goo blog サービス終了のお知らせ 

『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**風景だいじ(斑猫独語73)**<2017.7.&9.&11. Vol.98>

2017年11月20日 | 斑猫独語

風景だいじ(斑猫独語73)

澤山輝彦

 高速道路ができると、それに沿ったあたりの風景は変わってしまいます。いや変えられてしまったと言うのが正しいのです。車線部分が通る所でも相当のものですから、インターチェンジが出来る場ともなれば、もう大変な変わりようで、第二名神(今は新名神と呼んでいる)川西インターチェンジの建設現場では小山がなくなってしまうなど、あたりの風景は一変してしまいました。

 川西インターチェンジ及びそれに接続する県道等の工事による、こういう変化の様々を目にしてきた私は「高速道路は風景を破壊する」との思いを再確認したのです。風景論とか景観論などと難しく考えなくても、「誰が見てもあの高速道路は無い方がいい眺めだ」という気持ちになる所は、総て高速道路が風景をだいなしにしてしまった所だと私は言います。

 話は飛びますが、大阪市内は車の増加等の交通事情の悪化で、道が広げられたり、川や堀割が埋め立てられたりしてきました。仕方がないと言えばそれまでですが、道路交通事情、車対策一点張りで、街は殺伐となってしまった所をあちこちに見ることができます。大きな川は埋めることが出来ないので、川に桁を建て高速道路を走らせてしまったりしました。

 その例を中之島の堂島川側をはしる阪神高速道路に見ることが出来ます。あのあたり、大阪地方裁判所や中央公会堂などの赤煉瓦の建物が、何とも言えない古風で堂々とした雰囲気を堂島川の流れと共に醸し出すいい風景になっています。それが風景画にはよくとりあげられ、スケッチをする人や画架を立てて現場で制作している人がいるのを、よく見ました。あの風景を高速道路がつぶしてしまったのです。(地裁の赤煉瓦もなくなりましたが)この阪神高速道路は、大阪駅近くの毎日新聞社の社屋を突き抜けています。新しい都市景観などと、もてはやす向きもありますが、私には笑い話に近いものに聞えます。

 高速道路が破壊する風景は、何も毎日目にする眼前の風景に限らず、観光地の展望台から見る風景の中にも見ることが出来ます。雄大な景色を楽しもうとした中に走っている高速道路を見るときなど、まったく腹が立ちます。そんな観光地へ行かずとも、一寸所用で乗る電車の窓からの眺めでも、高速道路が邪魔する風景には、これも腹が立ちます。

 こういう風景を見慣れ、順応させられた中で成長する若者に、豊な感性を求めるのは、無理かもしれません。「なに心配しとんねん、爺。高速道路は移動に便利やし、今はスマホの時代じゃ、爺さんは時代遅れなんじゃ、俺らには俺らの感性があるんじゃ。」そうかもしれません。仕方ないか、時代が変わって行くんだなあ、とも思いますが。でも、この伝で何事も時代が変わるで流し、不問にして行くと、これまた、とんでもないことになるのは確かです。

 今の時代、あの戦争は完全に昔話になりつつあり、かろうじて8月15日前後には、マスコミも過去を振り返るようですが。こんな状態を時代のせいにしてしまうと、それを利用して、過去の軍国時代へ逆戻りしようとする勢力が出て来たではありませんか。しかし、そこを心配する若者もいることはいる、少しは安心しますが。

 良い風景をこわす、道路(ここは高速道路とは限らない)には反対しなければなりません。鞆の浦がこれを証明しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**三月の東京大空襲を季語にする(斑猫独語72)**<2017.3.&5. Vol.97>

2017年06月08日 | 斑猫独語

三月の東京大空襲を季語にする(斑猫独語72)

澤山輝彦

 NHKも時々良い番組を流すことがある。常日頃は重大な問題を内包する政策にも批判なく、ただ流すとい所が多いからこういう言わざるをえないのだ。その良い番組とは、去る3月9日、NHKBSプレミアムで放送されたドキュメンタリー番組『昭和の選択 東京大空襲が生んだ悲劇の傑作 書家・井上有一 噫(ああ)横川国民学校』だった。

 東京市本所区横川国民学校教員であった井上有一が、学童疎開先から東京の学校へ卒業式のためつれ帰ってきて、自分も生徒も3月の東京大空襲に会い、自分は何とか生きたが、連れ帰った生徒の何人かが死ぬ。井上有一は後、高名な書家になるが、東京大空襲であった悲惨な体験を、なぐり書くように記したものが「噫横川国民学校」という作品になる。放送は二人か三人だったか、コメンテーターが、この作品と当時の映像記録などを見ながら、疎開というものが当時どんなものであったかを語るものであった。児童生徒は疎開してよし、大人の疎開はまかりならぬ、町に残って防火にはげむ、これは法制化されたものであった。

 このあたりの語りを聞いていて、私は亡き母の言葉を思い出した。それはもう戦後の笑い話になっていたのだが、「防火(防空だったかもしれない)演習の時に、警防団長の○○さんに、そんなへっぴり腰で火が消せるか、と言って腰蹴られたわ。」と。当時の母にとっては、とても笑ってはいられない事だったのだろう。この警防団長の○○さんが、「空襲警報解除、空襲警報解除」とメガホンで触れ歩いていた記憶を私はかすかに持っている。

 そういえば、NHKの放送で「刑事フオィル」というイギリスのミステリーを放送したのも、良い番組を流したうちに入れよう。もう終わったのかどうか知らないが、私はこれを有線放送で始めて観てから、機会があるかぎり観続けた。「刑事フオィル」の元のタイトルは「フオィルの戦争」だ。第二次世界大戦下(戦後もある)に起こる犯罪を、フオィル(平刑事ではない警部ではないか)が解決する警察ドラマなのだが、犯罪原因に戦場の不条理、戦争が生む人間性の破壊が潜んでいることを指摘する、こんなところは一種の反戦ドラマでもある、と私は理解するのだ。こういうドラマを作るイギリスはなかなかのものだ。だからこれを放映するNHKも、ここだけはまあまあだと思うが、甘いかな。

最近、さる場でこんな二句を発表した。

右向け右 パン屋むっつり 里桜
さくらんぼ 「はてな」の果ての 右傾かな

 今日(2017/4/9)の朝刊に、銃剣道あえて明記、中学新学習指導要領。こんな見出しがあった。ええかげんにせえよ、いったいどうなってんだ。又熱がぶりかえしそうだ。きなくさい、というどころの話ではない。いつまでも思いのままに右へ右へところがり、気がつけばそこは黄泉比良坂(※注)、黄泉の国の入口、なんて真っ平ごめんである。

※注 黄泉比良坂(よもつひらさか)は、人の居る現世と死者の住む黄泉(よみ)の境にある坂とされている。『古事記』などに記述があり、神話ではあるが、島根県松江市東出雲町に石碑などが建立されている。≪編集子≫

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**クモと自動車(斑猫独語71)**<2017.1. Vol.96>

2017年02月26日 | 斑猫独語

クモと自動車(斑猫独語71)

澤山輝彦

 クモについて調べることがあり、手持ちの一寸古い昭和54年(1979)発行の本を調べた。調べる事柄は日進月歩に左右されることではなかったので、この本で役に立った。そのついでに、日本に毒グモはいるか、という項目を読んでみた。日本ではカバキコマチグモくらいが毒グモだろうと書いてあった。そういえば、自然観察をしていた時「ここに毒グモがいるから気をつけて」といわれことがあった。それがカバキコマチグモだったのを思いだした。不用意に手づかみして噛まれれば痛い目にあうとのことだった。そんな毒グモだが素手でつかんでしまったとか、不注意な接触をしてしまった時以外、クモから飛びついてきて噛むことはない。毒グモだと恐れることはないのだ、と書いてあった。そんな本の発行から16年後の平成7年(1995)大阪府高石市にセアカゴケグモは上陸した。オーストラリアが原産地の毒グモである。カバキコマチよりセアカゴケのほうが文字面でもおそろしげである。騒がれ一躍有名な毒グモに躍り出た。特定外来生物に指定され駆除の対象になる。セアカゴケグモだってうかつな接触がなければ飛び掛って来て噛み付くということはないのは、先の国産カバキコマチグモと同じである。でも毒グモの見つかった公園などがそばにあれば、小さな子供のいる家庭では保護者はあそこであそばないこわい毒グモがいるからね。と言うにちがいない。

 そんな毒グモよりも、集団登校の児童の列に飛び込む自動車のほうがずっと怖い。殺傷力の強さなど比べものにならないのは歴然である。今年も新学期が始まったとたんにそんな事故があった。統計を見たわけではないが、集団登校の児童の列に飛び込んだ自動車による死傷者は相当数になるだろう。それにくらべれば毒グモによる被害など無きに等しい。恐るべきは毒自動車だ。春夏秋冬、道のある所、場所を選ばす発生する毒自動車による事故に「車に気いつけや」と言う言葉のむなしさを知る。

 テレビの気象情報担当者は嬉々として、当たろうが外れようが懇切丁寧に天気予報をしている。あの時間、あの回数で自動車を運転する人に注意を与えるテレビ放送が出来ないものだろうか。道路情報というのはある。あれに少しつけ加えるのだ。貴方の不注意が人の命を奪い、負い目も保障も続けねばならないのですよ、とか。あなたの家族が自動車事故にあった時のことを考えて運転しましょう、とか。悲惨な事故の場面や嘆く家族の姿などを入れた、暗いが少し我慢すれば済むようなものを。「そんなん効けへんで」「そうかなぁ無いよりましやろ」。

 分布を広げるセアカゴケグモについては少し弁護をしてやろう。必要以上に怖がる事はない、気をつければ絶対安全であると。毒自動車にはこんな絶対は絶対に無い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**始まりも終わりも地震(斑猫独語 70)**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 斑猫独語

始まりも終わりも地震(斑猫独語 70)

澤山輝彦

 10月20日、テレビニュースを見ていると関東地方に地震とテロップが流れた。震度幾らと地方都市の名が出ている。その中に「行方市」というのがあり目をひいた。何故かといえば、どう読むのかわからなかったからだ。「ゆくえ」とは読めるが、まさか「ゆくえ市」ではあるまい。そんな所へ行くと皆、行方不明になってしまう。手っ取り早くインターネットで調べると、茨城県の「なめがた市」とあった。「行」を「なめ」と読むことは多くないだろう。このことも興味のあることだが、まあ今は置いておく。行方市は、東京都心から約70km、県庁所在地水戸市から約40km、霞ヶ浦に一面を接する所にある。一応、市の概況などに目をとおしたが、交通という項目に、「公共交通機関が乏しく、基本的には自家用車での移動が主である」とあった。この基本的とはまさに地方都市の現状そのままではないか、そんな気がしたのである。

 この7月と10月、『ムックきのこクラブ』の仲間と、きのこ観察と歴史探訪をかね、紀の川沿いの根来寺と粉河寺を訪ねた。JR和歌山線の岩出、粉河が最寄駅になる。10月が粉河寺であった。帰途に近い頃、とある神社にさしかかり境内に入ると、秋祭りの神事が終わり、土地の方々が一杯やっておられた。神主さんが現れ、これは直会(なおらい)と言って、神事の後の神酒をいただく酒宴である。皆様が今おいでになったのも何かの縁だ、どうぞあがって一緒にやってくれと言われる。一旦は辞退したものの、酒の魅力には勝てず、よばれることにした。まあ、話しは色々はずみ楽しく酒をくみかわしたのであった。そんな会話の中で、私たちが南海電車、JR和歌山線を利用してやってきたことが、おもしろがられたのである。彼らの日常の交通機関は自家用車だったのだ。まさに先の行方市の概要に書かれているのと同じなのであった。

 地方交通機関である鉄道の衰退は周知の事実である。利用者が少ない、経営がなりたたない、いや便数も少なく不便なのだ、だから乗らない。この双方が地方交通機関である鉄道を追いやり、今や鉄道ばかりかバス路線までも消滅させて行っているのである。そこに生まれる交通弱者の存在など意に介さないのである。

 私たち都会人が利用する日常の交通機関の利便性だけをもって、この問題に口を挟むのは100%正しいとは言いがたいが、なんとかならないのかと言うことぐらいは許されると思う。お国が大事といって莫大な予算があれこれにつぎこまれるが、人々の生活に直結すること、交通弱者の存在など、有効な手段が講じられているとは思えない。地方は衰退して当然、それが生態でもあるかのようなふるまいの国つくりが進むのである。やはり怒りが必要であろう。皆、賢くなって怒らなくなってしまったのかね。

 半世紀ぶりにイヴ・モンタンが出演している映画「恐怖の報酬」を観た。イヴ・モンタンって誰? という世代もいるだろうな。以前観て相当強い印象を受け覚えていた場面も、今一度観て、ああだったのか、の連続で新たな衝撃を受けた。生きるため、快適に生きるために、たとえ恐怖の報酬であってもそれを求めた男たち。生きていくことに快楽を求めるのは当然である。

 映画「恐怖の報酬」から次のようにもって行くのは牽強付会(※注)気味であるが、どんな所に住もうとも利便性の良い生活を営み、快適な日常をすごす権利はあるはずだ。その保障もなく、ましてそれらが消えてゆく、そんな事あってもいいのだろうか。日本国憲法を読もう。

 おや、地震だ。やや強いぞ、我が家の時計は2時10分(10/21)か。地震情報でも見るか。これで終わります。

 携帯電話にエリアメール、緊急地震速報 鳥取県で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)が入っていました。これって本当に要る?

(※注)
 牽強付会(けんきょうふかい)=都合の良いように無理に理屈をこじつけること。
 牽強附会とも書く。牽強は道理に合わないことを無理に合わせること。
 牽は玄(ひも)に牛で、牛にひもをつけて引っ張るの意がある。本来は牛をひもで引っ張って動かすのは道理に合わないが、これを無理矢理強く引っ張って動かしてしまうことから牽強の意味となる。
 付会はばらばらなものを一つにまとめること、または、関係ないものを無理にまとめるの意。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**揺れる頭で考えた(斑猫独語 69)**<2016.5. Vol.93>

2016年06月04日 | 斑猫独語

揺れる頭で考えた(斑猫独語 69)

澤山輝彦

 確か熊本地震の数日前、寝入りばなに地震があった。私の住む兵庫県川西市大和でもややきついと感じたもので、しばらく目がさえて眠れなかった。翌日記録をみれば隣の亀岡市南部が震源地、能勢町、三田市などで震度3が記録されていた。震度3は、よほど鈍感か、泥酔でもしていなければ、誰もが「あっ地震だ!」と感じる揺れである。この後、熊本地震が起きるのだが、4月14日の震度7、以来5月5日の23:50までの3週間に1,250回余の地震が記録されている。こいつは堪らんだろう。被害も大きく、これは言語に絶すると言ってもいいものだろう。

 こんな大変な時に、ちょうどいい機会だと憲法改正に、これを利用しようとしているのが、安倍首相とその政権である。「緊急事態条項」である。――大規模な災害や有事などで国が緊急事態を宣言し、人権保障や権力分立などの憲法秩序を一時停止して非常措置を取る権限(国家緊急権)を定めた条項。緊急事態が宣言されると政府に権限が集中され、個人の権利の強い制約が可能になる。2012年の自民党第2次憲法改正草案に盛り込まれた――【毎日新聞解説より引用】

 火事場泥棒のような事を平気で考える政府に対し、国に権限を集中させるのではなく、逆に国の権限を都道府県に、都道府県の権限を市町村に移すことを求めたい、と被災自治体は言う。現行の災害対策基本法や災害救助法は、緊急時の首長の権限強化を定められているから、改憲緊急事態条項の必要はないと、災害に詳しい弁護士らの意見もある。

 今度の熊本地震に関する災害報道に接して私が感じたことは、自動車による避難とその結果、車内生活によるエコノミー症候群についてのとりあげで、これを新聞は書きたてている。東日本被災3県への緊急事態条項に対するアンケートを行った毎日新聞は、その結果が否定的であったのを静かに報道した。それに比し、エコノミー症候群による死者の報道は騒がしすぎた。まさにこれは緊急事態条項への援護射撃になっている。そうなるように仕向けざるを得ないのが日本の新聞なのだ。

 避難所まで自動車を利用するのは仕方がないとしても、プライバシーとか言って車中泊でエコノミー症候群を引き起こし死に至るというのは、そこで寝る人の勝手だと言っては言いすぎだろうか。避難所にてエコノミー症候群で死んだという話しは聞かない。日常とほぼ百パーセント異なる避難所での生活だろう。平穏な地の平穏な生活者が、たやすく言うのはなんであるが、どうもそんな気がするのだ。避難所での生活ではそこなりの一致した要求などもあることだろうから、緊急の場での共同体意識を持つことは大事なことではないだろうか。車なしの人たちはプライバシーもくそもなしの動物的生活をされているのだろうか。一寸勝手な言い過ぎかもしれないが、そんな所でもプライバシーということを真剣に考え行動する人々は、国家権力によるプライバシーの侵害の各種にいかに戦われたのであろうか。これも言い過ぎかなあ。

 相変わらず通行人を巻き込み死傷させる自動車事故が多い。無人運転が可能なところまで技術は進歩してきているのに、あのような暴走事故を食い止める装置が無いのである。技術的にはなんとかなると思うのだが、そんなものを組み込んだ車は高価になり売れ行きが鈍る。だからあんな事故も自己責任にしてしまってしらん顔。

 それではこんなんはどうだ。先の車中泊エコノミー症候群の発生を防ぎ、災害時プライバシーを確保するキャンピングカー仕様の車、とまでいかなくても足をのばして眠れる座席に変更出来る座席を持つ車は、推奨されてもいいのではなかろうか。これは変な用途に使われる可能性もあるなあ。気をまわしすぎかなあ。自動車をすすめてしまったなぁ~。

 若者の車離れ、持ち家離れが顕著になってきているといわれる。主義、主張もあろうが、低所得・貧乏化があるのだ。失業青年は兵隊に行く、アメリカではそうなっていると、ある本で読んだ。地震で改憲、九条を破棄、戦う国にする。貧乏青年は兵隊に行く、おぉ、いやだ。こんな事を防ぐためにも若者はしっかり先を見据えねばならない。老人のありかたも問われるだろう。爆弾をおしめに仕込んで杖ついてよろよろの自爆老人の出現もあるかもしれない。片や地震でオスプレイを出場させることが出来るンだもの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**立春の日に(斑猫独語68)**<2016.1.&3. Vol.92>

2016年03月25日 | 斑猫独語

立春の日に(斑猫独語68)

澤山輝彦

 原稿を書きます書きますと言って、ずるずるすごしているうち、立春を迎えてしまった。寒さも峠をこえ春の気配が感じられる頃となるのだ。とは言えまだ2月の初め、これからも寒い日が続くだろう。寒い寒いというが、年をとって感覚が鈍くなり、朝の室内の温度が10度C位でも、暖房機のスイッチを入れなくても平気でいることが多く「年寄りやなあ」と妻に笑われる。年をとれば体感の退化はある程度仕方が無いことだと思っているが、命を縮めることを加速する必要はないので、寒暖その他生活諸々につき妻の言い分にはしたがうことにしているが、すぐ素直にやらないから嫌味を言われ、言い返す、そんな小さな揉め事多発の毎日であり、こんな調子が死ぬまで続くのか、こうなるわけは分かっているのだから出来るだけ平和な時間を持つよう心がけたいと思っている。

 平和か。緊急事態条項、憲法改正、宜野湾市長選の事、原発再稼動の事、TPPの事など私には(『みちしるべ』の読者は当然含む)わが国は平和という言葉の反対に動いているとしか思えない。この感覚は加齢とは無関係にまだ鋭敏に働いている。それぞれについては多くの情報に接することができるが、私にはなんでこうなるの、それらを支持する、支持した多数の人たちの気持ちがわからない。あの多数の人を前に、「お前らあほか」と言いたい。でも私より賢い人は一杯いるから、言えば私があほになる。子供の頃「あほ言うもんがあほや」という言葉を投げあったもんな。でもののしりたい。ののしってすむものではないが、ののしらずにはおれないのだ。きれい事で言うことも出来ようがまずののしっておかなくては気がすまないのである。そんな人たちの気持ちがわからないと書いたが、こういうことではないだろうか。

 食いっぱぐれのない生活が出来ている今を守る事だ。世俗の真理なのだなあこれが。食うこと以外に、人並みであること、あふれる物にまみれてしまう生活について行く、そんなものも含まれるだろう。たくさんの情報と言っても、大新聞、テレビなどのマスコミの情報は概ね政府発表の筋からはなれたものではない。広告収入で持っているこれらマスコミのあり方が人心をあやつってしまう。マスゴミといわれる所以だ。政治批判を第一面に堂々と掲げる新聞があるか。NHKもどうだ。投書欄や小さな囲み記事でそれらしい事を書いてお茶をにごしているのが実情だ。彼らも食いっぱぐれを恐れているのだ。御用新聞はその限りではないのはとうぜんだが。

 清貧という言葉がある。おすすめ言葉ではないが。為政者に言い出されては困る言葉だ。ただ人並みに生きるとして世俗の波に完全に呑み込まれてしまうことなく自律心をしっかりと持つ、そこに清貧という言葉を使う生き方があるのではないか。こんな事、年寄りの発想だなあ。若者には無理だろうな。18歳から選挙権を持つことになるのだが、かれらはどんな生き方を望んで選挙権を行使するのだろう。まあ、一人ひとりが賢くならねばならないのは確かだし、大衆を引っ張る政党はもっと賢くならねばならない。ひょっとすれば逆の発想、馬鹿になる手もあるかもしれない。賢すぎても駄目なんだ。やれば出来るのだ。琴奨菊も優勝したからなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**サイン・コサイン・タンジェント(斑猫独語67)**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月04日 | 斑猫独語

サイン・コサイン・タンジェント(斑猫独語67)

澤山輝彦

「女子に三角関数何になる」鹿児島県知事「口滑った」

 「伊藤祐一郎鹿児島県知事は8月27日の県総合教育会議で「高等教育で女子に(三角関数の)サイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるか」と発言したのだ。「女性委員に怒られるけど」と前置きした上で「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと10分の9は使ったことがないと答える」とも述べた。28日の定例記者会見で、発言について「自分自身も使ったことがないよねという意味。口が滑った」と述べた。以上新聞記事である。

 男性だって「サイン・コサイン・タンジェント」を社会で使ったことがあるか、と問われれば、それこそ10分の9は使ったことが無いと答えるだろう。要するに私たちが習ってきた数学は社会的な必要性のないもの、文化としての価値を持たないものになっているのだ。こうした実用からかけはなれたような数学だが、現代科学技術のためには必要欠くべからざるものであることは明らかである。非実用な物の文化的な価値を認めることが出来る我々である。数学も単なる技術への応用という実用面を超えた、文化として受け入れねばならないのである。まあこんな事を言ったのなら鹿児島県知事の発言は、三角関数にからめた数学教育への批判となり、別に問題はないのである。

 数学が不得意な者など、そうだそうだと相槌もうちたくなるし、笑い話にもなる。だが「女性委員に怒られるけど」という一言、この前置きが問題なのだ。日ごろの女性軽視蔑視差別心があふれ出てしまったのである。新聞記者はここをとらえ笑い話ではすまさなかったのである。政治家の先生達の口滑らしはもう日常的であり、何度もそんなことを見せてもらい、読ませていただいている。ある意味笑えるのだが、行政のトップに立つ者の口滑らしについては、政治家の先生達のようにはいかない。彼らは我々の身近におり、彼らに行政を託しているという感じがつよいのだ。だからこそ彼らの口滑らしを笑って済ませるということは出来ず強い反感を持つのである。

 使う、使わないにかかわらず、高等数学をおもしろくない物、文化としての価値を持たない物にしてしまったのは、やはり教える側に問題がある。数学はパズルのようなもので、解ければ本当に面白く楽しくもう一丁という気になるものだ。またその実用面は世の中の多方面に及んでいる。排気ガスの測定値を左右する装置など、やはり数学の応用があったのだろうな。数学の面白い実用の例などを示してまず興味を持たせ、そこから数式を使った本論に入る、このような教え方が教える側には少なかった、と私は思う。

 これは私が教えてもらった高等学校の数学教師を念頭においての話になるが。職業として日常、授業にそれを教えていくうえで、時間の制約もあれば、大学入試対策などもある。時間をかけてゆっくり、どうだわかるか、面白いだろうという所までは、したくても出来なかったのだろう。教育が文化を担う者をつくるという本意をはなれ、大学受験技術という、まさに小さな実用性にこだわり落ちてしまったからなのだ。そこで分からない者にはそのままなんとか単位は与え、卒業させるシステムが出来上がったのである。そんなシステムのおかげで、私は留年することもなく卒業できたのであるから、ありがたや、なのである。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 非実用的な数学であってもそれは立派な文化として、価値ある物だと誰もが認めることが出来るようにする、そんな教育が期待される。サイン・コサインからこんな話になったが、憲法の解釈をその時々で平気で変える、そんなことを平気でやれる連中がいる。彼らには数学的に、理論整然と思考する能力が欠けているからで、そんな連中がいろんな掟をつくる。それも同胞をまもらない、同胞をきりすてる掟である。彼らにもう一度教育を受けさせる必要がある。物事の真理を見つめる、文化とは何かを認識することが出来る教育を受けさせる。彼らはそれが出来る人にならなくてはならないのだ。

 そんなことをされては今の政権はひっくりかえる。そんなことやらないよ。私たちは賢くなる必要はない、このままで結構。まして国民に賢くなられてはたまらない。教育など受けない人が増える方がやりやすいんだからな。逆奨学金、不就学奨励金を出し、愚民の大量生産をすればいいのだ。文系など切り捨て1000万分の1程度にして、必要な技術のための教育を受けさせておけばいい。いや従順なロボットを作ればいいのだ。これを作るだけの頭脳を確保すればいいのだ。

 こんな悪夢SF的な教育政策を持つ政権が出来るかもしれない。つい先ごろまで想像空想であったSF的発想を、現実に見ることができる時代である。あるいはこんなことが近未来におこるかもしれない。

 私たち人間は先人の残した様々な知恵の結晶を持っている。数学もその一つだ。時々そんな結晶を取り出し、触れ、眺め、あるいは溶かして飲むなどして、心を鍛えることが大事である、SFは夢、悪夢は不要、現実をまずしっかり見つめよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**きなくささがただよっている(斑猫独語66)**<2015.7. Vol.90>

2015年08月09日 | 斑猫独語

きなくささがただよっている(斑猫独語66)

澤山輝彦

 居間と台所が相当な距離のある家ならいざしらず、庶民はほとんど居間と台所とがひっついた家に住んでいて、日々そこから漂ってくる様々な匂いにさらされています。不思議なことに365日食べ続けても飽きないご飯、その炊きあがる匂いにつつまれては幸せだなあと思うのですが、これはまず嗅覚が働くからです。嗅覚があるからこそ好ましい良いにおいとは逆に、独特のにおいを持つ食物、鮒寿司、ドリアン、くさや等食べたことがなくてもそれらを話題にすることが出来たりします。食物に限らず、移り香とか残り香なんて一寸艶っぽい方面を語ることが出来るのも匂いを介してですね。食文化の様々や香道等の雅やかな文化は臭気と共に発達してきたのです。人類はにおいを文化にまで高めたのです。

 創造文化とはかかわりのない他の生き物達にも当然嗅覚はあり、その感度は人を上回るものが多数あります。身近なところでは犬の嗅覚の優れていることで、警察犬、麻薬犬、災害救助犬など私たちのよく知るところです。犬のすばらしい嗅覚に限らず人以上の嗅覚能力を持つ生き物は、嗅覚を感知する組織が人よりも強力に進化したのでしょう。彼らにとって嗅覚は獲物を獲る時、また近づく敵を知るのに不可欠の感覚の一つであり、また種を維持するため繁殖相手を嗅ぎ付ける大事な感覚でもあります。彼らにとって嗅覚は生存そのものなのです。道具を使い自然に立ち向かった人類の嗅覚はある程度で進化が止まってしまったのかもしれません。なかには強力な嗅覚が備わりそれを職能に生かす人々もおられます。

 臭いといえば、病気には特有の臭いがあるそうで、私は糖尿病をその一例として小さい時から知っていました。町でもほとんどの便所がまだ汲み取り式だった頃、汲み取りの作業員が尿の臭いから糖尿病の疑いがある人がいると知らせてくれるのだ、と親が言っていたのです。ひどい口臭も歯周病を告げるし、汗臭さも程度がすぎると一種の病気です。ガンにも独特の臭いがあることは医学の世界ではしられていたことらしく、犬をつかってガンを探知することが試みられガン探知犬がうまれていました。私はこのことは知りませんでした。このガン特有の臭気を線虫に探知させる、という新聞記事をよんだのが、今回独語の発端でした。

 さて、その線虫とガンの記事ですが九州大学の新聞発表があり、私は毎日新聞で読みましたが、西日本新聞の記事を紹介します。

+++++++++++++++++++++

 九州大などの研究グループは(2015.3)11日、体長1ミリの線虫に人の尿のにおいを嗅がせ、高い精度でがんの有無を判定することに成功したと発表した。尿が1滴あれば、いたみもなく安価にがんの検査が可能になるという。日立製作所などと検査装置の開発を進めており、早期の実用化を目指す。11日付けの米オンライン科学誌プロスワンに掲載された。

 ヒントはサバの寄生虫にあった。九大大学院理学研究院の広津崇助教(神経科学)と伊万里有田共立病院(佐賀県)の園田英人外科部長のグループによると、線虫は水中などに生息する微小な動物で、嗅覚が犬並みに優れている。がん患者と健常者の尿(1マイクロリットル)をそれぞれプレートの端に置き、中央に置いた100匹の線虫の動きを調べたところ、7~8割の線虫ががん患者の尿に集まり、健常者の尿からは逆に離れることから、がんのにおいに反応することが判明した。

 精度を高めるため、242人(健常者218人、がん患者24人)の尿を採取してテストを実施。線虫はがん患者24人のうち23人に「陽性」の反応を示し、発見率は95.8%だった。うち5人は採尿時点では、がんと診断されていなかった。初期の「ステージ0と1」のがんは、血液の成分を調べる腫瘍マーカーの発見率が0~33%にとどまるが、線虫による検査では88%以上の確率で発見できたという。一方、健常者をがんと誤って判定する確率が5%あることなどから、精度の安定化が今後の課題という。広津助教は「早期発見が難しい膵臓(すいぞう)がんを含む十数種類のがんに線虫は反応した。特定のがんにだけ反応する線虫をつくることにも成功しており、将来的にはがんの種類の特定も可能になる」と話している。

+++++++++++++++++++++

 私はこれまで、生魚から感染し激痛をおこすアニサキス、松枯れをおこすマツノザイ線虫、ネマトーダという植物病害をおこすものでいずれも悪役である線虫を知っていました。まさかアニサキスにこんな能力があり人がこれを利用するなど考えもおよばないことでした。アニサキスはサケやサバなどに寄生していたものを人が生食したときに、体内で胃などに食いつき穴をあけ激痛を与えるもので、アニサキス症とよばれています。これの治療に当たっていた医者が、たまたまガン症状の位置にアニサキスが集合しているのを見つけたことから、こいつをガンの探知に使えるのではないか、ここに発想の転換があったのです。研究が始まり結果は以上のようになったのです。

 様々な外界の刺激を受け私たちは毎日を送っています。その中でも視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの刺激を五感と呼んでいるのはご承知の通りで、どの刺激一つを欠いても生きていく上の困難は大きいものです。視聴覚の欠陥は眼鏡、補聴器などの外部機器で補正することが出来ますが、味覚、嗅覚を補正する器具はないでしよう。薬剤による内部からの治療で機能を上げる方法がとられます。こんなことから嗅覚は五感の一つでありながら視聴覚の影にかくれているような存在であると私は思うのです。

 さあ、大事な五感の嗅覚にもう一つ第六感も働かせれば、どうです戦争法案のきなくささ、TPPの亡国臭の混ざった臭いがぷんぷんしていませんか。これらをきっちり嗅ぎつけることは、未来にとって大切なことです。少々嗅覚細胞の能力が劣ってきても、第六感がはたらけば十分嗅ぎ付けることが出来ますし、平和を希求し憲法第九条をまもる、このことさえしっかりしておけば、きなくささを嗅ぎ付ける能力は衰えることはありません。甘い香りを混ぜあわせてあっても、十分嗅ぎ分けることが出来ます。嗅覚大事にしましょう。

市中は物のにほひや夏の月  凡兆 (『猿蓑』より元禄三年頃の作)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**おすすめ『三毛猫ホームズの遠眼鏡』(斑猫独語65)**<2015.5. Vol.89>

2015年06月09日 | 斑猫独語

おすすめ『三毛猫ホームズの遠眼鏡』
(斑猫独語65)

澤山輝彦

 「原稿おねがいします」みちしるべ、を編集して下さる藤井さんの言葉は身に沁みる。何々誌や何々会報というものの発行、編集にかかわれば原稿の集まりが全てであることがよく分かる。そこですこしでもと斑猫独語なんて駄文を毎回書いているのだが、いつも締め切り間際までもたもたしてしまう。今回は嗅覚についてやや早めに書き始めたのだが、文献を引用したりしていると結構長くなり、要領よくまとまらず少々手古摺っていたのだ。

 そんな時、妻が「『三毛猫ホームズの遠眼鏡』という本知ってるか」ときた。三毛猫なになには赤川次郎の著作だ。推理物だろう。赤川次郎の推理物は書店、古書店に文庫化されたものがずらりとならんでいる。軽いものなのだ。手にとったこともない。「そんなもん知っとっても見向きもせんもんじゃ」と答えた。妻はこれはそんなもんじゃない、図書館で借りると言い、図書館へ行った。図書館には所蔵なく購入してもらうことにしてき、後日私が外出したついでにそれの貸出し手続きをし持ち帰る電車の中でぱらぱら見るだけで、この本をしらなかったことを恥じたのであった。

 『三毛猫ホームズの遠眼鏡』(岩波現代文庫/文芸257)は、2015年1月発行195p 800円の本だ。岩波書店の赤川次郎とは、考えても見なかった。裏表紙にこうある。

 自民党ポスター「日本を、取り戻す。」に誤植あり!「(誤)戻る/(正)壊」……その実、安倍政権主導ならずともいま、日本は壊れていっている。あれほどの大震災も、継続中の福島原発事故も忘れ、被災地への回帰を怠るこの状況をつくってきたのは、想像力の欠如という現代の病理である。『図書』で大好評の連載エッセイを現代文庫に一括収録!

 この本は多くの人に読まれて然るべき本である。タイトルから判断し、また戦争反対、九条は守る、維新橋下大嫌い、そんなことは分かっているから大丈夫とこの本に手をださなかったら損をする。私がこの本で赤川次郎を見直さねばならなくなったように、人(著作)を見る眼を小さな自分一人の主観だけに決め付けてきた誤りは大きい、ということを気付かせてくれただけでもこの本は大きな値打ちがある。この本の中身について、ここは良かった、その通り、とかの説明をすればそれこそこの本全てを丸写ししなければならなくなるだろう。

 『三毛猫ホームズの遠眼鏡』最近これよく売れますな、本屋さんがこう言い、書店にこの本が平積みにされている、そんな時代を作らないと本当に日本は壊れてしまう。この本を多くの人が読んで小さな突っ張り棒になれば壊れていく日本を守ることが出来るのだ。図書館へ返却すればもうこの本とはお別れではさびしい。私はこの本を買う。この本の最後の三行は、こうだ。

 深刻な問題であればあるほど、深刻に語るだけでなく、いかに面白く、笑って語ることができるか、それが私たちにとっての大きなテーマです。これからも、作家としてできるだけそういう立場に立って作品を書きつづけていきたいと考えています。

 作家でなくても私たちの日常でも深刻さに立ち向かう姿勢としてはこうありたいものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**スペイン舞曲を聴きながら(斑猫独語64)**<2015.3. Vol.88>

2015年04月12日 | 斑猫独語

スペイン舞曲を聴きながら(斑猫独語64)

澤山輝彦

 常磐道が全線開通《富岡⇔浪江間 3月1日》。東日本大震災と福島第一原発事故の影響で建設が一時中断した常磐自動車道が当初より三年遅れで開通した。復興事業の加速が期待される。開通区間には「問題の無い数値」の被爆をうける区間があるという。以上、毎日新聞3月2日朝刊による。道路問題に取り組んできた者として、こんな記事はちゃんと目に入る。反対運動もあったのだろうな、なんて考えるのだ。復興事業の加速という言葉が出るとこれに逆らうのはむつかしいところであるが、この記事と同じ面に、今週の予定という欄にJR山田線宮古⇔釜石間の復旧工事の着工式とあるのを見ると、現地の人々の日常にそった復興というものは、まだまだなのだと私は思う。さらにこの3月2日号2面コラム「風知草」は「去っていく男」と題して京大原子炉実験所の小出裕章助教の退官と小出の反原発の取り組みを書き、エネルギー消費拡大を懸念する小出と共に、エネルギー消費の維持拡大を前提に原発を守れという官民による日本の原子力複合体を批判している。このコラムのような記事を、来る日も来る日も堂々と毎日、第一面にキャンペーンする新聞がほしい。広告掲載で持つという新聞経営ではしかたがないのであろうが、新聞は公器であると言ったりするんだからあきれるし歯がゆいのである。

 もう一つ2月28日、毎日新聞記事から。岩国市であったことだ。第三セクターの鉄道に委託して運行していた「住民交通バス」。最終便の乗客がいなくなると、途中で運行を打ち切り車庫へひきあげていた。それは18年間つづいていたという。それが苦情で発覚したのだ。18年は長い。その間苦情は出なかったのだろうか。供給者、利用者ともなんらかの見直しをするという知恵は働かなかったのだろうか。地域のバス問題、これは岩国の「住民交通バス」だけの問題ではない。わが大和団地にあってもバス問題は発生している。利用者が少ない、赤字である、そして改善のための路線変更もままならない、そんなことを抱えているのだ。いずれも弱者へしわ寄せが行く。過疎地、限界集落など、遠くへ行かなくても高齢者社会が進むと今住む地域が過疎地、限界集落と似たり寄ったりの集落に陥ってしまうおそれがあるのだ。地方にも国にも弱者を大事にする政治が必要なのだ。

 これを書きながらBGMとしてスペインの作曲家グラナードスのスペイン舞曲を流している。もう一昔前になるが、一時FM放送をよく聞いた。そして気に入った音楽を録音した。今は三本カセットテープが残っているだけ。一つは前記グラナードスのスペイン舞曲、他の二つは広瀬量平と柴田南雄の現代音楽である。このスペイン舞曲は12曲からなるピアノ曲で、今はなきアリシア・デ・ラロ―チャ、グラナードスの孫弟子にあたるというおばちゃんの演奏である。12曲のうち5番のアンダルーサが有名だが、私は10番が好きだ。「なかなかいいもんです」。音楽に限らず芸術一般に言えることですが、好きだとか嫌いだとかは一人ひとりの勝手ですから、なかなかいいもんです。なんて書かれれば、勝手に言うとれ、と以前は思ったのですが、今、自分が書きました。どうぞ勝手に言うとれ、と思っていただいて結構です。作曲者グラナードスは第一次世界大戦中、アメリカから帰国中の英仏海峡で、ドイツの潜水艦によって沈められた船に乗っており亡くなっています。そういえばジャズオーケストラのグレンミラーも第二次世界大戦中、飛行機事故でなくなっています。

 グラナードスやグレンミラーなどのいわゆる有名人ではなく、もっと身近な人を戦争で奪われた人々をたくさん知っています。人を大事にしない戦争、人を消耗品扱いする戦争、戦争は絶対してはならない、戦争を放棄した日本国はすばらしい国なのです。だのに、戦争を放棄した憲法を改正し戦争のできる国にしょうとしているのが、現政権です。軍靴の響きなどいらないのです、聞きたくないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする