帰省中、中学校の同級生と会うことにした。
この原田君、歴史が好きということで城跡など回っているらしい。
早速、「織田信長の本」を進呈がてらどこかに行こうと相談。
彼の自宅の近くにある安祥城址を見に行くことにした。
城址は現在、安城市歴史博物館が建っている。
城は中世の武家館といった方がわかりやすく、ほんのわずかの丘に曲輪があり周囲に堀を巡らせてある。
本丸に今は大乗寺というお寺がある。
歴史館をしばし見物してから次は本證寺へ。
浄土真宗の寺院でかつて家康を悩ませた三河一向一揆の拠点となった。
境内は水堀で囲まれ隅に櫓が建っているのがそれらしい。
安城は我が故郷の隣町である。
岡崎の高校へ通う際、矢作川を渡るとやおら大平原が拡がり、地平の向こうに鈴鹿山系が裾までみえた。
大穀倉地帯であり尾張三河の繁栄の一翼でもあった。
歴史の視点でいうと松平郷から興った徳川氏は濃尾平野の東の端へ降りてきた。
司馬遼太郎さんはこれを「徳川の祖が平野に降りれば米が食えると土豪を誘った」というように解釈していた。
安城と岡崎の一部を得た三代信光がその本望通りに平地を本拠とした後は山を背にして西へ向かい、尾張の織田と抗争した。
7代清康が中興し、8代広忠、家康と続く。
その舞台が安城であり、我が故郷あたりで、久しぶりに走り回ってみると私の少年時代とさほど風景は変わるものではなく田畑があるか工場があるかであり、近代風になっているのみであり、空が相変わらず広い。
徳川家には安城譜代という一群があり歴史博物館の解説によれば「酒井」「石川」「大久保」「本多」「鳥居」「平岩」「渡辺」「内藤」をいう。
その後、徳川譜代衆は山中譜代、岡崎譜代を加え総称が三河譜代である。
もちろん安城譜代が最も古く誇りを持った。
徳川譜代の家を並べてみると戦国武将よりもむしろ同級生の顔を思い出してしまうのが可笑しい。
徳川の歴史はどうも辛気くさく人々の性格なども司馬さんが作品にしているように陰険にみえてしまう。
これは三河者の私などからすれば「正しい」。
三河者は疑い深く人を信用せずよそ者に心をひらかない。
また質素倹約を信条とするのはいまだにそうでありこれは美点なのではないかと思う。
三河譜代もその後の譜代衆も江戸に行って出世し、日本全国に散らばって大名となった。
それでも地元の三河者は相変わらず辛気くさく、その割には懐は豊かで呑気に暮らしている。
江戸の住民になった私からみれば実にうらやましい。
原田君と安城名物北京飯店の「北京飯」を食いながらそんなことを考えた。