白河から会津に向かう。
4号線を郡山まで行って西へ折れ、猪苗代湖の北に土津神社はある。
土津とは保科正之公の神号、彼が祭神である。
会津藩主となっても正之公は江戸に詰め、将軍綱吉の後見にあたった。
晩年に国元に行った際、この地を自身の墳墓の地と定めた。
領内の古社復興に尽力した正之公は磐椅(いわはし)神社の末社となることを望んだという。
その磐椅神社は土津社の少し西側にある。
もっとも末社たる土津神社の方が比べようもないほど社域も大きい。
保科正之の本を書いていて思うのは「藩祖が立派だと残されたものが困る」こと。
正之公はいろいろ詮索し欠点を探そうにも見つからない希有の人ではなかろうか。
死後のことについても整理し指示してから世を去った。
会津藩の皆は正之公の遺志によって縛られ続けてしまった。
神社は鳥居をくぐって真っ直ぐに参道が伸び拝殿本殿が並んでいる。
社殿は会津戦争の際、敗走する会津兵が火を放って全焼した。
明治に簡素なものに再建されたようだ。
会津藩が斗南に移封されると土津公の遺骸もはるか青森まで運ばれ、やがて戻ってきた。
境内の東の広場には土津公を讃える大きな石碑が亀の甲羅を台座として建っている。
日本一の大きさの石碑といい、碑文は山崎闇斎による。
このあたりの写真は本に掲載しようと思っている。
神社の東側を少し登っていくと土津公墓所。
真っ直ぐに並木の中を参道が伸びている。
墓所から見おろすと猪苗代湖の湖面がみえる。
保科正之が当地を気に入ったポイントという。
撮影を終えて会津若松市街で昼食。
「とん亭」で名物ソースかつ丼。
武家屋敷に寄ってみる。
西郷頼母邸を移築復元したもので家臣の屋敷としては相当に立派である。
昔、新選組に凝っていた10代の頃には会津びいきであったと思うが、年を取り歴史を縦横でみるようになってくると幕末維新の解釈も相当に変わった。
200年前の出来事とはいえ、平成の今日につながる流れは濃厚であって暗澹たる気持ちになってしまう。
会津はよく来る場所ではあるがどうも気分が鬱々としてくるのがつらい。
今日はこれから大内宿を通って東京に戻る。
大内宿は会津と日光を結ぶ街道の宿場町として設けられ、江戸初期には会津藩が参勤交代で使った。
地理的にみれば奥州街道に出るよりははるかに短距離ですむが、幕府によって参勤交代での使用を禁じられた。
以後は宿場というより山間の集落として歴史を刻み、近代化の影響を受けず残ったため今日歴史的価値を再評価され整備が進んだ。
外国人観光客にも人気のテーマパークである。
訪れてみると確かに江戸社会の原風景を感じられるいい街といえよう。
ここも本に使う写真を撮る。
保科正之公は会津に移封されると高遠のそば職人を連れて行き、会津のそば食が始まったともいう。
大内宿に高遠そばを出す店があった。
ここではネギを箸代わりにし、かじりながら食べる。
まだ陽は高いが日光に向けて南下、日光を起点にくるりと回ってきた格好である。
一泊二日の取材終了。