今日の宿は美作市宮本の「武蔵の里五輪坊」。
リゾート施設で温泉なども併設の大型施設である。
別館の一室をあてがってもらった。
素直に2食付きにすれば楽なものをいつものように素泊まりにしてしまったのが運の尽き。
夜になったら食事をする施設がない。
仕方ないのでクルマで出かけてコンビニを探す。
ところが何kmも里を走り回っても何もない。
最寄駅は宮本武蔵駅という駅があるが無人駅で見事に真っ暗。
おかげで過去最大のひもじい夜を過ごした。
今日の宿は美作市宮本の「武蔵の里五輪坊」。
リゾート施設で温泉なども併設の大型施設である。
別館の一室をあてがってもらった。
素直に2食付きにすれば楽なものをいつものように素泊まりにしてしまったのが運の尽き。
夜になったら食事をする施設がない。
仕方ないのでクルマで出かけてコンビニを探す。
ところが何kmも里を走り回っても何もない。
最寄駅は宮本武蔵駅という駅があるが無人駅で見事に真っ暗。
おかげで過去最大のひもじい夜を過ごした。
日本海から南下して再び岡山県へ入る。
17:00前に何とか中山神社に到着。
ここは美作国一ノ宮である。
かつて吉備国はあまりに大きく備前・中・後ろに3分割された。
それでも足らず津山盆地一帯を美作国として分割した。
中山神社の創建は707年だとも美作国成立の713年だともいう。
社殿は尼子晴久の寄進になり、本殿が重文、中山造。
歩き回ってみると一ノ宮らしく古色然とした日本の堂々たる神社である。
ところが不思議なことに吉備国4国の中で中山神社だけが吉備津彦を祀っていない。
祭神は鏡作神であるといい天の岩戸伝説の鏡を制作したという。
また、伝説や謎解きによれば猿神とも桃太郎のライバル、「鬼の温羅」であるともいう。
それを裏付けるように裏手には奥宮のような形で猿神社なる祠がある。
吉備国はヤマト政権との確執など成立過程やその後の鉄資源を巡る利権といった想像を膨らませるネタに困らない。
中山神社もその渦中にあるようだ。
陽が暮れかけていたので急いで参詣。
伯耆国一ノ宮は倭文(しとり)神社。
鳥取県は東部が因幡、西部が伯耆である。
伯耆と出雲を隔てるのが大山、大山を西にみる高台に倭文神社がある。
「倭文」という古代の匂いのする名字にはなじみが薄いのであるがあちこちに倭文さんがいるらしい。
倭文氏は織物に携わる倭文部の職人を統率する氏族であるらしく栃木の鹿沼は足利といった織物の町に多く分布しているようだ。
祭神は天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)といいアマテラスの岩戸伝説の際、布を織った神様である。
また長らく倭文神社の主祭神とされていたのが下照姫、オオクニヌシの娘でこの地に嫁に来て出産に携わっていたという。
そのため、倭文神社は安産の御加護があるとのこと。
今日は社務所にどなたもおられず御朱印をいただけなかった。
神社の西側は東郷池、出雲山展望台がありここから西への眺めは素晴らしい。
伯耆国一ノ宮、宇倍神社は鳥取市国府町に鎮座。
宇倍神社の創建は大化4年(648)のことという。
祭神は武内宿禰命、神社社殿が祭神と共にたびたび紙幣のデザインに採用されたことからお金の神様になっているらしい。
神社は羽柴秀吉の鳥取城攻めで荒廃したところ、鳥取藩池田家の手によって復興された。
三徳山から北東の方角へ向かうと海に出たところが白兎神社。
隣の道の駅にクルマを駐めて丘に登っていくと神社があった。
祭神は因幡の白兎だそう。
由緒は判然としていないようだが神社自体は古代からあったらしい。
二日目は三徳山から。
三徳山は鳥取市東伯郡三朝町にある名刹。
投入堂で有名である。
岩盤のくぼみにへばりつくように建てられた投入堂はその名のように役行者が法力で投げ入れたとの伝説による。
参道の階段を登っていくと受付があり少し登った所に宝物殿があった。
収蔵物は修験道の仏像など、重文の蔵王権現蔵が素晴らしい。
本堂のところに登山事務所があり投入堂に行くにはここから登っていく。
「日本一危険な国宝」の異名のように投入堂に行くには相当の覚悟を要求される。
死んでもしょうがないくらいの気持ちが必要なようだ。
足元を固めていないとだめとのことだった。
帰りがてら投入堂を遠望できるところから遙拝した。
なるほど投げ入れたようにみえることに感心。
備前市の旧閑谷学校から岡山をかすめように抜けて高梁市に向かう。
先日行った備中松山城の山麓にある頼久寺に寄った。
頼久寺は安国寺のひとつでもあるが荒廃していたのを復興した松山城主上野頼久の名を取っている。
関ケ原の合戦後、入封してきた小堀正次・政一(遠州)親子は城が荒れていたため頼久寺にて政務を執ったようで庭はその折の遠州作とされている。
伽藍も庭も小ぶりでいかにも遠州という雰囲気ではない。
頼久寺を辞し北へ向かい高梁川沿いに行く。
JR伯備線の方谷駅に寄る。
ここは山田方谷の旧宅と塾があったところ。
人名が駅名となったのはここだけだという。
それだけ地元住民の尊敬の念篤いということだろう。
さらに山中を行くと新見市大佐に「方谷の里ふれあいセンター」。
大佐は晩年の方谷が隠居した地である。
「山田方谷記念館」があり方谷の遺品などが展示されている。
方谷は藩政改革を指導する一方、老中となった板倉勝静を補佐して国政への助言も行った。
将軍徳川慶喜が奏上した大政奉還の案は方谷が起草したといいその写しが展示されていた。
方谷本の取材撮影を終えて仕事に直結する部分が終了。
宿は真庭市のホテルを取った。
今年の出版計画は山田方谷、備中松山藩の家老である。
この人のことをよく知らなかったが、調べれば調べるほど偉大な人である。
地方再生の最も成功した事業の立役者といえる。
つい先日、備中松山城など行ったばかりではあるが、そのふるさとなど再度訪ねてみたくなった。
合わせて一ノ宮なども参詣してみたい。
ということで予定を立てて山陽道を行く。
まずは旧閑谷学校。
岡山藩池田光政公が寛文年間に創建した。
現存する世界最古の公立学校だという。
2015年に近世日本の教育遺産群として水戸の弘道館、足利学校などと共に日本遺産に指定された。
講堂が国宝、他に重文多数。
朝早く着いた。
山深い一帯が教育の場にふさわしく凜とした空気に包まれている。
瓦は備前焼で赤みを帯びどことなく異国風である。
ここは江戸期の藩校、儒教を教えた。
孔子の聖廟がある。
講堂の内部はお寺の内陣のように丸柱で囲われた独立した空間がある。
講堂の離れに学房跡。
本や資料などの保管庫だった。
跡地に洋風の建物がある。
かつて中学校として使われ今は資料館になっている。
行く道には石で出来た塀が続く。
かまぼこの様な形をしており学房の火除けとして造られたという。