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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**生きてゆくために(斑猫独語83)**≪2021.秋季&冬季合併号 Vol.111≫

2022年03月01日 | 斑猫独語

生きてゆくために(斑猫独語83)

澤山輝彦

 「過疎自治体初の5割超」2022(令和4年)1月21日(金)の新聞第一面の見出しである。

 この記事に付けられた新たに過疎地域になる65市町村のなかに、大阪府豊能町、能勢町があるではないか。2007年(平成19年)には関西二府七県のうち大阪府には過疎市町村は存在しないとあるが、千早赤阪村が2014年(平成26年)過疎地域に指定されている。今度そこに豊能町、能勢町が加わったのだ。両町は私が住んだ兵庫県川西市の隣町である。以前、豊能町と接する所の不便な道を、道路問題として書いたことがあるし、豊能町、能勢町共に、自然観察や、旧蹟探訪に度々訪れた所であり、友人もいることで驚くと共に、とうとうか、と言う気もするのだ。目立つ休耕田や、バスの減便、あるいは路線の廃止など、過疎化とはこんな事か、それともこれは過疎化の引き金なのだろうか、などと考えたものだ。

 過疎地にはインフラの整備が必要だなどと単純に考えるのだが、これには国の本格的な、選挙目当ての看板の甘い言葉ではない支援が必要だ。思いやり予算というものがある。在日米軍をおもいやるのである。ならば、過疎地に暮らす人々同朋には思いやっている間もない緊急の対策が必要なのだ。でなければ国の五割は滅んでしまう。こんな事を考えていると原発の廃棄物を引き受けます、と言った町長がいたのを思い出した。わからんでもないなあ、この発想の根は深いのである。

 インフラの整備である。昨年暮れ近くの新聞の記事を取り出して見る。それはベトナムの首都ハノイ中心部に国内初の都市鉄道が開業したと言うもので、様々な事情が重なって開通、営業が遅れたものらしい。ベトナムは公共交通機関が未発達で、南部最大の都市、ホーチミン市でも日本が支援する都市交通が整備されているが、この開業もおくれるそうだ。記事にあったハノイ在住の女性、オアインさん(71)の言葉「この日を待ちわびていた。車両は綺麗で近代的。便利で、暮らしやすくなるだろう」と喜んだ、とある。素朴な喜びようが溢れている。

 日本におけるインフラの整備は、過疎地における道路や鉄道などは必要であろうが、都市部や都市間の高速化などは我慢、ゆっくり、まあまあ、こんな言葉で包んだ生活を心がけたらやっていけるのではないか。はっきり言って贅沢な要求が多いのだと思う。ここに私のリニア新幹線反対の理由がある。これにかける分を過疎地対策にまわせば、と素人考えの一端でお終い。

【投稿日 2022.1.23.】

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『みちしるべ』**トリニダーの道(斑猫独語 82)**≪2021.秋季&冬季合併号 Vol.111≫

2022年02月27日 | 斑猫独語

トリニダーの道(斑猫独語 82)

澤山輝彦

 キューバにトリニダー(Trinidad)という街がある。かつての植民地時代の支配層が砂糖貿易や奴隷売買で得た莫大な資力をもとに築いた街で、16世紀の街並を残す旧市街が1988年世界遺産に登録され、有名な観光地になっている。「世界街歩き」と言うNHK・TV番組 (2021年10月12日) で、この街が放送された。所どころ見覚えのある気がしたら、再放送だった。

 以前、見た時は気にならなかったのだが、この街には中央部に排水用の窪みまである、大きな石敷きの道があるのだ。いわゆる石畳と言う長方形の石を敷き詰めたものではなく、いびつな、丸に近い、形もさまざまな石を敷き詰めた道だ。取材者が現地の人にこの道について尋ねたところ、この石の出所はヨーロッパで、砂糖を輸出した船が帰途に積んできたものと言う。船の安定のための重りとして船底に積んできたもの、バラストだったのだ。そんな石を使って支配者層がヨーロッパ風の道をここに造ったのだ。

 こんな石材の出所を持つ道をここで初めて知った。川西市に石道と言う地名がある。いつごろできた道か知らないが、石を敷いた所のある道がある。ここの石はさほど遠くない所から運んだのだろうと私は考える。こんな事、石と道の関係を調べるのも面白そうだ、気が向いたらやってみようかと思ったのである。

 ところでこの街トリニダーは、トリニダード、Trinidadと書くが最後のd(ド)を発音しないでトリニダーとなる。一般的なスペイン語では語尾のdはほとんど発音しない。マドリードもマドリーが普通なのだ。でも、同じカリブ海のトリニダード・トバゴという国はトリニダード・トバゴと語尾のd(ド)を発音する。これは英語読みなのだ。スペインの植民地であったキューバ、英国の植民地だったトリニダード・トバゴ、その歴史がこんなところにあらわれるのだ。また、トリニダードはスペイン語でキリスト教教義の三位一体を、トリニダード島にある三つの山になぞらえたもので、植民地支配国が変わって行ったトリニダードの歴史を読むことが出来る。

 話は変わるが、「ナポレオンが敗れてフランス占領軍がダルマチアから撤退したとき、オーストリアのフランツ皇帝は国中を回って、フランス人の完成し終えなかった大規模な海岸道路を視察した。彼はしばらく、じっと、目の前の石ころと土の山に終わっている立派な道の線を見つめてから、おつきの者に言った。もっと長くいてくれなくて残念だったな。」これはシュライバーの「道の文化史」の中の、すべての道はローマへ通ずと言う部分の書き出しである。

 敷石道について何か参考になるものを探していて見つけた、道とも関係する笑い話なので、ここに引いてみた。この本、まだ古典には早いが訳本が発行されて58年になる。私が読み終えなければならない本の常連の一冊である。

【投稿日 2021.10.19.】

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『みちしるべ』**高速道路は異物である(斑猫独語 81)**≪2021.夏季号 Vol.110≫

2021年08月21日 | 斑猫独語

高速道路は異物である(斑猫独語 81)

澤山輝彦

 NHKの大河ドラマ『晴天を衝け』は、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の物語である。(私は大河ドラマをみないから『晴天を衝け』については何も言えない)2024年には、この渋沢栄一が福沢諭吉に代わって、一万円札に登場することになっている。ちなみに五千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎になる。

 この経済界の大物を祖父に持ち、栄一の死後渋沢一門のあとを継ぐのが、孫の渋沢敬三である。ここで佐野眞一 ; 著『旅する巨人』――宮本常一と渋沢敬三――という本を思い出し再読した。宮本常一と渋沢敬三の接点は民俗学であり、渋沢は宮本のパトロンだったのである。本書による当時の民俗学や社会生活のエピソードは面白いものがある。だがここでは書ききれないし、それが目的でもないから興味のある方はぜひ一読されることを奨める。

 さて、宮本常一が大正12年4月、郷里周防大島をはなれ大阪へ出る時に、父がこれだけは忘れないようにと十条のメモをとらせる。その①を読むと、「汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところよくわかる。」とある。

 大正時代に汽車で移動しておれば、こんな気配りも出来る窓外の風景があったのだろう。今は鉄道沿線の風景はどこも似たり寄ったりになってしまったのではないだろうか。鉄道自体が廃線の憂き目にあっている地方も多い。減反農政の結果荒れた田も目立つ。窓外の景色を眺めようにも、よほど街、町から離れないと鉄道沿いの宅地化がすすんでいて、景色をさえぎっている所も多い。草葺きの屋根などあれば文化財になるのだ。駅で荷物を扱う所なんてもうどこにも無いだろう。現代の鉄道を利用するにあたって、私が注意するとすれば、風景を破壊する高速道路がどこにあるかよく見ておくこと、なんてことになるかもしれない。

 久しぶりに京阪電車で桂川、木津川、宇治川の三川合流地点を渡った。ここの窓外はお気に入りの所だ。残念ながら一部に高速道路が走っている。以前岩清水八幡宮の展望台から見えた道路だろう、電車の中からだがこの道は景観を潰している。大阪中ノ島界隈の風景も高速道路が潰してしまった。高速道路は風景に溶け込まない。阪神間に新名神が高架になっている所がある。見上げれば何だかSF的に感じ、それはそれで私には面白いのだが、それはそこだけを切り取って見るだけの異景であり、あたりの風景に溶け込んでいるものではない。「そんな事言うのは道路問題に取り組んできたあんたの考え方にすぎない」と、流通や移動のスピードアップ、経済効果を最優先に置く人は言うかもしれない。心地よい風景が良い情操を育てるのだ。それを阻害する物はゴミ、ホコリにすぎないと私は思う。過激!

【投稿日】2021.5.26.

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『みちしるべ』**斑猫雑感(斑猫独語80)**≪2020.冬季&2021.春季合併号 Vol.109≫

2021年04月23日 | 斑猫独語

斑猫雑感(斑猫独語80)

澤山輝彦

 「これまでで最大の強烈寒波がやってくる」とか、「大雪が降ります」とかテレビの気象情報は大局的な見地からの予想をまず全国に向かって恐ろしげに言う。大阪の都市部に住み雪はちらほら寒気は冬だから当然、と思っている私なんかは「また言うとるなあ、あいつらは人をびびらして楽しんどんのんとちがうか」と思う。ケチをつけていると、「いちいちケチつけるもんじゃない」と二階から声がしたりして。 ――今は団地住まいで二階はありませんが―― とにかく、もう少し局地的にしぼった警報の伝え方を工夫すべきであると思うのだ。

 雪国という言葉がある。美しい響きだ。でもそこは決して美しいだけではない、深い雪に埋もれて難儀な生活をされている多くの方々が居られるのだ。ここんとこは十分承知している。危機的な気象状況を民衆に知らせるのが、テレビなどの役目だと思っているのなら、もっと政治の嘘、庶民を馬鹿にした政治などを徹底して報道をすべきではないか。これらも日本の危機なのだから。そうすれば「マスゴミ」などと、揶揄される言葉から濁点を自ずから消すことができるのだ。

 そんな大雪で埋もれた雪国の高速道路にたくさんの車が立ち往生している場面は、新聞・テレビには格好の写真としてよく出るものだ。それにはいつも後始末の苦労や、炊き出しや差し入れに感謝したというような、結末の記事が添えられる。だがこんな時、誰が何処で車の乗り入れを制限したり、適切な除雪の出動判断をしたりしていたのか、その適否などはあまり知らされない。こんな積雪渋滞の繰り返しを見ていると、技術の進歩を疑ってしまう。もっと自然とは謙虚に付き合うべきであると思う。何かこのあたりの対策を講じる部署間の調整が、うまく行っていないのではないかという気がする。

 冬の雪と同じように夏には豪雨の予報がある。近年はゲリラ豪雨などと呼ばれる集中豪雨が続いた。これにこりた(こりることは悪くない)熊本県知事は、凍結していた川辺川ダムの建設容認に踏み切った。普段は水を流す流水式のダムにするということだが、堰をきったように(ここで堰を切るという句を使うのも面白いことだと思うけど)滋賀県を中心に、ストップしていた大戸川ダムも建設容認に向かって動きだした。これまで様々な方面の考え方からダム設置に反対してきたことが、このことを機に待ってましたとばかりにとんとんと崩れてしまうのは、人を信じるという人間の根本が崩れてしまうのだと寂しくなる。豪雨にあふれる川との付き合いには強力な堤防の設置、それが一番だと私は思うのだが。ダム建設が洪水対策に万全であるとは限らない。ダムの時代は終わったともいわれているのに。

 自然界が産むコロナウイルス、これに対抗するにはせいぜいワクチンを作ることぐらいで、そのワクチンが完成した頃には、また別種のウイルスがうまれているのだ。人と自然はこんな付き合いしか出来ないのである。我々日本人の自然観は謙虚なものであった。西洋技術思想が入り自然をおさえこむという考え方が広まると、私達の自然観まで変わってしまったのか。河の流れをダムで制御するよりも、ワクチン的?であるかもしれない堤防の強化のほうが自然との付き合い方として優れていると思うのだ。ダム建設で沈む広大な土地、そこには岩や樹など神が宿る場がいっぱいある。古来、日本人はこんな形で自然と付き合ってきたのだ。生き物も無数にいる。

 21世紀だ。科学技術万能の世だ。考えもしなかったことが出来ている世界だ。ここから抜け出さねばならないとはとても言えない。でもこんな科学技術の行き着くところを見極め、これ以上は要らないという限界を見つけることは必要だ。それも科学技術に設計してもらうのかもしれないが、そのための心を人間がまず持たねばならない。地球の資源を使い尽くし、気がつけば残り滓の自然の中にうろうろする人類がいる、SF的発想だが案外人類の終末というのはそんなものかもしれない。私達は居ませんが。

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『みちしるべ』**新幹線がホヤを運んだ(斑猫独語79)**≪2020.秋季号 Vol.108≫

2020年11月20日 | 斑猫独語

新幹線がホヤを運んだ(斑猫独語79)

澤山輝彦

 もう大分前のことになんねんけど、確か青森の陸奥湾やったかな、そこでとれたホヤを東北新幹線で東京へ運んで、東京でとれとれのホヤを食べることができたとゆうテレビニュースがあってん。わしはホヤちゅうもんは、いっぺん食べただけやけど、別にうまいもんとも思えへんかったけど、好きなもんには新鮮なんはうまいねんやろな。そのニュースには続いて北海道でとれた魚を飛行機で羽田に飛ばして、その鮮度を売りにする東京の飲食業が紹介されとったわ。このニュース、さらに続きがあって、北海道のどこやったか忘れたけど、そこでとれた魚を千歳空港まで運び、そこから東北新幹線の空席を使こうて東京へ送った。鮮度が喜ばれたので、続けてやりたいとゆうことやった。

 生もんは鮮度が第一や、素早い輸送が必要やねん。その高速性に新幹線が入ってくんねん。ええこっちゃないか。ホヤや魚を新幹線で運んで、食通を刺激するただそれだけやのうて、新幹線が広く流通機構の一つとして使われるようになったらええねん。実際やれてんから、これはできる、大した工夫もいらんやろ。せんとあかんで。そんなとこから鉄道が見直されんのん違うか。

 そやそや伊勢湾でとれた魚を、大阪へ運んどった近鉄電車があってん。魚行商人専用の電車で、鮮魚列車ゆう名前までついとったんや。わしの身内で飲食業やっとった男がいてんけど、この便の魚は新鮮でええ言うて、鶴橋の市場へ買いに行っとったなあ。そやけど利用者が減ったとかで、この三月に廃止になってしもた。ほんでも特別列車の代わりに、魚電車いうもん一両を増結した列車を運転することで、制度として似たものを残すという手をとった。まぁ、ようやってるで。この詳しいことはインターネットで見てえな。
新幹線やけど高速度化は、もお限界やろ。スピードアップには限りがあるから、無理やりたった数分の時間短縮なんかする必要ないのんちゃうか。「もういいでしょう」(水戸黄門)と言わなあかん。これは在来線でも言えることや。福知山線の事故の教訓は生かさなあかんで。安全第一や。もっと早よう、もっと早よう、そんなこと言うてるもんに限って、日頃なんぼでも時間無駄にしてんのんちゃうか。

 わしはこんな考えしてまっさかい、新幹線よりはるかに高速の超高速リニア新幹線なんかいらんと思っとります。建設反対や。大金使うて、あれ造っても、鉄道の復権にはなれへんやろ。鉄道には「愛」ちゅうもんがついとりまんねん。たとへば、お母さんが幼い子を抱いて電車を見せている、子供は電車に手を振っている。こんな景色も、その一つや。リニアには、そんなもんおまへんやろ。南アルプスぶち抜く大きなトンネル掘りよる。そんなことしたら水脈や伏流水の流れを分断してしまうで。もうこれ以上、日本のええとこ潰したらあかん。こんな大工事をしてリニア造ってん言うて、日本はすごいやろ、なんてことはもう通用せん時代やで。

 「あんた定年退職したんやな、もう何年になんねん。毎日が日曜日やないか。そんな生活してんから、そんなこと言えるんじゃ。」と横槍入れられそうやけど、これからはゆっくりした生き方したほうがええのんちゃうか。これが時流になりまっせ。乗り遅れたらあきまへんで。

 一寸ふざけたようなものになったが、大阪弁と言うか関西弁と言うか、そんなものでの言文一致を試みたのです。言文一致なんて気取っているが、正当と言うか純粋な大阪弁ではないかもしれない。下品だと言われるかもしれない。でも半分遊び心を伴った試みだったのだ。こんなこと続ける気はない。なぜなら、案外このこと難しかったのだ。「ですます調」の方が、ずっと楽なのだ。

 新幹線の新鮮輸送の事を考えていくと、その周辺には道路問題があることに気がついた。阪神間にこれまでのように身近な道路問題が無い今、鉄道と道路、その各々が要求する所、しない所などがあるだろう。そんなことも話し合うこともいいのではないかと思ったのだ。

 これで今回は終わらせてもらいまっさ、さいなら。

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『みちしるべ』**コロナ禍と猛暑と道路騒音(斑猫独語 78)**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月03日 | 斑猫独語

コロナ禍と猛暑と道路騒音(斑猫独語 78)

澤山輝彦

 コロナ第二波と猛暑にはまいった、まいったの毎日です。何の因果でこんな目にあわねばならないのかと、神様や仏様を怨んだりして罰あたりの日々を送っています。感染を防ぐための消極的保障無しのマスク手洗いの励行はしていますが、加齢難聴の私には「三密」回避では会話が難しいので、これは守りにくいものです。素敵なお方に「密豆」を食べようと誘われたら「三密」無視でつきあいますわ、こんなあほなこと言いながらも、もしもの時のために体力を温存しておこうと、食事や睡眠には十分注意をはらっています。

 さて私事ですが、転居先で道路騒音に悩まされている、と前号に書きました。でもこの悩み四六時中ではない、寝付いてしまえばそれまでだし、平日でも案外静かな時間帯があったり、(午後6時ごろからの1時間ほど)土曜、日曜は比較的静かです。まあ普通に走行している大部分の車は私が気になるような音は出していないのです。ということなどから、まあこの程度の音ならば都会の音であるとして受容しなければならないのか、など一寸弱気でもありますが、そう考えるようにもなったのです。

 だが先にも書いたように大形トラックや内外のスポーツカータイプの車の発進音には必要以上の音を出すものがかなりあります。百歩譲って業務用のトラックの音には少しは理解を示すことができるのではないか、これも甘い考えですが、ここまで流通の手段をトラックに頼らねばならなくなった時代に私も生きているのですから。でもエンジン音というのか排気音というのか、あれの静粛化対策は常に考慮すべきことであるのはあきらかで、このままで良いとは決し言いません。

 もう一つのスポーツカーなど遊びタイプの車のウォーンという音を自慢たらしくまきちらして走るやつ、あれは許せない。もはや車がステイタスシンボルである時代ではありません。町の中くらい静かに走れないのは運転者が馬鹿である証拠です。馬鹿につける薬はないと言いますから、悩ましいのです。やはり車に問題を帰さねばならないでしょう。

 自動車のエンジン音について私の少年時代の思い出話を二つ。一つはフォードのトラックに積まれていたV8エンジンの音です。一才年長の友達が運送会社のガレージにある社宅に住んでいました。自動車が好きで友達になったのです。遊びに行くといつもトラックの運転台に乗ったり、車体の下にもぐりこんだりして遊びました。戦後日本の自動車産業はまだよちよち歩きの時代、町を走る車は乗用車もトラックも外国製、主にアメリカ車の一寸古いのばかりでした。運送会社のトラックにも古いフォードかシボレーが健在でした。そんなフォードトラックが積んでいたⅤ8エンジンはやさしい軟らかい感じのする独特の響きがあり覚えてしまいました。街中で近づいて来るトラックがフォードだ、と言い当てることができたのです。

 もう一つは「くろがね」というオート三輪トラックで、「くろがね」のエンジンはV型2気筒で非常に静かな響きをしていたのです。子供心なりにこんな機械が作れるんだなあと思ったものです。というのも他のオート三輪はバタバタと大きな音をたてていましたから、町では皆オート三輪は「バタバタ」とか「バタコ」と呼んでいたはずです。

 自動車の騒音に悩まされていると言って数ヶ月の後に、全ての車がやかましいわけではない、これを街の音としてとらえては、なんて甘い考えをしてしまいました。私の感覚が騒音として捕らえ脳はそれを悩みとして植え付けた。その同じ脳がこれを許す方向の感情を産みだした、むむむ、同じ脳がこんな反応をする、悩みとは一体なんなんだろう。脳はどのような型で記憶処理をしているのだろう。私自身の脳がやったことですが、非常に妙な気がします。でもこれが人間の感情というもののあり方かもしれません。というところで、こんな考え方は、まったく私個人の感覚、感想、でありまして、決して他の各地の道路騒音問題にたいしてこんな考え方もあるのでは、なんてことは言えるものではないことを書き添えておきます。

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『みちしるべ』**馬車が行く(斑猫独語 77)**<2019.冬季号 Vol.105>

2020年02月24日 | 斑猫独語

馬車が行く(斑猫独語 77)

澤山輝彦

 モーツアルト(1756―1791)は1762年以降、父につれられてヨーロッパ各地を旅行します。馬車での旅です。当時の馬車にバネはついていたのだろうか、都市周辺以外はきっとひどい道で、揺れのひどい過酷な旅をしていたのでしょう。

 日本では江戸幕府は幕末まで殆ど馬車交通を認めませんでしたから、福沢諭吉が遣米使節団の一員として渡米、サンフランシスコで馬車を見て驚いているのです。万延元年(1860年*明治元年から8年前)のことです。この遅れ具合はどうでしょう。もっと早期に馬車交通を認めていれば、平賀源内の生きた時代もありますから、あの奇抜な源内は独特の馬車に関する何かを発明していたかもしれません。

 とにかく江戸時代から明治時代初期にかけては人力車、馬車などが道路を走る乗り物だったのでしょう。いや昭和21~22年頃、終戦直後は、まだ人力車で往診に出るお医者さんがいたのを見ています。馬車の出現と鉄道の発達は時を同じとするような具合だったので、鉄道の発達に伴い馬車交通、乗り合い馬車は地方の鉄道の駅からの便などとして残ったそうです。そういえば荷馬車、馬力とよんでいましたが、これは働いていたのを見て知っていますが、大阪市内で育った私は乗り合い馬車というものは見たことがない。ですから童謡、歌曲、歌謡曲などに出でくる馬車という言葉に私は常に違和感というようなものを持っていました。ロマンを醸す言葉に過ぎないと思っていました。

 でもやはり地方では馬車があったのです。岡本綺堂の青蛙堂鬼談という短編奇談集には、こんな風に馬車が出てくるのです。時は明治24年の秋とあり「……わたしも親父と一緒に横川で汽車を下りて、碓氷峠の旧道をがた馬車にゆられながら登って下りて、荒涼たる軽井沢の宿に着いたときには……」(木曽の旅人より) 。もう一つは乗合自動車があった時代らしいが「……第一に値段がよほど違うので停車場に降りるとすぐに乗合馬車に乗り込んだ……」。この馬車の馬は暑さと酷使のため途中で倒れます(水鬼より)。いかに奇談創作とは言え考証はされていると思います。

 馬車か、それがどうしてん、と言われるかもしれません。あるお方が馬車から手をふっておられたのをテレビで見た事に刺激をうけたのですが、一寸調べている内に、そんな馬車、人力車が交通手段になってきた時代にも、それらとの交通事故はあり、どちらが悪いかという意見があったり、車道、歩道の区別がないのがそもそも原因であるという、今でも通用する意見が当時の新聞に出ていたのを知り、我々日本人にはその当時の遺伝子が、今だどこかに残っているのではないかと思ったりしたのが、今回の独語になったわけです。

参考文献 斎藤俊彦;著 轍の文化史―人力車から自動車への道― ダイヤモンド社 1992

おまけ   日常的に使われている馬車という写真を、ウクライナ西部ベレホベにて、というのを2019年12月23日付け毎日新聞で、復活始めた「大ハンガリー」という特集で見ました。また「ニーチェの馬」というなんともいえない芸術的なハンガリー映画にも馬車が出てきました。

 

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『みちしるべ』**感動や余韻をぶち壊す者(斑猫独語 76)**<2019.春季 Vol.102>

2019年05月24日 | 斑猫独語
感動や余韻をぶち壊す者(斑猫独語 76)
 
澤山輝彦
 
 あちこちで、いろんな講演会が開かれる。その演者を新聞、テレビ、書籍・雑誌、などを通じその人の物の考え方、思想に共鳴するところがある。ではその本人を直接見てその語り口、声音、姿態などに触れようという、ややミーハー的な興味でもって足を運んだ講演会が何度かある。加齢性難聴のせいか、やや聴き取りにくい所があったりしても、まあ講演そのものにはほぼ満足するのだが、「しかし」がある場合が多いのだ。

 普通、講演会のプログラムは、開会の言葉、主催者の挨拶、そしてその日のテーマの講演、閉会の言葉、大体こんなものだ。講演を聴き終える。よかったなあ、さあこの感動を持ちながら家路につこうか、と思っていると、閉会の言葉がまだあったのだ。まあ会の次第であるから、ここで席を立ってしまうことは礼を失する。そう思う心は私にはまだあるから、はいそれは聞きます。

 だがこの挨拶が長すぎることが結構多いのだ。私はこれには我慢できないのである。講演会の感動をぶち壊す事、度々であったからだ。演者に感動し余韻にひたっている間もなく、閉会を宣言する者が何を間違えたのか、演者の論を下手に引き継いでぶちかます。時には閉会の言葉を述べる本人関係の仕事に関することなど、をおしつけがましく言いまくることもある。さっさと退席すればよかったのだがなあ。まあ少しは大人らしくしているのだが、だんだんいらいら心が励起され、ほとんど「ひっこめ」と言いたくなってしまうところまで来る。さすがにそれは言わないが。帰りの心はすっきりしなくなってしまっている。

 くそっ一寸一杯ひっかけていくか、となったり。こんな酒は体によくないと、ここは理性を働かせ、もう一度講演の感動を取り戻そうと試みるのだが、ほんとおさまらないよ。こんな例、皆さん体験されてないかなあ。こんな気になるのは俺だけかなあ。

 一度ある講演会の閉会の言葉を私がすることになった。その時、私は壇に上がり「良かったですね、この感動を余韻を大事に持って帰りましよう。」この一言で終えた。翌日、友人から電話があり、「昨日のあの終わりの挨拶は良かった、あれでいいんだ」と褒められたことがあった。

 講演会は演者がまず大事。主催者は全て縁の下の力持ちであらねばならないと私はおもっている。講演会のスイッチを入れスイッチを切る、そんな程度が一番いいのだが、これは極端だから、せめて二番か三番程度を考えていただき、それで締めくくればその講演会は大成功なのだ。
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『みちしるべ』**武庫大橋を見に行こう(斑猫独語 75)**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月08日 | 斑猫独語

武庫大橋を見に行こう(斑猫独語 75)

澤山輝彦

 東京都中央区にあるお江戸「日本橋」の上を走る首都高速道路を地下化する概要が決まったそうだ。(毎日新聞2018年8月26日社説)  都市景観や文化継承を二の次に進んだ高度成長期が今反省されているのだ。社説ではこの計画にかかる費用を問題視しており、景観と費用のバランスをという見出しがつけてある。大阪でも中ノ島の景観をぶち壊した阪神高速があるし、JR神戸駅周辺の高速道路も景観としてはいただけないものである。まあこれらのことは以下の橋とは直接関係は無い。

 川西市立図書館の廊下においてある各種情報パンフレットの中に、「今こそ巡りたい兵庫の近代歴史遺産150」というのがあった。発行は兵庫県歴史文化遺産総合活用推進実行委員会《長いなあ》とある。ほほうこんなに歴史遺産という物があるのか、面白いよく出来た資料である。その六つに折り畳まれた一番後ろページのNO.36に武庫大橋があったのだ。武庫川を渡る国道にかかっている橋、二度通ったことがあるが、ただ道路の続きとしての橋であった。この橋が歴史遺産として値打ちがある物だとは思ったこともなかった。パンフレットにそれはこう説明してあった。

 建築年代=大正15(1926)年=阪神国道(国道2号線)の改修に伴い架橋された鉄筋コンクリート造の橋梁です。側面全体を人造擬石で装飾し、高欄には花崗岩を用いるなど街路橋としてデザイン性の高いものとなっています。張り出しテラスを設け、美しいアーチ構造の橋は日本の「名橋」の一つです。

 そしてその日もう一つこの橋が出ている資料と出合ったのである。古本屋で見つけた「道を拓いた偉人伝――道をつくり、道を愛した5人の軌跡――」永富謙著、イカロス出版2011年という本、200円だった。目次を見れば、第4章 数々の名橋を世に送り出した増田淳人、その生涯 十三橋、武庫大橋、長浜大橋ほか、とあるではないか。武庫大橋が写真入りで紹介されているのはもちろん、阪急電車の窓から見慣れた十三大橋の写真もある。

 なぜこの日これまで意識もしなかった武庫大橋に関することが一度に目前に現れたのか。こういう偶然、それを単なる偶然と見ることは出来ず、因果関係で説明は出来ないが、何か『意味のある偶然がそこにはたらいている』とユング(精神分析学者 1875~1962)は考え、これを「シンクロニシティ」と名付けた。少々オカルトチックな感があるのだが、確かに何でこのことが今日偶然重なり起こるか、ということは何度も経験している。このたびの出会い、まさしくシンクロニシティであった。こういう出会いのあった武庫大橋だ。橋を渡り、そこからの風景を眺めるだけではなく、橋をじつくり眺めに行きたいと考えている。この橋については詳しくこの本で知ることが出来た。まさしく、歴史遺産である。

 ところで、武庫大橋の上流には阪神間道路問題が大きく反対運動として取り組んだ山手幹線が通っており、武庫川を渡っている。どんな橋が架かっているのだろう。気にしたこともなかったな。新旧見比べるフィールドワークとして例会を持ってもいいなと思う。今年、湾岸線の側道を越える例会を持った。なんか橋につきまとうようだが、これも橋、橋、大橋昭さん追悼の何かがなせるところなのかもしれない。

 土木建築物はその役目を考えれば必要以上の装飾は不要であると思うが、費用との折れ合いがつけば、設計者のセンスの生かし所としての装飾というか付随した何かはあってもいいのである。そこに文化が生まれる。

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『みちしるべ』**お正月初歩き 県道川西インター線(斑猫独語 74)**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月10日 | 斑猫独語

お正月初歩き 県道川西インター線(斑猫独語 74)

澤山輝彦

 川西市北部に第二名神(後、新名神と名を変える)が通る、それもインターチェンジ付きで、ということが私達に知れ渡ると、私が所属していた川西自然教室にとってこれは自然環境破壊以外の何物でもないと建設反対側にまわることになった。丁度、阪神間道路問題ネットワーク設立の呼びかけもあり、それにも参加することになった。そして道路問題を抱えている各地と意見交換し、共闘することを今日まで続けている。

 私達の反対運動も初期には熱いものもあったが、徐々に冷めて行き、現在の一部開通を迎えてしまったのだ。川西自然教室構成員にはそれぞれの立場、思惑にそって反対運動にとりくんできた、という自負はあっただろう。だがなんと言っても該当する道路用地の地権者の反対、それも強力なものがないかぎり、所詮我々はよそ者であり、その運動には限界がある、ということを私は実感した。

 よそ者の運動については、どこで、誰が何に対して誰と、ということを深く見定める必要があることは言うまでもない。まあ、そんなこんなの間に、川西インターチェンジは部分開通するは、インターチェンジへの侵入路である県道川西インター線も開通してしまう。新名神受入派にはめでたし目出度たしとなったのである。

 お正月は目出度いのである。朝から酒がのめるのである。肴の種類も多く、最後は雑煮でしめるのである。今年(2018)のお正月も私は目出度く過ごしたので、昼前には酒と餅の腹ごなしをすべく、昨年10月に開通した上記新道、県道川西インター線を歩いてみようという気をおこし、実行したのである。

 国道173号線東畦野交差点から西に向かってこの道は開かれた。173号線からインターチェンジ方面には地面は下りになるが、そこを新道は高架で入って行く。この部分、新道が出来る前の様子はまだ一部分残っているから、どんな所であったか見ることが出来るが、173号線から見下ろせば竹薮と湿地のような土地で踏み込めるような所ではなかった。道路は高架状でそこを西へ進むが、やはり池があった。気をつけて見るとそこは源田池橋と言う橋になっている。この橋から少し進んだところも、これまで踏み込むことの出来なかった小さな丘陵地帯を切り開いて道を通している所だから、代わり映えのしない風景ではあるが、新鮮なのであった。

 やがて左側に新名神が防音壁に覆われて現れ、右側には旧来の畑地や家並みが見えると、この道は地平に下り、元からの農道と交差する。ここには信号までついている。新道はここからまだ先へつづくのだが、酔いも醒め寒くなってきた私はここで新道から降りて、少し先になる一庫大路次川にかかる文殊橋へ行こうと、元からあるよく利用した道をとった。

 文殊橋のそばの河川敷で我々は月見の宴を開いたことがあるし、何度か自然観察もした。いま月見の宴が出来る河川敷はなくなったようだ。流れも一部分変えられている。頭上には高架道路、川の中に立つ高架道を支える橋脚。このあたりの景観は変わってしまった。

 これまでこのあたりへ東畦野交差点方面から来るのに使った道は、小型自動車のすれ違いがやや面倒である位の幅しかない道で、それでも車の量は結構多く、気をつけて歩かねばならなかった道だった。今日の腹ごなし新道散歩の帰路にはこの道を歩いたが、新道のおかげであろうか車が少ないのだ。車を心配する必要なくあたりをきょろきょろしながら歩くことが出来た。新道結構結構である。まてよ、お正月であることを忘れているようだ、週日の様子も見て判断しなくては。

 新道の高架部分からの眺めは視点が数メートル高くなるだけで、これまで見てきた家並みと背景の山々など、また一味ちがって見えるのも、これも私には面白かった。結構であった。こんな風に結構結構なんて言うのは私個人の興味からであり、決して自然環境を破壊してきた新道や高速道路の評価を高めるものではない。新名神全線開通後あたりには、また別の問題も発生するかもしれない、これからも道路問題には決して油断してはならないのである。

終わりに、萩原朔太郎『純情小曲集』より

小出新道  ここに道路の新開せるは
        直として市街に通ずるならん
        
われこの新道の交路に立てど

        さびしき四方の地平をきはめず
        暗鬱なる日かな
        天日家竝の軒に低くして
        林の雜木まばらに伐られたり
        いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
        われの叛きて行かざる道に
        新しき樹木みな伐られたり

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前回の訂正

 斑猫独語73に、阪神高速道路が大阪梅田で毎日新聞社の社屋をぬけて通ると書きましたが、あれは毎日新聞社とは別の会社のビルで、後日現場を見てわかりました。思い込みだけで書いていたのです。

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