風景だいじ(斑猫独語73)
澤山輝彦
高速道路ができると、それに沿ったあたりの風景は変わってしまいます。いや変えられてしまったと言うのが正しいのです。車線部分が通る所でも相当のものですから、インターチェンジが出来る場ともなれば、もう大変な変わりようで、第二名神(今は新名神と呼んでいる)川西インターチェンジの建設現場では小山がなくなってしまうなど、あたりの風景は一変してしまいました。
川西インターチェンジ及びそれに接続する県道等の工事による、こういう変化の様々を目にしてきた私は「高速道路は風景を破壊する」との思いを再確認したのです。風景論とか景観論などと難しく考えなくても、「誰が見てもあの高速道路は無い方がいい眺めだ」という気持ちになる所は、総て高速道路が風景をだいなしにしてしまった所だと私は言います。
話は飛びますが、大阪市内は車の増加等の交通事情の悪化で、道が広げられたり、川や堀割が埋め立てられたりしてきました。仕方がないと言えばそれまでですが、道路交通事情、車対策一点張りで、街は殺伐となってしまった所をあちこちに見ることができます。大きな川は埋めることが出来ないので、川に桁を建て高速道路を走らせてしまったりしました。
その例を中之島の堂島川側をはしる阪神高速道路に見ることが出来ます。あのあたり、大阪地方裁判所や中央公会堂などの赤煉瓦の建物が、何とも言えない古風で堂々とした雰囲気を堂島川の流れと共に醸し出すいい風景になっています。それが風景画にはよくとりあげられ、スケッチをする人や画架を立てて現場で制作している人がいるのを、よく見ました。あの風景を高速道路がつぶしてしまったのです。(地裁の赤煉瓦もなくなりましたが)この阪神高速道路は、大阪駅近くの毎日新聞社の社屋を突き抜けています。新しい都市景観などと、もてはやす向きもありますが、私には笑い話に近いものに聞えます。
高速道路が破壊する風景は、何も毎日目にする眼前の風景に限らず、観光地の展望台から見る風景の中にも見ることが出来ます。雄大な景色を楽しもうとした中に走っている高速道路を見るときなど、まったく腹が立ちます。そんな観光地へ行かずとも、一寸所用で乗る電車の窓からの眺めでも、高速道路が邪魔する風景には、これも腹が立ちます。
こういう風景を見慣れ、順応させられた中で成長する若者に、豊な感性を求めるのは、無理かもしれません。「なに心配しとんねん、爺。高速道路は移動に便利やし、今はスマホの時代じゃ、爺さんは時代遅れなんじゃ、俺らには俺らの感性があるんじゃ。」そうかもしれません。仕方ないか、時代が変わって行くんだなあ、とも思いますが。でも、この伝で何事も時代が変わるで流し、不問にして行くと、これまた、とんでもないことになるのは確かです。
今の時代、あの戦争は完全に昔話になりつつあり、かろうじて8月15日前後には、マスコミも過去を振り返るようですが。こんな状態を時代のせいにしてしまうと、それを利用して、過去の軍国時代へ逆戻りしようとする勢力が出て来たではありませんか。しかし、そこを心配する若者もいることはいる、少しは安心しますが。
良い風景をこわす、道路(ここは高速道路とは限らない)には反対しなければなりません。鞆の浦がこれを証明しています。