扶桑往来記

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歴史コラム #37 北海のミッション・インポッシブル

2018年05月31日 | エッセイ:海の想い出

コラム37回目、前回の伊能忠敬に続いて間宮林蔵。

 

間宮は常陸国の生まれ、生家跡が資料館になっていて先日、取材してきたところ。

間宮も最上徳内と同様、農家の出、徳内と同じく数学に強く、視察に来ていた村上島之丞に見出されて弟子になった。

師と北海道に出張してたまたま伊能忠敬に会って才を認められ、測量具を譲られ伊能の残した蝦夷地測量を託された。

間宮はエトロフでロシアの襲撃に遭遇、和人たちは命からがら逃げた。

この時、間宮は猛然と徹底抗戦を主張、容れられず撤収する時は「間宮は抗戦を上申した」と役人から一筆取った。

そしてその度胸で名を上げてカラフト調査を拝命した。

間宮の冒険が始まる。

カラフトが島か半島か。

これを証明するにはくるりと一周してみるしかない。

間宮は誰よりも北へ行きアムール川河口まで行った。

この時、土地の者が大陸に渡って清の役人に会いに行くと聞いた間宮、猛然と連れて行ってくれと頼み込む。

かくして日本人が非公式に清の領土を偵察することになった。

 

晩年の間宮は幕府の隠密仕事を請け負ったらしい。

命がけの敵国潜入をこなした男である。ぬるい日本のスパイ業務などお茶の子さいさい。

そして間宮の報告により伊能忠敬の恩人、高橋景保がシーボルトに国禁の地図を渡したことが幕府に知れる。

どうやら間宮の名跡が功に見合わぬのは密告者との悪評らしい。

 

コラムのタイトルは無論、間宮をスパイに見立てた洒落である。

その人生をドラマにすればさぞいいスパイものになると思う。

 

間宮海峡の名を地球儀に記したのはシーボルト、幕末の北海をめぐる人間関係はおもしろい。

 


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