意識が強くありました。その意識は当時、経済的に日本の方が進んでいたという事実に、裏打ちされていたのではないかと思います。しかし、今ではどうしようもないレイシストを除いて、人種的に日本人の方が優れていると言わないし、思いもしないでしょう。それは経済的に両国の力が付き、日本と同じようになってきたからだと思います。

 事実が偏見をなくしたのです。欧米人の認識を変えさせるには、有色人種諸国、現時点では日本・中国・韓国・インドをはじめとするアジア諸国が力をつけ、彼らの目の前に現実として、「同等の能力を持つ」ということを示すことが大切だと思います。そうすれば、我々が変わってきたように、彼らの認識も徐々に変わって来るのではないかと思います。

 そういうわけで、中国・韓国・インドさらにはベトナムなどが力をつけ、その存在感を示すことは面白いと考え、期待しています。そのうちに中東、アフリカ、中南米の諸国も同じように、経済的・文化的にも力をつけ、差別をブッ飛ばすようになるでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**「抑止力」について**<2015.7. Vol.90>

2015年08月06日 | 川西自然教室

「抑止力」について

川西自然教室 田中 廉

 安保法案について何か書きたいという気持ちがあるのだが、資料を調べるという作業が進まず今回は諦めることにした。

 ただ、「抑止力」について疑問に思うので少し述べたい。「抑止力」には軍事面だけでなく、交渉力、経済、人的交流などがあると考えるが、今回法案推進派のいう「抑止力」の主たる部分は「軍事力」だと思うので、ここでは「抑止力=軍事力」として話を進める。「抑止力」が本当にその国を侵略から守り「平和」を保証するのだろうか?

 もしそうであれば、最大の軍事力を誇るアメリカは戦後70年間どうして戦争をし続けるのだろうか? 確かに自国は攻撃されていないが、多くのアメリカ兵が死傷し、また、その戦費(特にベトナム戦争)によりアメリカ経済は大きな痛手を被った。第2の軍事大国であったソ連もアフガニスタン戦争で双方に多大な被害を与え、結局その「抑止力=軍事力」維持のため経済が圧迫され、それが主因で政権は崩壊した。

 双方とも、その「抑止力」を使って海外で戦争を行い、自国民、他国民、そして戦場の生き物に甚大な損傷を与え、その国の国民の憎しみを買っている。少なくとも両大国では、自国侵略阻止の為に「抑止力」が働いているわけではない。資源を確保し、自陣営の経済圏を守るというが、それは粘り強い交渉で解決すべきものである。

 イラクのフセイン首相がいかに「ならず者」でアメリカに反抗的で、自国民の弾圧があったとしても、またイスラエルにとって目の上のたんこぶであろうと、「大量破壊兵器を所有している」などのウソの理由で戦争を仕掛けるなど、言ってみれば言いがかりでケンカを吹っ掛ける「ならず者」と同じである。アメリカの中東介入は「パンドラの箱を開ける」と中東関係の識者によって懸念されたが結局はそうなった。大きな重しを外された中東は収拾のつかない状態である。そして、アメリカは手を引けば親米政権は崩壊し、石油などのアメリカの権益を失うので、引くに引けず泥沼にはまった状態である。

 米国が安倍首相の訪米を上下両院会議で演説をさせるなど大歓迎したのは何故か? アメリカは、尖閣諸島は日本領土であると認めていない。そこで、日本のために、強大な市場出会を失い、国債(借金)の最大の購入国を失うデミリットを冒してまで中国と軍事衝突をする危険をとるとは非常に考えにくい。日本に期待するのはアメリカの戦費削減の穴を日本に埋めてもらう、つまり、一番金のかかる戦争、中東での「対テロ戦争」を手伝ってもらうことではないか。

 中東諸国は非常に親日的である。どんな理由を付けようともアメリカの手伝いをすれば自衛隊員が殺し、殺すこととなり、日本が営々と築いてきた平和国家のイメージは崩壊し、中東での日本の評価は庶民レベルでは大きく地に落ち、中東でのNPO・NGOの人たちが攻撃され、活動の大きな障害になることは間違いない。

 話が横にそれたので元の「抑止力」に戻る。「抑止力」が働くためには、少なくとも相手と同等の戦力を保持するか、攻撃に対しては相手にもそれ相当の被害を与える程度の軍事力を持つ必要があるという。ただ、そこに落とし穴があるような気がしてならない。両国間に何か重要な権益にかかわる問題が起こった場合、特に、領土などではお互い「自国だけが正しい」と主張し、「メンツ」がかかるような場合、交渉による妥協が難しくなるのではないか。

 機密保護法で、国民には政権に都合の良い情報しか与えらず、交渉が難航するとお互いの国のマスコミが、相手の国に対する憎悪を高め、勇ましい意見が幅を利かすようになる。反対意見に対しては「国賊」、「非国民」、「売国奴」などの汚い言葉が新聞、ネット、TVで叫ばれるようになるだろう。その時点では、政権内部であっても現実主義派がまっとうな意見は言いにくく、又は言えない雰囲気になる。相手に負けない「抑止力=軍事力」があればあるほど何故譲歩するのかとの大衆の不満を抑える為にも、軍事力をちらつかせた交渉になるのではないか。

 交渉には、相手はこう出るであろうという読みがあり、相手の反応によっていろいろと戦術を練る。先の両大戦、そして湾岸戦争などのいろいろな戦争、紛争の後、講釈というか、記録、証言などを見ても、相手の意図を読み違えたり、望んでいないのに戦争に引っ張り込まれたなどの記述がある。

 「抑止力」が強力であればあるほど、自国に都合のいいように状況を解釈し、妥協できず武力衝突に流されていく可能性が高くなるのではないか? 「抑止力」がなければ常に交渉で譲歩を強いられるというのは果たしてそうだろうか? 弱ければ常に妥協を強いられ最後は侵略されてしまうものだろうか?

 そうであれば、圧倒的な軍事力を持つ、アメリカ、ソ連が戦後も国土を広げていたであろう。戦後、国際的に認められている国境を越えて国土を広げようとしたのはフセインのクエート侵略、そして現にパレスチナ領に侵略し続けているイスラエルぐらいではないだろうか。

 軍事力には国によって差が大きい。だからと言って強い国の意見がいつも通るわけではない。ごり押しすれば失うものも大きいからである。自国の安全ということを考えると、隣国と友好関係にあるのは最大の安全である。軍事的な脅しで解決しても友好関係は築かれない。結果、おのずから双方に少し不満がくすぶることもあっても、妥当なところに落ち着くのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**ワイツゼッカー元ドイツ大統領の死を悼む**<2015.3. Vol.88>

2015年04月06日 | 川西自然教室

ワイツゼッカー元ドイツ大統領の死を悼む

田中 廉

 1月31日、ワイツゼッカ-元ドイツ大統領が死去した。彼は戦後40年にあたる1985年5月連邦議会で有名な演説を行った。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という「荒れ野の40年」である。この時の演説はナチスによる犯罪を「ドイツ人全員が負うべき責任だ」と強調し、戦後の戦争責任を語る際の規範として日本などにも大きな影響を与えたとされている。今回恥ずかしながら初めて彼の演説を読んだが、素晴らしいものだった。今の日本の現状を考えるとき参考になる部分が多いので、以下、感動した部分を少し長くなるが感想を含め紹介したい。

A. 「今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。しかしながら、先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。」

B. 「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ、現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

C. 「われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃(たお)れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。ことにドイツの強制収容所で命を奪われた600万のユダヤ人を思い浮かべます。戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポ-ランドの無数の死者を思い浮かべます。今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼(ひとう)の念とともに思い浮かべているのであります。」

D. 「人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう。中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝(さら)しているのだということを考えていただきたい。」

E. 「ヒトラ-はいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。」

 そして最後に「自由を尊重しよう。平和のために尽力しよう。公正をよりどころにしよう。正義については内面の規範に従おう。」で締めくくっている。

 A.の「過去を引き受ける」は何を意味するのだろうか。それは、過去の過ちを隠したり、ごまかしたりせず直視し、その間違いを認めることだと思う。誰しも自分の過ちは認めたがらない。認めるには勇気がいる。しかし、それなくしては前進できない。B.では、過去の過ちを語り継ぐこと、具体的には子供たちに学校、放送、出版などで教育することの重要性が語られている。「後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません」の部分では、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」「関東大震災のときの朝鮮人虐殺」を否定しようとする国内の保守・右翼の動きを思い浮かべる。C.では、強制収容所、ソ連、ポ-ランドの戦死者につては述べられているが「侵略」という言葉は使われていない。村山談話では「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」となっており日本の方がすっきりしているという印象を持つ。D.では「ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝(さら)しているのだということを考えていただきたい」に注目している。私は個人的にパレスチナ問題にかかわっており、ワイツゼッカ-元大統領が、「ナチによるユダヤ人虐殺が欧米の同情をよび、列強の都合によるイスラエル建国がパレスチナ人に多大の重荷を負わせ今日のパレスチナ問題が生じたのだ」と断じていることに共感を覚える。

 E.の「ヒトラ-はいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました」は、まさにヘイトスピ-チや、ネトウヨの隣国に対する憎悪を思い出させる。

 今年は戦後70年の節目に当たり、安倍首相は「談話」を予定しているとのこと。彼が戦争責任をどう語るかは日本だけでなく世界が注目している。過去の非を認めるには勇気がいる。彼が真に勇気ある行動をとることを期待する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』憎しみは愛よりも強し**<2014.9. Vol.86>

2014年09月30日 | 川西自然教室

憎しみは愛よりも強し

田中 廉

 最近の新聞、週刊誌、TVなどを見ていると、憎しみの威力は超大型台風のようである。つくづく、ルソーの言葉「理性、判断力は歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」(エミ-ル)の通りだなと思う。

 今は、従軍慰安婦問題に関しての朝日新聞バッシングに隠れてはいるが、この数年、嫌韓、嫌中報道はマスコミの絶好の「飯のタネ」であった。両国の事を批判的というか、悪く書けば「売れる」ので、マスコミは書き、報道する。

 これらの情報に接した人は、自分の感情に沿った話なので抵抗なく、気持ち良く受け入れ、憎しみに確信を深め更に新しい情報を求める。その繰り返しである。どの国にもはねっ返りというか馬鹿な人間はいる。彼等の相手の国を誹謗中傷する行為を書き立てれば相手に対する嫌悪感が生まれる。

 何度も同じようなことを読み聞きすれば、知らず知らずのうちに不法行為をするのが、一部の人間でなくその国の国民全体のように感じ、話の通じない、不道徳な国民性だという感情が芽生えてくる。差別意識、偏見の誕生である。その延長として恥ずべき「ヘイトスピ-チ」がある。

 「皆殺しにするぞ」とか、「国に帰れ」等、普通の人であれば口にしない言葉を平気で大声で叫び威圧する。醜いとしか言いようがない。今や、あの韓流ブームはいったいなんだったのかと思うほどである。

 私は、中国は大国主義的な行動が目につき、韓国は感情的すぎるし、主張の幾つかについてはおかしいと思う。が、今の嫌中、嫌韓は行き過ぎだ。100%正しい人や国がないように、100%悪い人や国もない。もっと冷静になり、相手と自分の国を観るべきである。もし自分が相手の立場であればどう感じるかということを想像してみるべきだ。

 村山談話、河野談話で戦前、戦中の行為に謝罪し、どの政権も口ではこれらの談話を引き継ぐと言っておきながら、政府閣僚が談話の内容に異議を唱え見直しを言う。これは「すみません」と謝っていながら横を向いて舌を出しているようなものである。

 内容に異論があろうとも、少なくとも政府高官が発言すべきことではない。相手に不信感を与え、中韓だけでなく世界で、「やっぱり日本は反省していない」と思われても仕方がない。こちらが嫌えば相手もこちらを嫌う。中国、韓国でも嫌日感情は非常に強いと聞く。

 このままでは、ちょっとしたボタンのかけ違いで武力衝突にもなりかねない。そして、憎しみが沸騰すれば、その衝突が戦争に突き進む可能性もある。特に、どちらかの国で経済的に行き詰まり、閉塞感があればなおさらである。そうならないために我々は、頭を冷やし賢くなる必要がある。

 とりあえずは、嫌中、嫌韓を売り物にしている週刊誌、新聞は買わないことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』徳本上人名号碑**<2014.7. Vol.85>

2014年07月26日 | 川西自然教室

徳本上人名号碑

井上道博

 川西市山下の戦国時代 山下城跡の上り口に、文政10年(1828)建立の「南無阿弥陀仏」と刻された徳本上人の名号碑が立っています。蔦文字と言う独特の文字で、一度見たら忘れられないものです。

 先日、思い切って神戸東灘区住吉にある徳本寺を探しに行きました。阪急御影駅から山側東の坂を上り20分ほど、白鶴美術館の西隣りにありました。入口に「徳本上人遺跡」とあり、石段の上に高さ182cm六角形の巨大な名号碑が立っていました。徳本上人を紀州からこの地(赤塚山)に迎えたのは住吉村の旧家吉田喜平治で、寛政10年(1798)のことで上人はここに草庵をつくり行場としていました。毎月15日、遠近からの信者が参詣して一万遍名号を授かったという。そしてここに3年間とどまって住民を教化したようです。私は行かなかったのですが西の坂の上に上人の坐禅石が残っているそうです。なお上人を迎えた吉田家は南北朝の公卿吉田定房の子孫といいます。

 徳本上人は、宝暦8年(1758)和歌山日高の生まれ、幼名を三之亟といい、4歳の時隣家の子供の急死に無常を感じ、9歳で出家を志したが許されず、18歳で父の死にあい、27歳で出家したという。父が死んで以来「常坐不臥」すなわち常に坐禅し夜も横にならない生活を一生続けた。一日1合の豆粉・麦粉を口にするだけで念仏を唱えた。故郷の日高では、断崖絶壁の岩上で約3年、千日苦行を行った。その後全国を木喰戒をしながら歩き、念仏を広めたといい、その壮絶な生き様が我々の心を打ちます。

 晩年には、法然上人に憧れて享和元年(1801)から文化11年(1814)、西国23番札所勝尾寺の松林庵に迎えられた。文政元年(1818)、江戸小石川の一行院で入寂、61歳であった。

 川西山下に建っているのは、年号から見ると上人の死後村人が上人をしのんで建てられたもののようです。全国には徳本名号碑が千基近くもあるそうです。江戸時代にはこんなすごい人がいたのですね。皆さんの近くにもひっそり徳本碑がありませんか。

一万億 何遠からん 一声ごとにいき通りなり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**パレスチナ紀行**<2012.5.&7. Vol.73>

2012年07月04日 | 川西自然教室

パレスチナ紀行

田中 廉

 今年2月28日から3月14日まで私が所属する日本聖公会(キリスト教、英国国教会系)の「エルサレム教区協働委員会」主催の「新しい聖地旅行」に参加しました。参加者は女性7名、男性3名に、現地でヨーロッパからの3名が参加し総勢13名でした。「聖地旅行」に「新しい」と冠がつくのは2つの理由からです。第一は今までの聖地旅行ではイスラエル観光局認定のガイドが自分たちに都合の良いように案内、説明し、本当のパレスチナの現状がわからないこと、第二はエルサレム教区の主教が訪日された時の言葉「キリストが十字架にかかり、復活された土地で、観光客用の教会ではなく、生きた教会を訪問してほしい」に応える為です。今回は「イエスが歩かれた道を歩こう」ということでナザレ→ジェニン→ナブルス→ラマナ→エリコ→ベツレヘム→エルサレムの170kmコース(地図参照)でしたが、途中車での移動もあり、実際歩いたのは7日間で100キロ余りでした。宿泊はホテルだけでなく、クリスチャンの家、イスラム教徒の家、難民キャンプ、ベドウィンのテントに泊まりホストの人たちと交流を深めました。断片的ですが、自分が見聞きしたことを中心に気付いたことを記します。

1.シオニストのスロ-ガン「土地無き民に民無き土地を」の欺瞞

 イスラエル元首相のゴルダ・メイヤ夫人は「パレスチナ民族などは存在しない。……われわれが彼らを追い出し土地を奪ったのではない。彼らは存在しないのだ」(『サンデ-・タイムズ』69・6・15)と語りました。旧約聖書にはパレスチナは「乳と蜜の流れる土地」として描かれています。そのような豊かな土地に人が住んでいないとは論理的矛盾であり、また事実の歪曲ですが、学校でそう教えられユダヤ人は「自分たちが荒野を開墾した」と信じているか、そのふりをしているようです。

 ウオ-キングはパレスチナ自治政府西岸地区北部のジェニン郊外から始まりました。ガイドはパレスチナ人ですが、まず最初に畑の周辺に植えられているサボテンの垣根を指さし、「パレスチナでは畑の境界にサボテンを植えている。イスラエル兵が来て家を潰し、ブルド-ザ-で畑を更地にしてもサボテンは植物体が少しでも残っていれば再生する。もしこれからイスラエルに行き、サボテンが荒野に生えていたらそこにはかってパレスチナ人の村があったことを思い出して欲しい」と言われました。イスラエル政府はパレスチナ人から土地を収奪すると、そこを更地にし、地名もヘブライ語に変え、そこにパレスチナ人が住んでいた痕跡をなくし入植者に渡すようなので、入植者は自分たちが無人の荒野を開拓したと錯覚するようです。(イスラエルでは潰されたパレスチナ人の村の名称の入った地図の入手はきわめて難しいそうです。図書館にもないとか)パレスチナの春の野は豊かです。丘陵地帯ではアネモネ、ラナンキュラス、シクラメン、チュ-リップ、アヤメ、ムスカリなど園芸品種の原種たち、地生ラン、マメ科、キク科ほかの多種多様な野草が咲いていました。アネモネの咲く野で草をはむ羊たち、岩陰で風にそよぐピンクのシクラメンの群落、踏みつけねば通れないほどの小さなアヤメ類の大群落、陸ガメ3匹、蛇、大きなカエル、ミツバチの巣、猪(侵入あとのみ)などにも出会い、自然豊かでした。平地では主に麦、マメ類、トマトほかの穀物、野菜類や、ア-モンド、オリ-ブなどの果樹が栽培される農業地帯です。南下するに従い野の花は少なくなり、エリコ辺りでは礫砂漠でしたが、少ない草を求め放牧がおこなわれていました。ガゼル(野生のシカ)に出会ったのもこの礫砂漠です。ベツレヘム、エルサレム周辺ではオリ-ブが栽培されていました。このように、その土地の条件にあった方法で農業、牧畜がおこなわれており、決して無人の土地ではないことが良くわかりました。

2.年々広がる入植地

 エリコ郊外で入植地の横を通りました。高圧電流フェンスで囲まれた中は緑豊かです。今回4回民泊しましたが、どこでも水は貴重でシャワ-の設備はある(ベドウィンキャンプは無い)のですが使用した形跡がなく、シャワ-使用はホテル泊だけでした。しかし、入植地では街路樹、芝生の維持にもふんだんに水を使用しており、その水は地下水、またはヨルダン川からの水です。そして地下水の水位が下がると水位を上げるためにパレスチナ人の村に来て井戸のバルブを止め、パレスチナ人はその間高い水をイスラエルの業者から買わざるを得なかったそうです。ジェニン近郊の山の尾根沿いにフェンスがあり、その向こうはイスラエル軍基地で近づくだけで銃撃される危険があるのでその近くは通れないとの話でした。その基地も元はパレスチナ人の農地だったのが、イスラエル政府が「軍事的理由」で没収したそうです。農民は今自分が耕している土地がいつイスラエル政府によって略奪されるのか戦々恐々としているそうです。ベツレヘムでは小高い丘の上に入植地があり、フェンスにくっつくようにしてパレスチナ人の家屋があります。何度もこの地を訪れている同行者は「来る度に入植地が拡大している。拡大された土地に住んでいたパレスチナ人たちはどうなったのだろう」と心配していました。入植地拡大により、西岸地区では水の便のいい豊かな土地、水資源が奪われ続けています。水の量は一定なので入植地の緑が濃くなればその分、パレスチナ側が水不足に悩まされる場面が多くなります。緑豊かな入植地の本質は、「銃剣で奪った美田の移民村」(鶴彬[ツルアキラ]、1938年勾留中に29歳で死亡)だと思います。

3.友好的なパレスチナの人々

 パレスチナの人たちは非常に友好的です。丘の上まで一緒に歩いて見送ってくれたお祖父さんと、可愛い女の子、トマト農家では抱えきれないほどのトマトをもらい、パン屋では1枚買ったのにおまけが3枚、子供たちはすぐに寄ってきて話しかけてきます。村々では、挨拶すると“Welcome,welcome”と返事が返ってきます。ただ、男性は高校生以上の女性には声をかけないようにと、後で注意を受けましたが……。また、経済的に非常に困難な状況にあるにもかかわらず、パレスチナ人は誇り高く物乞いはいません。民泊で非常に良くしていただいたので帰りに謝礼を渡そうとしたら頑として受け取りませんでした。(プレゼントは受け取ります)

4.モスレムとクリスチャンの関係

 関係は良好です。民泊したクリスチャンの家はモスレムの多く住む地区にありますが、近所付き合い、安全ともに問題は全然ないとのことでした。奥さんは聖公会(キリスト教)系の学校の先生ですが、そこでは生徒の半数はモスレムの子弟だそうです。また、ベツレヘムの聖誕教会では、イスラエル兵に追われた多くのモスレムを匿い、何日もイスラエル兵に包囲されて、狙撃により数名の死傷者を出したそうで、壁にその時の銃弾の跡が残っていました。ただし、結婚はクリスチャン同士であれば宗派に関係ないが、クリスチャンとモスレム間は非常にまれとのことでした。

5.イスラエル国内のパレスチナ人

 イスラエル国内には約20%のパレスチナ人が住んでいます。彼らはイスラエル国籍を持ち、自治政府のパレスチナ人より国外に出るのは自由ですが困難な状況にあることには変わりありません。ユダヤ人には兵役義務がありますが、敵対的国民と見られたパレスチナ人には兵役“義務”はありません。(就職のため入隊しようとするパレスチナ人青年もいるそうですが、隊内でひどいいじめにあうそうです)兵役を終えるとさまざまな保障が与えられますが、パレスチナ人には無縁です。兵役を終えたことを条件とする企業には就職できないなど、まともな職業には就けません。ナザレの教会(聖公会)の牧師の話では「私たちは人生のあらゆるところで差別を受けています。予算はユダヤ人中心でパレスチナ人には少ししか使われません。兵役終了ではないのでマクドナルドの店員にもなれないのです。」と就職の難しさを訴えていました。

6.より困難な状況に追いやられているパレスチナ人

  • イスラエル政府は、パレスチナ人の自尊心を失わせ、従順な二級市民化も目指しているようです。国連で不平等ながらもパレスチナ人の領土とされた西岸地区の60%はイスラエル政府が治安・行政すべてを握っており、そこではパレスチナ人が自分の土地に自分の家を建てようとしても許可がいります。そしてその許可は実際おろされることはないそうです。イスラエル政府の陰険なところは、どうしようもなくなって家を建てようとすると、費用を使わせて建てた後でブルドーザーが来て家を破壊し、しかもその取り壊し費用を請求するそうです。その支払いを拒むとそれは犯罪となり、その住民を自由に投獄できるフリーハンドを持つそうです。土地の収奪にしても、ユダヤ人に都合のいい法律をいくつも作りそれを組み合わせ、放棄財産、治安、軍事を理由に“合法的”に土地を接収し、住民を追い出し無人にした後“民事転用”し、ユダヤ人にリースし入植地を増やしています。
  • イスラエル国籍を持つパレスチナ人が、西岸地区のパレスチナ人と結婚したらイスラエル国籍を失うなど、イスラエル国内でのパレスチナ人比率の現状維持か、下げようと必死です。
  • 分離壁も見ました。その90%はパレスチナ側に食い込んで建てられており、そのためいくつものパレスチナ側の村や町が分断されていました。
  • イスラエル政府は西岸地区のパレスチナ人統治に自信を持ち始めたようです。旅行中ガザで交戦が行われたにもかかわらず、検問所通過は容易で、かつてはタクシーで市内に入るには自治政府ナンバー車に乗り換えていたベツレヘム市内でもイスラエルナンバー車が走っていました。また、国際社会の抗議にもかかわらず、入植地は年々拡大し昨年の入植地での住宅着工数は過去最大でした。
  • パレスチナ人の一番の問題は仕事がないこと。パレスチナ人の起業は、物資の搬入、輸出がイスラエル政府の管理下にあり、ガザ・西岸地区でも検問所があり、その閉鎖や検査が恣意的なため、非常に困難を伴います。検問所が開かず、乳製品、農産物がトラックの荷台で腐ってゆく丹生-巣も見ました(日本で)。イスラエル政府のやり方は陰険で、パレスチナ側に投資させ、金を使わせてから材料や製品の輸送の妨害をし、企業の経営が成り立たなくするそうです。なけなしの資金で事業を始めた人は立ち直れないほどの打撃を受けます。いま、JICAは西岸地区のエリコで農産物を加工する工業団地をつくるプロジェクトを2006年から進めています。ヨルダン国境にある幹線道路までわずか3kmですが、そこまでのアクセス道路の建設や、工業団地に必要な井戸の掘削をイスラエル側は許可していません。英国のthe Guardian紙は本プロジェクトに対し「日本は納税者に対して援助費用の正当性を示す必要が英米ほどは無いので、高リスクのプロジェクトへの投資が可能になっている」と書いています。このようにパレスチナ側が自力で何かやろうとしても常にイスラエルの妨害を受け、高失業状態が続いているのです。

7.私たちに何ができるのか?

 微力であろうとも、機会を見つけてパレスチナ人の窮状と、イスラエル政府の無法ぶりを周りに訴えること。イスラエル政府のやり方は、猫がネズミをいたぶっているように私には思えてなりません。

 次に、パレスチナ人を精神的、金銭的に支えること。一番いいのは、彼らに仕事の場を提供できることですが、これもイスラエル政府の妨害があり、なかなか難しいのが現実です。ガザはかつてヨ-ロッパに切り花を輸出していましたが、今はイスラエル政府の“制裁”でゼロとか。

8.最後に車と恐怖の出国検査について

 西岸地区ではタクシーがすべてベンツの新車でした。聞けばドイツからの援助だそうです。それまではいつ止まってもおかしくないほどのポンコツ車だったそうです。それと西岸地区では自家用車は韓国車が多かったです。しかも新車です。日本車はかなりの年代ものしか走っていません。これが、イスラエル国内に行くと韓国車より日本車が多く、新車も多いです。やはり所得に大きな開きがあるのでしょう。

 出国検査は極めて懲罰的です。パレスチナ側からの視点で描いたパレスチナの歴史書(西岸地区の本屋で堂々と販売している)を持っていた女性がいましたが、その購入先を詮索され、コーヒ-粉や豆類の粉の袋に外から検査と称して針で穴をあけられトランクは粉だらけ、さては衣類をしつこく検査されました。そのくせ他の人でトランクに水の入ったペットボトルを取り出し忘れた人がいましたが、そのまま検査で引っかからないなどいい加減です。一緒に行った牧師さんは以前、イスラエルの核保有を内部告白したイスラエルの科学者の写真を持っているのが見つかったために、パソコンを調べると称して持っていかれ搭乗時間間際に返されましたが、日本に帰って動かそうとしたら完全に潰れていたそうです。それと出国検査では日本語のわかる係員がいますので注意が必要です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**忘れてはならない事**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月03日 | 川西自然教室

忘れてはならない事

田中廉

 新年なので明るい話をと思うのですが、困難な状況にある被災者の人たちのことを思うとやはり昨年の東日本大震災と福島第一原発事故について書きたいと思います。

 私は6月に福島県いわき市、11月に岩手県大槌町にボランティアで行きました。ボランティアに行きたいと思う人は多くいると思いますが、受け入れ側の態勢ができていないとそれもできず、思いがあっても参加できなかった人も多いと思います。私の場合は所属する教会とパレスチナの子供の支援団体が現地で活動しており、そのおかげで思いを果たすことができました。6月はがれきの撤去や農作業の手伝いなど、11月は仮設住宅の集会室でカフェ-を開き、私はお茶係で他のメンバ-が編み物指導などで被災者の人たちの団らんの場を作る活動でした。

 大槌町はすでに瓦礫は撤去され、津波に流されなかったビルがいくつか残るだけで、他は建物の土台を残して何もなく、写真で見る原爆投下後の広島のような風景でした。手作業で行うボランティアのやることは、業者の仕事量から見るとわずかなものです。それでも被災者の人たちは非常に喜んでくれます。それは、自分たちのことを心配してくれている人たちがいる、自分たちは忘れられていない、と実感するからだと思います。被害の状況は地域により、また同じ地区でも場所により大きく異なります。

 福島県いわき市では津波に加えて、原発事故の影響が大きくより困難な状況にあります。農作業を手伝ったいわき市の農家の人は、「何年もかけやっと有機栽培の認定をとり、販売ルートの開拓もしたのに、これですべての夢が破れた。」と、嘆いていました。

 大槌町のカフェ-では、多くの人の話を聞くことができました。編み物をしながらの住民同士で、また、昼食で多くの人が帰った後も残っていた、数人の人から被害の状況や、当日の様子、仮設生活の現状などです。その中で80何歳のおばあさんの話が一番印象に残っています。足が悪く杖を頼りに歩いていますが、当日息子さんが車で迎えに来てくれて自分は助かったのですが、そのため、自分より若い奥さんの両親の救出が間に合わず津波で亡くなったのです。「何もできない自分より若い人が助かった方がよかったのに―――」というつぶやきに、かける言葉がありませんでした。

 車で逃げようとして多くの人が亡くなった事実もあれば、車でなければ助からなかった事実もあります。高齢化が進むことより、今後歩行困難な人たちの避難はどうするのがいいのかも、考えなければいけないでしょう。

 被災地の多くで湾岸部が大きく地盤沈下したこともあり、復旧は進んでいません。仕事も激減し、被災者の将来に対する不安は想像にあまりあります。今後の復興には巨大な費用が掛かります。そしてその多くを税金という形で私たちが負担しなければならなくなるでしょう。

 ただ、復興のための税金が、他の減税で消えてしまうのでは何のための税金かわかりません。やるべきことをやって、税金が増えることは仕方ないと思いますが、それは個人も企業も同じように負担しなければいけません。消費税のように、その税額とほぼ同じ額が大企業の減税に使われているのであれば、それは詐欺です。今後も被災地復旧、原発廃止について、税金の使い方も含め関心を持ち続けたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**もっと怒ろう!!(省力的、効果的に怒る方法)**<2011.9. Vol.70>

2011年09月02日 | 川西自然教室

もっと怒ろう!!(省力的、効果的に怒る方法)

川西自然教室  田中 廉

 9月19日、「さよなら原発5万人集会」が東京明治公園で開かれ、会場に入りきれないほどの人が集まり、主催者発表で6万人の大集会であった。ところが翌日の新聞(朝日、読売朝刊、兵庫県)には一行も載っていない。朝日が天声人語で少し述べているだけである。脱原発では最大の集会であるし、たぶん、沖縄以外ではこの10年か20年で最大の集会ではないかと思う。それが一行も報道されない!! 読売はいまだ原発推進だから政治的に無視したのかもしれないが、朝日は脱原発だと思っていたのにいったいどうしたのだろうか? 電力会社を含む政財界の顔色を窺ったのだろうか? わたしたちは、このような「おかしいこと」に出会ったときにいかにして自分の意志を示し、望む方向に向けるようにしたらいいのだろうか? 集会で大江健三郎氏は「私たちは原発に抵抗する意思を持っていることを、想像力を持たない政党幹部や経団連の実力者に思い知らせる必要があります。そのためにできることは、民主主義の集会、市民のデモしかないのです」と述べている。集会、デモ、署名、カンパ、これらはすべて意味があり大切な行動である。しかし、集会当日に他の用事があったり、また、遠方であったり、体力的に参加したりできないこともある。心の中で応援し、祈るだけでは物足りない人には、家にいてもできる抗議行動がある。おかしい報道(報道しないことも含め)があれば新聞社、放送局にメール、または電話で抗議の声を上げることである。私は今回の集会未報道で朝日に電話した。最初女性が出て、内容を聞くと記事担当の部署に回された。そこではこちらが一方的に文句を言い、相手は聞くだけである。暖簾に腕押しの感が無きにしもあらずだが、それでいいのである。こういう抗議行動がいくつか積み重なると上の方はそれなりに考えるのである。これは対行政でも同じである。新しいところでは、この九月に福島県の花火を愛知県日新町で打ち上げる予定であったが、市民より約20通の問い合わせや苦情の電話やメールがあり、市当局と商工会議所は使用中止を決めた。それが報道されると全国から2日間で中止への抗議のメールが1100通、電話が750通ほどが殺到し、結局市長と商工会議所会長が福島県の某市と花火会社を訪れ謝罪する羽目になった。このことはメールや電話が非常に大きな力を持っていることを示している。また逆に、よい記事や番組があった時は「良かったよ」とメールや電話することも重要である。現場で頑張る人々の大きな励みになり、また、良心的な番組をつぶそうとする者への強力な武器になる。体力が下降気味の我々は、このような省力的、かつ効率的な方法も含め「おかしいこと」に抗議、激励の声を上げようではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする