パレスチナ紀行
田中 廉
今年2月28日から3月14日まで私が所属する日本聖公会(キリスト教、英国国教会系)の「エルサレム教区協働委員会」主催の「新しい聖地旅行」に参加しました。参加者は女性7名、男性3名に、現地でヨーロッパからの3名が参加し総勢13名でした。「聖地旅行」に「新しい」と冠がつくのは2つの理由からです。第一は今までの聖地旅行ではイスラエル観光局認定のガイドが自分たちに都合の良いように案内、説明し、本当のパレスチナの現状がわからないこと、第二はエルサレム教区の主教が訪日された時の言葉「キリストが十字架にかかり、復活された土地で、観光客用の教会ではなく、生きた教会を訪問してほしい」に応える為です。今回は「イエスが歩かれた道を歩こう」ということでナザレ→ジェニン→ナブルス→ラマナ→エリコ→ベツレヘム→エルサレムの170kmコース(地図参照)でしたが、途中車での移動もあり、実際歩いたのは7日間で100キロ余りでした。宿泊はホテルだけでなく、クリスチャンの家、イスラム教徒の家、難民キャンプ、ベドウィンのテントに泊まりホストの人たちと交流を深めました。断片的ですが、自分が見聞きしたことを中心に気付いたことを記します。
1.シオニストのスロ-ガン「土地無き民に民無き土地を」の欺瞞
イスラエル元首相のゴルダ・メイヤ夫人は「パレスチナ民族などは存在しない。……われわれが彼らを追い出し土地を奪ったのではない。彼らは存在しないのだ」(『サンデ-・タイムズ』69・6・15)と語りました。旧約聖書にはパレスチナは「乳と蜜の流れる土地」として描かれています。そのような豊かな土地に人が住んでいないとは論理的矛盾であり、また事実の歪曲ですが、学校でそう教えられユダヤ人は「自分たちが荒野を開墾した」と信じているか、そのふりをしているようです。
ウオ-キングはパレスチナ自治政府西岸地区北部のジェニン郊外から始まりました。ガイドはパレスチナ人ですが、まず最初に畑の周辺に植えられているサボテンの垣根を指さし、「パレスチナでは畑の境界にサボテンを植えている。イスラエル兵が来て家を潰し、ブルド-ザ-で畑を更地にしてもサボテンは植物体が少しでも残っていれば再生する。もしこれからイスラエルに行き、サボテンが荒野に生えていたらそこにはかってパレスチナ人の村があったことを思い出して欲しい」と言われました。イスラエル政府はパレスチナ人から土地を収奪すると、そこを更地にし、地名もヘブライ語に変え、そこにパレスチナ人が住んでいた痕跡をなくし入植者に渡すようなので、入植者は自分たちが無人の荒野を開拓したと錯覚するようです。(イスラエルでは潰されたパレスチナ人の村の名称の入った地図の入手はきわめて難しいそうです。図書館にもないとか)パレスチナの春の野は豊かです。丘陵地帯ではアネモネ、ラナンキュラス、シクラメン、チュ-リップ、アヤメ、ムスカリなど園芸品種の原種たち、地生ラン、マメ科、キク科ほかの多種多様な野草が咲いていました。アネモネの咲く野で草をはむ羊たち、岩陰で風にそよぐピンクのシクラメンの群落、踏みつけねば通れないほどの小さなアヤメ類の大群落、陸ガメ3匹、蛇、大きなカエル、ミツバチの巣、猪(侵入あとのみ)などにも出会い、自然豊かでした。平地では主に麦、マメ類、トマトほかの穀物、野菜類や、ア-モンド、オリ-ブなどの果樹が栽培される農業地帯です。南下するに従い野の花は少なくなり、エリコ辺りでは礫砂漠でしたが、少ない草を求め放牧がおこなわれていました。ガゼル(野生のシカ)に出会ったのもこの礫砂漠です。ベツレヘム、エルサレム周辺ではオリ-ブが栽培されていました。このように、その土地の条件にあった方法で農業、牧畜がおこなわれており、決して無人の土地ではないことが良くわかりました。
2.年々広がる入植地
エリコ郊外で入植地の横を通りました。高圧電流フェンスで囲まれた中は緑豊かです。今回4回民泊しましたが、どこでも水は貴重でシャワ-の設備はある(ベドウィンキャンプは無い)のですが使用した形跡がなく、シャワ-使用はホテル泊だけでした。しかし、入植地では街路樹、芝生の維持にもふんだんに水を使用しており、その水は地下水、またはヨルダン川からの水です。そして地下水の水位が下がると水位を上げるためにパレスチナ人の村に来て井戸のバルブを止め、パレスチナ人はその間高い水をイスラエルの業者から買わざるを得なかったそうです。ジェニン近郊の山の尾根沿いにフェンスがあり、その向こうはイスラエル軍基地で近づくだけで銃撃される危険があるのでその近くは通れないとの話でした。その基地も元はパレスチナ人の農地だったのが、イスラエル政府が「軍事的理由」で没収したそうです。農民は今自分が耕している土地がいつイスラエル政府によって略奪されるのか戦々恐々としているそうです。ベツレヘムでは小高い丘の上に入植地があり、フェンスにくっつくようにしてパレスチナ人の家屋があります。何度もこの地を訪れている同行者は「来る度に入植地が拡大している。拡大された土地に住んでいたパレスチナ人たちはどうなったのだろう」と心配していました。入植地拡大により、西岸地区では水の便のいい豊かな土地、水資源が奪われ続けています。水の量は一定なので入植地の緑が濃くなればその分、パレスチナ側が水不足に悩まされる場面が多くなります。緑豊かな入植地の本質は、「銃剣で奪った美田の移民村」(鶴彬[ツルアキラ]、1938年勾留中に29歳で死亡)だと思います。
3.友好的なパレスチナの人々
パレスチナの人たちは非常に友好的です。丘の上まで一緒に歩いて見送ってくれたお祖父さんと、可愛い女の子、トマト農家では抱えきれないほどのトマトをもらい、パン屋では1枚買ったのにおまけが3枚、子供たちはすぐに寄ってきて話しかけてきます。村々では、挨拶すると“Welcome,welcome”と返事が返ってきます。ただ、男性は高校生以上の女性には声をかけないようにと、後で注意を受けましたが……。また、経済的に非常に困難な状況にあるにもかかわらず、パレスチナ人は誇り高く物乞いはいません。民泊で非常に良くしていただいたので帰りに謝礼を渡そうとしたら頑として受け取りませんでした。(プレゼントは受け取ります)
4.モスレムとクリスチャンの関係
関係は良好です。民泊したクリスチャンの家はモスレムの多く住む地区にありますが、近所付き合い、安全ともに問題は全然ないとのことでした。奥さんは聖公会(キリスト教)系の学校の先生ですが、そこでは生徒の半数はモスレムの子弟だそうです。また、ベツレヘムの聖誕教会では、イスラエル兵に追われた多くのモスレムを匿い、何日もイスラエル兵に包囲されて、狙撃により数名の死傷者を出したそうで、壁にその時の銃弾の跡が残っていました。ただし、結婚はクリスチャン同士であれば宗派に関係ないが、クリスチャンとモスレム間は非常にまれとのことでした。
5.イスラエル国内のパレスチナ人
イスラエル国内には約20%のパレスチナ人が住んでいます。彼らはイスラエル国籍を持ち、自治政府のパレスチナ人より国外に出るのは自由ですが困難な状況にあることには変わりありません。ユダヤ人には兵役義務がありますが、敵対的国民と見られたパレスチナ人には兵役“義務”はありません。(就職のため入隊しようとするパレスチナ人青年もいるそうですが、隊内でひどいいじめにあうそうです)兵役を終えるとさまざまな保障が与えられますが、パレスチナ人には無縁です。兵役を終えたことを条件とする企業には就職できないなど、まともな職業には就けません。ナザレの教会(聖公会)の牧師の話では「私たちは人生のあらゆるところで差別を受けています。予算はユダヤ人中心でパレスチナ人には少ししか使われません。兵役終了ではないのでマクドナルドの店員にもなれないのです。」と就職の難しさを訴えていました。
6.より困難な状況に追いやられているパレスチナ人
- イスラエル政府は、パレスチナ人の自尊心を失わせ、従順な二級市民化も目指しているようです。国連で不平等ながらもパレスチナ人の領土とされた西岸地区の60%はイスラエル政府が治安・行政すべてを握っており、そこではパレスチナ人が自分の土地に自分の家を建てようとしても許可がいります。そしてその許可は実際おろされることはないそうです。イスラエル政府の陰険なところは、どうしようもなくなって家を建てようとすると、費用を使わせて建てた後でブルドーザーが来て家を破壊し、しかもその取り壊し費用を請求するそうです。その支払いを拒むとそれは犯罪となり、その住民を自由に投獄できるフリーハンドを持つそうです。土地の収奪にしても、ユダヤ人に都合のいい法律をいくつも作りそれを組み合わせ、放棄財産、治安、軍事を理由に“合法的”に土地を接収し、住民を追い出し無人にした後“民事転用”し、ユダヤ人にリースし入植地を増やしています。
- イスラエル国籍を持つパレスチナ人が、西岸地区のパレスチナ人と結婚したらイスラエル国籍を失うなど、イスラエル国内でのパレスチナ人比率の現状維持か、下げようと必死です。
- 分離壁も見ました。その90%はパレスチナ側に食い込んで建てられており、そのためいくつものパレスチナ側の村や町が分断されていました。
- イスラエル政府は西岸地区のパレスチナ人統治に自信を持ち始めたようです。旅行中ガザで交戦が行われたにもかかわらず、検問所通過は容易で、かつてはタクシーで市内に入るには自治政府ナンバー車に乗り換えていたベツレヘム市内でもイスラエルナンバー車が走っていました。また、国際社会の抗議にもかかわらず、入植地は年々拡大し昨年の入植地での住宅着工数は過去最大でした。
- パレスチナ人の一番の問題は仕事がないこと。パレスチナ人の起業は、物資の搬入、輸出がイスラエル政府の管理下にあり、ガザ・西岸地区でも検問所があり、その閉鎖や検査が恣意的なため、非常に困難を伴います。検問所が開かず、乳製品、農産物がトラックの荷台で腐ってゆく丹生-巣も見ました(日本で)。イスラエル政府のやり方は陰険で、パレスチナ側に投資させ、金を使わせてから材料や製品の輸送の妨害をし、企業の経営が成り立たなくするそうです。なけなしの資金で事業を始めた人は立ち直れないほどの打撃を受けます。いま、JICAは西岸地区のエリコで農産物を加工する工業団地をつくるプロジェクトを2006年から進めています。ヨルダン国境にある幹線道路までわずか3kmですが、そこまでのアクセス道路の建設や、工業団地に必要な井戸の掘削をイスラエル側は許可していません。英国のthe Guardian紙は本プロジェクトに対し「日本は納税者に対して援助費用の正当性を示す必要が英米ほどは無いので、高リスクのプロジェクトへの投資が可能になっている」と書いています。このようにパレスチナ側が自力で何かやろうとしても常にイスラエルの妨害を受け、高失業状態が続いているのです。
7.私たちに何ができるのか?
微力であろうとも、機会を見つけてパレスチナ人の窮状と、イスラエル政府の無法ぶりを周りに訴えること。イスラエル政府のやり方は、猫がネズミをいたぶっているように私には思えてなりません。
次に、パレスチナ人を精神的、金銭的に支えること。一番いいのは、彼らに仕事の場を提供できることですが、これもイスラエル政府の妨害があり、なかなか難しいのが現実です。ガザはかつてヨ-ロッパに切り花を輸出していましたが、今はイスラエル政府の“制裁”でゼロとか。
8.最後に車と恐怖の出国検査について
西岸地区ではタクシーがすべてベンツの新車でした。聞けばドイツからの援助だそうです。それまではいつ止まってもおかしくないほどのポンコツ車だったそうです。それと西岸地区では自家用車は韓国車が多かったです。しかも新車です。日本車はかなりの年代ものしか走っていません。これが、イスラエル国内に行くと韓国車より日本車が多く、新車も多いです。やはり所得に大きな開きがあるのでしょう。
出国検査は極めて懲罰的です。パレスチナ側からの視点で描いたパレスチナの歴史書(西岸地区の本屋で堂々と販売している)を持っていた女性がいましたが、その購入先を詮索され、コーヒ-粉や豆類の粉の袋に外から検査と称して針で穴をあけられトランクは粉だらけ、さては衣類をしつこく検査されました。そのくせ他の人でトランクに水の入ったペットボトルを取り出し忘れた人がいましたが、そのまま検査で引っかからないなどいい加減です。一緒に行った牧師さんは以前、イスラエルの核保有を内部告白したイスラエルの科学者の写真を持っているのが見つかったために、パソコンを調べると称して持っていかれ搭乗時間間際に返されましたが、日本に帰って動かそうとしたら完全に潰れていたそうです。それと出国検査では日本語のわかる係員がいますので注意が必要です。